7-5



 雨の中を一台の車が走る。

 助手席には真記、運転席では困り顔の男がハンドルを握っている。


「なぁ……本当に家ないのか? どこに行けばいいんだよ?」


「分からない……どこに行けば……どうしたら……ごめんなさい」


「……さっきからそればっかりじゃねぇか……くそっ、変な女拾っちまった」


 男はあからさまに悪態をく。


「どこも行くとこねぇならウチでいいか? とりあえず着替えた方がいいだろ」


 そう言うと男は濡れた真記を舐めるように見る。頭から大腿部をじっとりと。


 

 車は駅付近に立つマンションの駐車場に止まる。


「さぁ着いたぞ」


 男に手を引かれ、マンション内に入って行く。男の住む部屋は二階らしく階段を昇る。

 階段脇にある部屋のドアが開かれ、中へと促される。靴を脱いでいると男にタオルを渡される。


「とりあえず、風呂に入ったらどうだ? 俺は先に寝るから上がったら適当にリビングで寝てくれ。服はこれしかないけど我慢してくれよ」


 男はスウェットの上下を手渡し寝室に入って行く。


「ありがとうございます……」


 脱衣場に入り濡れた服を脱ぐ。下着は替えが無いため借りたタオルで挟み水気を拭う。


 蛇口を捻り、シャワーを頭から浴びる。

 纏わりついていた冷気が流れ、身体が表面から徐々に温められる。

 身体が温まるに連れ、雨の中の光景が鮮明に蘇り始める。声を押し殺し溢れ出る涙を必死に堪えた。

 



 冷えた身体も温まり、浴室から出る。

 男に渡された服に袖を通す。男が細身だったため、少し大きい程度で、動きを阻害するサイズではなかった。


「公平さんの服とは違うな……」


 風呂から上がるとリビングで、寝室へ向かった筈の男が湯沸し器からお茶を居れていた。


「熱いお茶、飲むか? しかし……あんな所で何してたんだ? 傘も差さないで」


 男はマグカップをテーブルへ雑に置き隣へ座る。その目は鈍く光っている。


「……言いたくないか、まぁいい。寝るときは、そこ使ってくれ。それじゃ、俺は寝るから」


 男はソファを指を差し、寝室へ向かった。背もたれにブランケットが掛けられている。


「ありがとうございます……」


 男が部屋を去った後、ソファで横になり今日一日の事を振り返る。

 ほんの数時間前の出来事がとても昔のことのように思えた。

 目を閉じると一気に体力を奪われる感覚に陥り、意識が霞んでいく。

 

 長かった一日が漸く終わろうとしていた。


 雨が降り続く。

 雨が地面を叩く音に混じり、静かにドアの開く音がなる。

 床の軋む音が近づく。鼻の奥でくぐもった息遣いが顔の近くで聞こえた。


 目を開くと男の顔が視界を埋めつくしていた。

 

 舌打ちをする男の手により、鼻から下を塞がれる。一瞬目の前の男の行動が理解出来なかったが、身に危険が及んでいることはすぐに察知した。

 


 全力で男の肩を両手で押し上げる。細身の男は簡単に体勢を崩した。

 よろめいている男の腹を両足で蹴り押し返す。男は苦悶の表情で吹き飛び、テーブルに叩き付けられる。


「ぐっ……んの……くそがっ!」


 男が何かを掴み投げた。

 その瞬間、左側頭部に激痛が走る。同時に身が焼けるような熱さを感じ叫ばずにはいられなかった。



 再度詰め寄る男に必死に抵抗する。出鱈目に拳を振り回す。そのうちの一振りが男の股間を強打する。

 うずくまる男を横目に、ソファの足元に置いていたバッグを持ち逃げるように玄関へ向かう。背後からは男の罵声が聞こえる。


 階段を飛び降り、駅前へ走り抜ける。丁度、停車中のタクシーを見つけ乗車する事が出来た。


「どうされたんですか?!」


「早くっ……早く出してください……」


 車は発車し、とりあえずの安心が確保できた。

 靴を掃かずに飛び出し、走り続けたため足の裏からは血が滲む。しかし、それよりも今は火傷を負った顔面が酷く痛む。

 患部を触れる事も出来ず、痛みに耐え苦しむより他なかった。呼吸は乱れ上手く喋ることも出来ない。

 意識が次第に薄くなっていく。


「お客さん、大丈夫ですか? 一番近い病院に向かいますけど……」


 運転手の問い掛けに頷く事が精一杯で、そのままシートに横たわってしまった。






 気が付くと白い天井を見上げていた。

 頭を起こすことが出来ず、目だけで左右の景色を確認するが左側が遮られている。


「気付いたの?! 良かった……心配したのよ!」


 遮られた視界の向こうから友人の声が聞こえる。


「帰ってこなくて、心配だったから電話したの。そしたら男の人が出て彼氏かと思ったら病院に向かってるって聞いて……」


 友人の話では、あのまま意識を失い病院に運び込まれたらしい。頭の傷は何針か縫っていて頭に巻かれた包帯はそのためのようだ。


「それから……」


 友人は言い辛そうに話を続ける。


「顔の火傷……痕が残るって……。薬を塗ってあるから余り触らないようにしなさいって言われたわ」

 

 そうか……包帯の上から左半分を触る。少し触れただけで痛みが走る。

 

「一応、真記のお母さんには連絡してるからすぐに来られると思うけど……」




 病室の外から、院内とは思えない程の足音が響き聞こえる。それはやはり、自分のいるこの病室へ駆け込んでくる。


「真記! あぁ……良かった……」


 母親がベッドの足元で崩れ落ちる。

 どうやら「病院に運ばれた」としか聴こえなかったらしく、事故や急性の病気だと思っていたようだ。


「……でもどうして、顔に火傷なんて?」


 友人と目を合わせる……。


「……料理中にお鍋を引っ掛けて、こぼしちゃって……すぐに救急車呼んでくれて、頭の傷は浅かったんだけど……」


「そう……公平君と何かあったのかと思って心配したわよ。仲直りは出来たの?」


 公平の事は友人にも話していない。二人の視線が注がれる……。

 答えは首を横に振ることで伝わり、それ以上二人から公平の話題が出る事は無かった。


 夕方の回診時に今後の予定を看護師から伝えられる。

 数日は経過観察の為、入院になるようだ。顔の四分の一を火傷しているのだから当然だろう。

 本来ならあの男が生活している、この近辺から逃げ出したかったが母親の手前、転院の話を聞く事が出来なかった。


「それじゃ私は一度戻るわね。必要な物を用意して、また明日来るから。本当にありがとうね。独りだと真記も心細いだろうから、良ければ一緒に居てあげてね」

 

 母親が友人にお礼をして、入院のしおりを片手に去っていく。友人も立ち上がり深々と頭を下げている。


「……さっきは聞けなかったけど、彼氏とはどうなったの? ちゃんと話出来たの?」


「……女の人と居たの。それ見たら何も出来なくなって、その場所から逃げちゃったの。後はさっき話した通り……。でもね、悪いのは私なの。勝手に期待して、勝手に飛び出して、勝手に戻って来て、急に話し合いましょうなんて…三ヶ月も音信不通だったらしょうがないよ……」


「嘘でしょ? 真記は悪くないよ! 本気で探すなら実家に一気にお母さんを訪ねるとかも出来た筈でしょ? それもしないのに他に女がいるなんて! そんな奴早く忘れちゃいなよ!」


 興奮する友人に向かい、人差し指を鼻の前に立て抑えるように注意する。

 はっとした友人が申し訳なさそうに周りを伺う。


「でも、本当に酷くない? 真記はそれでいいの?」


 声を潜め真意を訊ねてくる。


「……うん。もういいの。キクちゃんには幸せになって欲しいし、あんなに綺麗な人には私じゃ勝てないもの……こんな顔に顔になっちゃったしね……。それでね、連絡先も、履歴も、メールも全部消したいけど……お願い出来る?」


 包帯交換の際、鏡に映る自分の顔に愕然とした。こんな状態で公平が振り向いてくれる筈がない。

 それならばいっそ、このまま自分から身を引く事が一番公平の為ではないだろうかと思い友人へ携帯電話を手渡す。


「え……私? 本当にいいの?」


 静かに、笑顔で頷く。

 友人は少しの操作を終え、携帯電話を戻してくる。


「ありがとう……」


 手にした携帯電話の表面に雫が落ちる。曲面を伝い手首に濡れた感触を残す。

 その感触は鼻、頬、首筋と範囲を徐々に広げ友人に抱かれて初めて、自分が泣いている事に気付いた。





 雨の降る中、一匹の仔猫は一組の男女を運命的に結び付けいた。

 



 しかし、それは同時に一組の男女の縁をほどき二人を別の道へ進ませる事になっていた。









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