5-3

 翌日の朝。


「なんだ、もう帰るのか? 仕事はそんなに忙しいのか?」


 身支度を整え、居間に顔を出すと父親が朝食を準備していた。


「あぁ……仕事は明日まで休みなんだけど、この前仔猫拾っちゃって、誰もいないから……流石にね」


「猫だぁ? 飼うつもりなのか? あんまり家にいないんだろ?ウチで良ければいつでも連れてきていいぞ。なんせ今日から寂しいジジイだからな」

 

 父親は大口を開けて笑っている。強がってはいるがやはり独りは寂しいのだろう。


「拾った時に色々世話してくれた人がいるんだ。前に飼おうとしてダメになったらしいけど……先ずはその人に相談してみるよ。それでもダメだったら、時々連れてくるから」


「そうか。まぁ、元気で頑張れよ。真記ちゃんの事は辛いだろうが、李奈ちゃんに頼んでおくから」


 明るく振る舞ってくれてはいるが、父親も落ち込んでいるのだろう。真記の事を心配している様子が伺えた。


「ありがとう。それじゃ……また」


 玄関まで見送りに来た父親に別れを告げ車に乗り込む。

 

 車を走らせながら、牡丹の名刺をどこにしまったかを思い出す。

 しかし、一ヶ月程経っているが、今更連絡しても良いものか。そんな事を考えながら家路を辿った。


 自宅に到着し、エレベーターに乗り込むと携帯が鳴り出した。梁松かと思い慌てて取り出すもそこには見慣れない番号が浮かんでいた。


「もしもし……」

 

 仕事関係の電話かもしれないので無視する訳にはいかないため、名乗りはせずに電話に出た。

「もしもし? 松笠さんのお電話ですか?」


 人当たりの良い、どこかで聞いた女の声だった。


「はい、そうですが……牡丹さん?」


「あら? 良かったわ。覚えててくれたみたいね。一ヶ月経っても連絡無かったから少し心配になってね。ちゃんと病院には連れて行ったの?」


 やはり牡丹の声だった。

 次の日に病院へ連れて行き、体調の心配は無かった事や避妊手術の決断に迷っていること、この一ヶ月で仔猫が大きく育っていることを伝えていると、部屋の前に着いた。

 

 昨日は父親の退職祝いで実家に帰っていた事を話ながら鍵を開け、部屋に入ると喉の炎症がすっかり治った仔猫の鳴き声と同時に、そこにあるべきはずの居なくなった使用者を待つ洋服やバッグが無くなっている風景が飛び込んで来た……。


「え……? なんで……?」


 理解が追い付かない。

 耳にした携帯電話の向こう側では牡丹が何かを言っているが、一切耳に入って来ない。


「……帰ってきてた? 一昨日まではそのままだったはず……」

 

 思考を巡らせぶつぶつと呟いていると、名前を耳元で叫ばれた。

 その声で我に返りその場に座り込み状況を説明する。


「……四ヶ月前に出て行った彼女の荷物が無くなってる。一昨日まではちゃんとあったのに。昨日帰って来たんだと思う……」


「本当に彼女さんなの? 空き巣とかじゃなくて? 他に無くなってる物はないの?」


 牡丹は他の可能性を探っているようだが、部屋から姿を消しているものは、真記の私物のみだった。それは二人を唯一繋いでいたものが全て消えて無くなってしまった事を意味していた。


「……なんだよこれ。話す機会すらくれないのかよ……どうしろって言うんだよ……」


 混濁した感情を嗚咽混じりに吐露する。父親と梁松から少しの希望を見出だしていたその日に、希望は奪われていた。


「一人で大丈夫? 今、近くにいるから部屋の番号教えて。話を聞く事くらい私にもできるでしょ?」


 

 電話を切って暫くすると、鍵を掛け忘れていた扉が勢いよく開く。


「大丈夫?! 入るわよ」


 ヒールを脱ぎ捨てる音が聞こえる。少し乱れた呼吸が近付いてくる。


 部屋に入り安否を確認すると、牡丹は安堵の表情を浮かべ近くに腰掛けた。


「あぁ……良かった。今にも死にそうな声だったから間に合わないかと思ったわ。見た感じ、そんな気力も無いみたいね。言い辛ければ言わなくてもいいわ。でも、話せることがあれば聞くわよ」


 決して良い状況とは言えない中、牡丹は落ち着いた声で諭すように話し掛けていた。その声に堪えていたものが決壊する。

 涙を流しながら、真記との思い出や何故こうなってしまったか、ありのままを吐き出していた。




「--そう……そんなことがあったのね。先生がどう思ってあなたを攻めたのか分からないけど……私は何も言えなかったあなたの気持ちも分かるわ。下手に同情されて安い言葉を掛けられるより、抱きしめられた方が救われる気がする……まぁ実際ここに彼女がいないことを見ると、それも出来なかったんでしょうけど」

 

 牡丹に言われる通りだった。真記からの告白に何も出来なかった。何も出来なかったのに、二人の関係が元の様になることをただ願っていた--。




「どう? 少しは落ち着いたかしら? いい加減、暗い部屋も飽きてきたわ。電気つけてもらっていい? せっかくの可愛い猫も見えないし」


 いつの間にか陽も落ち、窓からの光は無く手元の黒い塊さえ、体温が無ければ何か分からない程だった。手探りでリモコンを探し、電気を点ける。

 一瞬、ボヤけた視界は徐々に鮮明さを取り戻す。


「顔……洗ってきた方がいいわよ」

 肩を震わせながら促す。言われるまま洗面所へ足を運ぶ。鏡に映る自分の顔を見ると、牡丹が笑いを堪えていた理由が分かった。

 瞼は腫れ上がり薄く開いた目は充血し、鼻は季節外れのトナカイの様だ。

 蛇口から流れる冷水で赤く熱を孕んだ顔を洗う。

 

「ごめん……迷惑掛けたね。大分落ち着いたよ。ありがとう」


「そうね、顔色も良くなってるし、大丈夫みたいね。食欲はあるかしら? キッチン使っていいなら何か適当に作らせてもらうけど……」

  

 冷蔵庫に何か入っているかを確認するためキッチンへ向かうと、牡丹と腹を空かした仔猫もついてくる。


「そうか……お腹空いたよな。ちょっと待てるか?」


 空になった容器に病院からもらったフードを入れ、水を入れ替える。その間に牡丹は冷蔵庫から食材を取り出している。


「作っちゃうから、向こう片付けてもらってていい? すぐ出来るから」


 テーブルを片付けていると直ぐに食欲をそそる香りが漂ってくる。

 こんな気分でも腹が減るのは、牡丹が近くにいてくれたお陰だろう。

 出会った日から世話になりっぱなしだ。


「出来たわよ。食べましょうか、簡単なもので悪いけど、口に合うといいわ」


 短時間で作ったにしては立派な料理が並んだ。席につき料理を口に運ぶ。


「--美味い」

 世辞抜きに美味かった。思わず声に出てしまう程に。


「そう。良かったわ。どう? 美味しく感じるって幸せよね。フラれたくらいで落ち込むなんて馬鹿らしく感じないかしら。確かに今までの思い出は大切よ……でも縛られてちゃ前に進めなくなるわよ」


 牡丹に父親と似たようなことを言われ、半生に何かあったのか気になるが、詮索することは失礼だと思い、ただ頷くだけにした。


「……ところで、仔猫の名前は決まったの? せっかく飼うつもりなら、いい名前をつけてあげないと」


「それがまだ……実際、自分で飼えるかも分からないし、牡丹さんは飼えないかな?」


「この子はあなたの前に現れたんでしょ? それを保護したのもあなた。まぁ、あの状況なら仕方無いとは思うけど……。それでも、何かの縁だからあなたが飼う方がいいと思うわよ? この子はあなたに救われたんだから、きっとその方が喜ぶと思うけど。……でも、そうね。忙しい時に少しの間、預かるぐらいなら私を頼ってくれてもいいわ」


 牡丹は毅然とした物言いで、責任の重さを語る。その中にも優しさを感じるのは経験の差だろうか、弱っていた心に染み渡るようだった。


「それじゃ今までのお礼も兼ねて、何かしたいんだけど……近いうちにどこか食事でもどうかな? 時間があればだけど……その時まで名前決めておくから」


「あら、嬉しいわね。私はいつでもいいわよ。仕事探さなくちゃいけないから、夕方以降だと有り難いけど。でも、折角ならあなたの手料理がいいわ。この子も留守番じゃ可哀想だし」


 

 その後、お互いの都合がつく日取りを決め自宅で食事会の運びになった。

 夜も更け、日を跨ぎそうな時間になったため牡丹は帰宅する。自宅まで送る提案をしたが、牡丹に今日はゆっくり休め、とたしなめられたので仔猫を抱き玄関まで見送る。


「今日はありがとう。こいつも僕も、牡丹さんに救われたよ。本当にありがとう」


「そんなことないわよ。その子を救ったのはあなたよ。私は少しお節介を焼いただけ。今日のことは……そうね、美味しいご飯を期待してるわ。それじゃまた」

 

 牡丹は微笑み仔猫の頭を撫で、手を降りながら去って行った。







「--らしくないわね……救われたのは私も同じよ。笑うのなんていつ以来かしら」






 

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