六章 want
6-1
2005年7月
夏休み前の放課後、職員室ではすっかり仲良くなっている、梁松と真記の姿があった。
「そうだ。あの後、キクちゃんから連絡あったの?」
梁松はよっぽど渾名が気に入ったらしく、本人がいない所でも使っているようだ。
「ありました…あのあとすぐに。また近くなったら連絡するって……」
少し顔を赤らめながら真記が答えている。
「織田さん……念のため言っておくけど、あくまで勉強をするために松笠くんにお願いしたんだから……」
「分かってますよ。ちゃんと勉強して、合格して恩返ししますから」
「分かってるならいいわ。でも……その間に何かあっても、私が知ることは出来ないわね」
梁松は一転してほくそ笑んだ顔を見せる。
「でも、どうして私に勉強教えるなんて話を受けてくれたんでしょう? 2回しか会ったことないし、先輩とは全然関係ないのに……」
梁松とは反対に、真記の表情は不安と困惑に満ちている。
「あぁ……そうね、私から聞いたって言わないでよ? 松笠くんね、中学の頃に事故でお母さんを亡くしてて……。私の夫が松笠くんのお父さんの元部下だったの。それで、何度も自宅にお邪魔する内に、私がお母さん代わりみたいになっててね……。私達も子供がいなかったから一時期はウチに居たこともあったのよ。きっとその時の恩を、感じてるんだと思うわ。私からのお願いは断ることはしないから……恩義なんて感じなくていいのにね」
意外だった。確かに会って間もない自分に話してもらえる内容ではないし、自分が見る時はいつも笑顔の公平にそんな過去があるようにも見えなかった。
それと同時に、以前公平の胸元に検察官のバッジがあるのを見つけた時の、梁松の喜ぶ顔にも合点がいった。
「……もしかして先輩って歳上が好きなんですか?」
自分の胸中では抑える事のできない公平の過去と梁松との、ただの教師と元生徒ではない関係に嫉妬と羨望が混じったような感情から不思議な事を口走っていた。
そんな胸の内を察した梁松は茶化すように言う。
「まぁでも、一番は織田さんが可愛いからかしらね」
そう言って真記の頭を軽く撫でた。
「もう! 誤魔化さないでください」
少し怒っている素振りを見せる真記だか、頭を撫でられ満更でもなさそうな表情に変わっていた。
それから数日経ち終業式の前夜、待ち望んだ名前が携帯電話の画面に浮かぶ。
軽く息を飲み、通話ボタンに指を乗せる。
「……もしもし」
「あ、もしもし。ごめん! 連絡遅くなって…今大丈夫?」
公平は申し訳なさそうに喋りだした。
声だけだが、表情は目の前で見ているように浮かんでくる。
その声だけで真記は嬉しくなり、少しからかってしまう。
「遅いですよー。結構待ってたんですからね。あんまり遅いから……嫌われたのかと思ってました。」
数回しか会ったことのない公平に言うことではないと思ったが、安堵感からか止めることが出来なかった。
「ほんとにごめん! 使えそうな参考書探そうと思ってたんだけど、僕の部屋を親父が全然片付けてなくて、一回始めたら実家の片付けもやり出しちゃって……って言い訳になっちゃうね……」
7つも歳上の男が自分に平謝りをしてくる。そう考えると真記も少し申し訳なく思えてきた。
「ごめんなさい。そんなつもりで言った訳じゃないんです。参考書探してくれてたんですよね? 私の為に……ありがとうございます」
自分の為に公平が時間を割いてくれていたと思うと嬉しさが込み上げてくる。
「ほんとにごめんね。明後日から夏休みだよね? いつから始める? 僕の方はだいたい終わったからいつからでも大丈夫だよ。あ、でも宿題もあるんじゃない? 今はどうなのか分からないけど……」
「えっと……3年生は受験があるので、宿題はないんです。その代わり1週間、朝から課外があって……なので、8月に入ってからでも大丈夫ですか?」
本当はすぐにでも会いたかったが、課外後に文化部が図書室を使用する予定が決まったいた。
自宅という考えもあったが、自分の母親のこともありさすがに気が引けた。
「大丈夫。8月からだね。それまで僕も復習しておくから。それじゃまた……今度はちゃんと連絡するから」
公平はまだ気にしているようで、自分に言い聞かせるように念を押す。
「分かりました。それじゃ……遅くなったら私から連絡しますね」
真記がいじらしく笑う。
電話を切り部屋には静寂が訪れた。
慣れた静かさも今日の真記にとっては心地よいものだった。
8月1日、午前9:50
正門前に真記が立っている。
今回は遅れることなく、5日前に公平から連絡があった。
梁松から図書室の解放時間を聞いていたらしく10時前に集合となっていた。
真記はしきりに前髪を気にしているようだ。すると後ろから不意に声を掛けられる。
「おはよう。今日から始まるの? 頑張ってね、勉強も……ふふふ」
梁松がにこにこと近寄って来る。
この2年間で梁松に対する印象は激変していた。鋭い目付きで冷たく、仕事一辺倒な、悪く言えば嫌いな教師だった。
しかし公平の件以来、勉強以外の相談もでき、面倒見の良い母親のように思える。
そんな梁松が自分の後方に視線を移し手を振りだした。
「おはようございます、先生。織田さんも、おはよう。また待たせちゃったみたいだね」
「おはよう。今日からみたいね。織田さんの進路がかかってんだから。頼んだわよ」
「おはようございます。私も頑張りますから先輩はそんなプレッシャー感じないでくださいよ」
「あはは、ありがとう。でも引き受けたからには、しっかりするつもりだから一緒に頑張ろうね」
心強い返事をもらい、それだけで真記は嬉しくなった。
「それじゃ、私は仕事があるから先に行くわね。お昼良かったら一緒にどう?ご馳走するわよ」
「あ、じゃあお言葉に甘えて……織田さんもそれでいい?」
「え? いいんですか?」
「もちろん。頑張る生徒を応援しない教師はいないわよ。それじゃ、後で迎えに行くわ」
そう言い残し梁松は足早に校舎へ戻って行く。その後ろ姿を追うように二人は歩き始める。
「そう言えば……△△短大の入試科目は国・英・数みたいだけど、苦手な科目ってあるの?」
図書室へ向かう中で振り返りながら公平が訊ねる。
「英語が苦手です……文法が分からないんです。関係代名詞とか……」
前回の模試も、英語以外の教科は
「英語か……僕も苦手だったなぁ。じゃあ、英語が挽回出来れば、A判定も夢じゃないね」
そうやって顔の横でガッツポーズを作る公平は、いつも通りの笑顔だった。
図書室に到着し、日陰の席に着席する。参考書、筆記用具をバッグから取り出す。
公平もこの日のために用意していた、高校時代のノートを取り出しながら、目当てのものを探しているようだ。
「英語は……これか。文法だとこの辺りが厄介なとこかなぁ」
ノートを真記に向け開く。そこには苦手だったとは思えない程の情報量が書き込まれていた。
「これ……すごいですね。全部覚えてたんですか?」
マーカー等の色は一切なく、黒一色で書き連なっている文字が真記の目に飛び込んでくる。
「先生が話すことをメモってたらこんな風になっちゃったけど、実際に使うのは……これとこれ位だよ」
公平が、黒一色の世界に色を挿していく。
その後も参考書とノートを見比べながら、あっという間に時計の針が重なる時間になっていた。
「そろそろ休憩にしようか。先生も迎えに来るだろうし」
一度図書室を退出し、職員室に顔を出すと梁松が誰かと電話しているようだった。
「うん……そうね、公平君には私から伝えておくわ。あなたは充悟さんに……あ、ちょうど公平君いるけど、替わる?」
二人を見つけた梁松は携帯電話を公平に差し出す。
「主人よ。お父さんの事で松笠君に話したい事があるみたいよ」
公平は何事かと思い、少し表情を曇らせながら携帯電話を受け取り耳に当てる。
「公平君、久しぶりだな。元気にしてるか?」
電話の向こうから聞こえる声は明るく、懐かしさを感じ、曇っていた表情は次第にいつもの顔に戻っていく。
「そろそろお父さんの誕生日だろ? それで李奈と話してたんだが、サプライズパーティーをしようと思ってな。俺は行けないから、こっちでお父さんに世話になった奴全員からビデオレターを送るつもりなんだが、公平君は誕生日に予定空けられるかい? 良ければ李奈を手伝ってくれないか?」
大学から現在まで、自分の事で精一杯で忘れてしまっていたが数日後には父親の56回目の誕生日を迎えようとしていた。
「分かりました。わざわざありがとうございます。父も喜ぶと思います」
「だといいけどな。充悟さん照れ屋だから、怒られなけりゃいいけど……。それから、李奈に聞いたけど、修習終わったらしいな。晴れて検事か、おめでとう。なんかあったら頼ってくれよ」
現役の署長に労われ、少しこそばゆいが、次の春からは検察官としての責任も同時に感じていた。
パーティーの一連の流れを聞き、昼食の為近くの定食屋へと足を運ぶ。古くからある店は公平も学生時代に世話になっていた。
そんな話を真記に聞かせながら歩く二人を梁松が後ろから眺めていた。
定食屋に到着し、それぞれが注文したものを受取り席に着く。
他二人よりも食事量が少ない真記は早々に食べ終えていた。
「さっきの電話、少し聞こえてたんですけど……お父さんの誕生日なんですか? サプライズっぽい感じでしたけど」
「来週、僕の父親が誕生日なんだ。それで、先生の旦那さんがビデオレター送ってくれるみたいで……パーティーで上映するんですよね?」
「そうよ。主人が署内全部に声掛けて、結構な量になったみたいで半べそで編集してたわ」
その姿を思い出したのだろう、梁松は笑いを堪え涙を拭う仕草をしている。
「あぁ、そうだ。織田さんも来たらいいじゃない。お祝い事だから人数が多くて、可愛い子がいた方が充悟さんも喜ぶだろうし。どうかしら?」
「え? 私ですか?」
突然の誘いに戸惑う。真記は公平の顔をちらりと見る。
「いいんじゃないかな。織田さんの予定がなければだけど。準備も僕達二人だけだと厳しいかもしれないし。手伝ってくれると有難いけど」
「行きます! あ……ごめんなさい」
喜びのあまり定食屋に真記の声が響いた。赤面し下を向く真記を梁松は優しい笑顔で見つめていた。
「さ、それじゃ午後も頑張って。日程はまた伝えるから。毎日図書室にいるんでしょ?」
「はい。その予定ですけど、織田さんが結構覚えが良くて、この調子ならそんなに時間掛からないと思います」
「あら。優秀ね。普段の授業もそれくらい真面目だといいんだけど……先生が良いからかしら?」
真記はまた何も言えず公平の顔を見るばかりだった。
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