8-4


 2019年7月16日15時30分


 ○○県✕郡山間部。

 車を降り林道を歩く二人の姿。仲睦まじく手を繋ぐ姿はまるで母子おやこのようだが胸中は穏やかではなかった。


 

 このまま月下の元に連れて行く方が、花蘇芳にとっては幸せではないだろうか……。あの男であれば毎日が休みみたいなものだろう。寂しい思いをすることもないはずだ。

 

「カズオちゃん……お父さんのこと好き?」


「……嫌い。約束守ってくれないから」


「じゃあ、お母さんは? 好き?」


 花蘇芳からの返事は無く、握った手を強く握り返してくるだけだった。


「お母さんの事……嫌い?」


 返事はない。握られた手は尚も強さを弛める事はなかった。


「先生ね、本当はカズオちゃんのお母さんになってたかも知れないんだよ?」


 花蘇芳の顔が一瞬明るくなる。だがすぐに疑問を抱く顔になる。


「カズオちゃんのお父さんとお母さんが、知り合う前にお父さんと先生は一緒に住んでたの」


 もし自分が花蘇芳の母親だったら、先生というのは梁松だろうか? 昔、梁松に問い掛けた事を思い出す。


「でもね……先生が赤ちゃん産めなくなっちゃったんだ。だからお父さんから逃げちゃったの。お父さん優しいでしょ?」

 

 花蘇芳は俯いてはいるが、しっかり聞いているらしく、頷いている。


「その優しさが耐えられなかったの。だから逃げちゃった……逃げて、逃げて、逃げて……名前も、顔も変えて……」


 公平とならずっと一緒にいられると思った。しかし、享受を拒んだのは他ならない自分だった。

 花蘇芳にはまだ、取り戻すチャンスがある。その為には月下を説得しなければならないが……。



「先生がお母さんだったら、お父さん早く帰ってくる?」


 説得する術を考えていると不意に花蘇芳が喋りだした。


「先生はお父さんの事好きでしょ? お母さんはお父さんの事嫌いみたいだから……。先生がお母さんだったらお父さん早く帰ってくるよね? 」



 とんでもない勘違いをしていた。公平達の夫婦仲は良いものだと思い込んでいた。しかし、実際はこんな小さな子供に伝わる程、確執があるのだろう。


 花蘇芳にとって母親は牡丹しかいない、同じように、父親は公平だけだ。月下の元へ連れて行き説得する事は、父親と思っていた公平を否定することになる。恐らく月下の家には牡丹もいるはずだ。このまま連れて行けば花蘇芳が公平と会う事は無くなるだろう。

 説得などと甘い考えを持っていた自分に腹が立った。月下から話を持ち掛けられた時点で公平に相談しどこかへ逃げていれば……。


「お父さん……約束忘れちゃったのかな……」


 花蘇芳がぽつりと呟いた。


 

 ……約束。






「……ねぇ、カズオちゃん。お父さんと、先生とずっと……一緒に居られるおまじないがあるんだけど」


「ほんと?」


 花蘇芳の目には光が戻り、次に発せられる言葉を待ち望んでいる。


「うん……試してみる? じゃあそこに座ってみて」


 言い終わる前に指の先にある大きめの石の上へ腰掛けた花蘇芳の背後から覆い被さるように抱き付き、左手を花蘇芳の口元へ置き、耳元で囁く様に話す。


「カズオちゃん……おまじないは、ちょっと痛いかもしれないから痛かったら先生のここ噛んでいいからね」


 唇に左手の拇趾球部をあてがう。右手にはバッグの中から取り出された刃物を握り締めながら。


「それじゃ……目を閉じて。大丈夫、きっと公平さんなら覚えてくれているはずだから。三人でずっと一緒に居ようね」



 握られた刃物が幼い腹部へと侵入していく。同時にまだ小さな歯が左手に食い込む。

 苦痛に歪む顔からは嗚咽が漏れだす。それでも必死に我慢するその姿に涙が止まらなかった。


 早く楽に……その思いから腹に突き立てた刃物は首筋を裂いていた。





 どれ程の時間過ぎたのだろう。

 うるさく聞こえていた鳴き声はいつしか、ひぐらしの物悲しい響きに変わっていた。


 既に息絶えた花蘇芳を抱き、木の葉が揺れる中に異質な電子音が鳴る。

 

「おい! 何やってんだ! 時間過ぎてるぞ!」 


 月下は名乗りもせず、怒号を放つ。


「……カズオちゃんがいなくなって……でももう大丈夫なので……」

 

「早くしろよ!」


「あの……牡丹さんもそちらにいらっしゃるんですか?」


「あぁ?! いねぇよ! アイツは今県外に行かせてる! 見つかったんならさっさと連れてこい!」


 それだけ言うと一方的に会話を切られた。


「行かなきゃ……」





 携帯電話の電源を切り、車を走らせる。

 後部座席には、ただの器となった花蘇芳を乗せて。







 17時20分

 


 署内は騒然とした。

 

 血だらけの女が一人、正面玄関から歩いてくる。足取りは覚束おぼつかず今にも倒れそうだ。

 職員が足早に近付き声を掛ける。


「大丈夫ですか?! 救急車呼んで!」


 女は弱々しくも頻りに首を横に振る。

 

「違うんです……私……子供を……」


「お子さんですか?! 今どちらに?!」


 女は入口を指差し言葉を発する。その言葉で職員達に緊張が走った。


「……殺した子供が車に……」


 数名の職員が外へ駆け出す。同時に女は声を掛けてきた職員に拘束される。

 抵抗の意志が無いと分かり、次第に拘束は緩くなったが、手首に掛けられた枷は重く女を床に引きずり込むには充分の様だった。

 





 

 署長室の内線が鳴り響く。


「はい、梁松。どうした?」


「署長……女性が一人、子供を殺害したと出頭して来ています。調書作成のため勾留中ですが……」


「そうか、首尾は任せるが何か問題か?」


「いえ……被害者の男の子なんですが、名前を……松笠花蘇芳と証言していまして……松笠さんのお孫さんではないかと……」


「……まさか。確かにそう言っているのか?」


「はい……被疑者も幼稚園の教諭らしいので、間違いは無いかと」


「ちょっと待ってくれ……公平君に確認する」




 

 梁松は震える手で携帯電話を取り出す。数回しか発信したことのない名前を探し出し、発信ボタンを押した……。



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