8-2

2019年6月

 

 朝から体調が思わしくなく、朝のお迎えを終えると無理を言って早退させてもらうことになった。


 自宅へ帰る道中、送迎バスでの道順に公平の自宅前を通る事を思い出す。

 いけないとは思いながらもハンドルを握る手はその道順を辿っていた。


「……確かここを……あった……」


 外から見える庭には子供用のプールが置いてあり、プランターにハーブが数種類植えてあるようだ。いかにも牡丹らしい。

 同僚の話では、現在牡丹は在宅でデザインの仕事をしているらしい。

 屋内に人の気配を感じ、通り過ぎた所に停車すると間一髪で扉が開き、牡丹が出てきた。

 ルームミラー越しに様子を伺う。誰かを待っているのか、しきりに時計を気にしている。

 それにしても……普段は見ないような派手な格好をしている。脳裏に若干の不安がよぎった。


「そう言えば……あの日も真っ赤な傘だったな……」


 忘れてしまいたい記憶が蘇ろうとした時、見覚えのある車が真横を通りすぎた。

 あの男だ……。


「間違いない……車も同じだし。これからどこかに……?」


 牡丹は男の車に乗り込み、そのまま発車する。

 慌ててフットブレーキを解除すると、ギアを入れアクセルを踏み込み、男と牡丹を追い掛ける。

 しばらく尾行を続けると、おかしな事に気付いた。


「この道……私の家に向かってる……?」


 一瞬パニックになりそうになるが、このまま尾行していることがバレてしまう方が不味い気がしたため、近くのコンビニへ入り、歩いて自宅へ向かう。


 思った通り、男と牡丹は自分の住むアパートへ入って行く。それも自分の隣の部屋へ。

 二人が部屋に入った事を確認し、自室へ息を殺して入る。


 誰も住んでいない隣室から物音が聞こえる。言葉だけならばちょっとした怪談のようだが、現実では怪談よりも恐ろしい会話が、開け放たれた窓から微かに聞こえてくる。


「前言ってた話だが……どうだ? 協力してくれる気になったか? と言っても、もう人間も用意できて、あとはゴーサインを出すだけなんだけどな」


「私は良いなんて一言も言ってないじゃない。どうして勝手に進めてるのよ」


「あ? お前に断る理由なんてあるのか? なんだ? 言ってみろよ。旦那と不仲で寂しさ紛らわせる為に抱かれた男の子供を、育てさせてる様な奴に言い分なんてあんのか?」


 男は窓の外へ聞こえるように、わざとらしく大声を出しているようだった。


 暫くの静寂。

 降りだした雨が音を立てる。それから先は隣室から声が聞こえることは無かった。

 

 隣室の気配を気にしながら物音を立てずに行動していると、二人が部屋を出る音がした。

 ゆっくりとドアへ近付き、覗き穴から外を伺う。姿は見えないが、階段を下りる音が聞こえる。

 駐車場に面した窓から外を見ると二人が車に乗り込む所だった。

 そのまま床へ座り込み、大きく息を吐き出す。


「牡丹さんも何かあるんだ……そもそもあの二人の関係って何なんだろう……」


 再度窓から外を確認する。二人を乗せた車は既に駐車場から去っているようなので、自分の車を取りに向かう。

 

「少なくとも二人はカズオちゃんが産まれる前から、何かしらの関係だった……私が公平さんと牡丹さんが一緒にいるのを見たのが、10年位前……私があの男と知り合った時には牡丹さんはもう出産している……私に近付いて来た理由って初めから……」


 男の計画は4年前から実行されていた事に気付く。まんまと嵌められていた自分に酷く憤りを感じる。やはり自分があの日に飛び出しさえしなければ、公平は……。

 園では花蘇芳を見る度に、押し寄せる後悔の波が日毎に増すようになっていた。

 



 

 2019年7月11日

 

 蒸れた空気が肌に鬱陶しく纏わりつく嫌な夜。外では蛙の鳴き声と虫の羽音が響いている。

 突然、部屋の中に異質な電子音が鳴り響く。


「もしもし……」


 嫌な予感しかしなかった。こんな時間にあの男から電話なんて……。

 真記の予感は的中する。


「調子はどうだ先生? そろそろ実行してもらおうと思ってな。五日後に息子を家まで連れて来てもらえるな?」


「五日後……って、カズオちゃんの誕生日じゃないですか! そんな日にしなくても……カズオちゃんお父さんと一日遊べるって、ずっと楽しみにしてるんですよ!?」


「おぉ、さすが先生だな。誕生日まで覚えてるのか。仕事熱心でなによりだ」


 男は電話越しで腹立たしい程に茶化してくる。声色は変えずにそのまま続ける。


「お父さんと遊ぶ? それなら丁度いいじゃねぇか。誕生日に本当の親と再会なんてドラマチックで。いい役者を演じてくれよ、先生」


「ふざけないで! 公平さんの事に決まってるじゃないですか!」


 ……しまった。つい公平の名前を口走ってしまう。男が聞き逃す事はなかった。


「公平さん? なんだ、お前あの男とそんな仲なのか? そうかそうか……牡丹が知ったら修羅場になるだろうなぁ。あいつ嫉妬深いからな」


「違います……そんな関係じゃないです。入園式の時に挨拶したくらいで……」


「いやいや、いいんだ。男と女なんていつ何があるか分からないからな……。そうかそうか」


 男はいやらしい喋り方でジリジリと追い詰めてくる。しかし、公平に迷惑を掛けるわけにはいかない……。

 

「……お願いです。牡丹さんには言わないでください……」


「……俺はお前が仕事さえしっかりとしてくれたら、何も言わないんだよ。しかも借金まで免除してやるんだ。やってくれるよな? 五日後の17時に連れてこい。分かったな?」


「はい……」


「それじゃ、よろしく頼んだよ、先生」




 電話が切れ、身体を包む湿気は更に不快になっていた。じっとりとした汗が額に浮かぶ。


「どうにかしなきゃ……どうにか……頼れる人……私達から遠い……誰か……」



 一人の顔が頭をよぎる。


「そうだ……お父さんなら……」







 

 

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