五章 be

5-1

 2008年7月

 雨季も終わりが近づき、最後の小雨を溢す未明。


 


 真記が姿を消してからすでに三ヶ月が経っていた。

 仕事は相変わらず忙しく、この時間に帰宅することも珍しくはない。

 三ヶ月前ならば、こんな早朝になろうとも家には自分の帰りを待ってくれている人がいた。それだけで帰路を辿る心は明るかった。


 同じ県内とは言え繁華街に程近い環境は地元とはまた違い、土地勘も無いはずだ。

 失踪した当初は、僅かな期待を胸に父親と梁松にも連絡を取ったがそれも無駄だった。

 何か進展があれば連絡をもらえるようにしているが、未だ報告は何もない状況だった。


 


 自宅マンションに近づく。

 ふと脇に目をやると、電柱の影に動く姿があった。普段なら気付いても通り過ぎる程度だが、淡い期待を抱き電柱に歩み寄っていた。

 近寄りながらその動く物が電灯に照らされた影だと気付く。それでも確かめずにはいられなかった。

 電柱を覗き込むと人の姿は一切なかった。代わりに一匹の痩せた仔猫が雨に濡れながら公平を見上げていた。 

 鳴き続け、もう声も出ないのだろう。懇願するように口を開くが、その声は僅かな雨の音に沈んでいく。

 

 公平はしゃがみこみ、仔猫の体を撫でていた。

 この街か、それともどこか遠くで恋人がこの仔猫と同じ様に雨に曝されていないだろうか……。そう思うとこのまま放っておく事は出来なかった。

 仔猫を抱き上げようとした時、ふと自分の頭の上に雨を弾く音が聞こえる事に気付く。

 見上げるとそこには、自分と仔猫を濡らす灰色の空を遮る、真っ赤な傘が目に入った。

 慌てて後ろを振り返ると、一人の女が立っていた。



 「傘も差さないで猫を拾うつもり? あなたが風邪引いたら猫の面倒は誰が見るの?」

 

 女は細い肩を濡らしながら、自分と仔猫を庇ってくれている。


「すいません。職場に傘を忘れてしまって……でも僕の家近いんで大丈夫です。傘ありがとうございます」

 これ以上、雨に曝されるのは不味いと思い仔猫をジャケットに包み抱き上げ立ち上がりながら、礼を言う。


「大丈夫って……。猫飼ってるの? シャンプーとか餌とかケージとか、必要な物はあるの? この時間じゃコンビニくらいしかないと思うわよ?」

 

 言われて初めて気付く。衝動的に仔猫を連れ帰ろうとしていたが、自宅にこの仔猫を保護するための準備が何もない。言葉を失っていると女が呆れながら続けた。


「はぁ……。私の家にある程度揃ってるから、一緒に来てくれる? 時間は大丈夫? 仔猫用の餌なんてコンビニにはあまり置いてないでしょうし」


 女からの提案はありがたいものだったが、こんな時間に女性の家を訪ねることに少し抵抗を感じた。

「ありがたいんですが、こんな時間にお邪魔するのは……」


「気にしないで。エントランスで待っててもらうから。それに……あなたがそんなこと出来るようにも見えないし」

 女は少し笑っている。


「それじゃ、僕の家すぐそこなんでタオルとか持って来ます。背中気持ち悪いでしょ? 車出しますんで、少し待っててください」

 そう言って仔猫を女に渡し、自宅へ向かい走り出した。


「……一緒に家まで入って行けばいいのに。ねぇ? あなたは良い人に拾われて良かったわね」

 仔猫の鼻を撫でながら女が呟いていた。


 すぐに車で戻ってきた公平が助手席のドアを開ける。

「すいません。お待たせしました、どうぞ乗ってください」

 猫を受けとる様に両手を広げる。後部座席にはバスタオルが敷かれている。


「私もちょっと濡れてるから、猫ちゃん抱いたまま一緒に後ろに座った方がいいかもしれないわ。シート汚しちゃうし」


「あ、ごめんなさい。それじゃ後ろに……」

 

 そう言って一度車を降り後部座席のドアを開ける。

「中のタオル使って下さい」

 

 車に乗り込むとすぐに発進し、ルームミラー越しに喋りだす。


「本当にありがとうございます。助かりました。偶然見つけて、放って置けなくなっちゃって。家に餌も何にも無いのに連れて帰ろうとして……。僕、松笠っていいます。なんとお呼びしたらいいですか?」


 道順を伝えながら女が名乗った。

「牡丹です。天竺牡丹あまにぼたん。さっきはごめんなさい。少し強く言い過ぎたわ」


「いや、本当その通りだったんで、あのまま連れて帰っても何にも出来なかったと思うんで感謝してます。牡丹さんも猫飼われてるんですか?」

 

 真記が失踪して以来、人と会話することが仕事だけだった公平にとって、仕事以外で会話が出来ることに少しばかりの高揚を覚えていた。


 「前に一度、仔猫を飼おうとしてたんだけど仕事の都合で断念したの。餌もその時に用意してた物よ。そのマンションよ。ちょっと待っててもらえる?」


 牡丹が車から降りてエントランスへ向かって行く。

 公平は仔猫を助手席へ移動させタオルで濡れた体を丁寧に拭きあげる。

 マンションに目を向けると車の窓からは最上階が見えない程の高さがある。


「すごいなぁ……。あんまり歳変わらない位だと思うけど、こんなとこに住んでるんだなぁ……」

 ほとんど乾いた猫の背を撫でながら感嘆の声を漏らしていると、牡丹が戻って来るのが見えた。


「はいこれ。仔猫用のフードとシャンプー。あと、トイレ用のシートとキャリーケース。とりあえず今からお風呂入れて、昼には病院に連れて行ってあげて。病気とかノミがあるといけないから診察してもらって。それから……」

 牡丹が一枚の紙を出してきた。


「これ私の名刺。辞めちゃったから、店にはいないけど、番号は本物だから。もし病院に行けなさそうだったら連絡して。代わりに連れて行くから。今日からフリーターだし」


 夜の雰囲気が漂う名刺を渡され、癖のようにジャケットの胸ポケットから濡れた名刺入れを取り出した。


「すいません……今これしかなくて。濡れてて申し訳ないんですけど……」


 雨と仔猫の水分を吸い込んだ名刺を牡丹に差し出した。

 牡丹は、一瞬驚いた顔をしたがすぐに元通りになり仔猫に、別れを告げエントランスへ戻って行った。






 帰宅し仔猫を風呂に入れ、牡丹にもらった餌を与えると、満足したのかすぐに眠りについた。声が枯れるまで鳴いて雨に濡れていたのだ、体力も底を尽いていたのだろう。

 寝顔を見ていると久しぶりに笑っている自分に気づいた。

 とりあえずは一安心ですぐに睡魔に襲われた。





 --目が覚めた。

 時計の針はちょうどL字を描いている。

「うわっ! 寝過ぎた……病院大丈夫かな」

 自分の頭の脇ではふわふわの仔猫が背伸びをしている。体調は、悪くなさそうだが、牡丹に、言われた通りテーブルの上にある携帯電話で付近の動物病院を探すことにした。

 すると父親と梁松からの着信に気付く。

 まさかと思いながら、まずは梁松に折り返した。



 長い呼び出し音の後、留守番電話サービスに繋がる。用件を伺いたい旨を伝え、次は父親に折り返す。

 

 父親の声だ。しかし様子がいつもと違っていた。

「おう。元気にしてるか? 李奈ちゃんから連絡なかったか? 多分同じ内容だ。ただ……」

 

 そこで一度言い淀むのは恐らく……。


「見つかったのか? どこで!? 真記は無事なのか?」

 

 抑えられず口ごもる父親を問い詰める。


「まぁ落ちつけ。真記ちゃんは無事みたいだ。李奈ちゃんにお母さんから連絡あったらしい。こっから先は李奈ちゃんに直接聞いてくれ」

 そこまで言うと一度呼吸を整えるように息を吸い込んだ。

「公平……お前一度こっちに帰ってこれないか?」


 電話では話せないことでもあるのだろう。父親は珍しく真剣な声色だった。近いうちに帰ることを約束し、梁松に掛けなおすが先程と同様に機械音声が再生される。

 時計は僅かしか進んでおらず、今は授業中だと気付く。


 真記の無事は確認できたが、やはり父親の言葉が気掛かりで歯痒かった。それでも今はどうすることも出来ず、動物病院へ向かう事を選んだ。


 


 「はい。血液検査結果が出るまで詳しいことは分からないけど、重篤な病気は無さそうですね。少し喉が炎症してるからお薬出しておきます」

 

 獣医師から仔猫の症状を告げられる。別状はなく健康的のようだ。


「薬は粉薬なので、ペーストのフードに混ぜて飲ませてください。あと……もし繁殖させる予定が無ければ、避妊手術も検討されてください。女の子なので、半年後くらいですね。避妊の他にも乳腺腫瘍の予防など、メリットはありますが……よく考えられてください」

 

 会計を済ませ車に乗り込む。何事も無く胸を撫で下ろしたが、避妊手術という言葉が引っ掛かっていた。

 予防などのメリットがあるのは分かったが、人間のエゴで決めていいのだろうか……


 自分の子を産みたくても産めなくなる事もあるのに……。

 

 半年間しっかりと考えて決断しようと思い車を走らせる。



 自宅のマンションに到着し、後部座席から仔猫が入ったキャリーケースを持ち上げると携帯がなった。

 画面には梁松の名前が浮かんでいた。

 慌てて仔猫を元の場所に戻し、そのまま後部座席に座り電話に出た。



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