第4話


 ほどなくしてホームに電車がやって来る。私たちは廃墟に足を踏み入れるみたいな余所余所しさで車内に入り、手近なボックスシートに向かい合わせで腰を下ろして電車の出発を待った。

 やたら仲良しみたいな座り方になってしまったけれど、だからどうという感慨はなく、それが自然な流れだった。

 そしてやっぱり乗客は一人も見当たらない。

 私たちはけれどそのことにリアクションは取らなかった。慣れてしまったというのもあるし、この時間の電車に客がいないのが不自然なのか判らないのもある。

 こういうとき、なにか気の利いたことを言えれば良かったのだけど、残念ながら私にはその手のボキャブラリーが不足していた。どっかの偉人の言葉を引用したりしてこの状況にぴったりの格言を捻り出せれば、もしかしたらなにか違っていたのかも知れない。

 でも、どうだろう? こういうときにどんなことを言うべきで、それを言えばなにが変わるのかを具体的に想像できない。変わった方が良いのかも判らなければ、黙っていて良かったのかも判らない。

 車内の天井に設えられているサーキュレーターを眺めながらそんなようなことを考えているうちに電車が動き出した。車掌さんの声もホームの合図もなく、ふと背中に慣性を感じたときにはもう車窓の景色が流れている。

「……どう考えてもおかしいよな」

 だからどう、という感情を込めずにおじさんが呟いた。

「そうですね」と私は頷き、少し考えてから続けた。「でも、電車だからレールの先にしか行けないですよ。目的地には着くはずです」

「かもな。だけど、ひょっとしたらレールがどっかわけの判らない場所に繋がってるかも知れない」

「例えば?」

「ジェットコースターみたいにレールが空に向かって敷かれていて、電車が飛び出すとか」

「もしそうだとしたら、素敵じゃないですか?」

「大気圏あたりで燃え尽きるかもな」

「ファンタジーに振るなら振り切ってくださいよ」

 思わずツッコミを入れる私だったが、おじさんはわずかに口端を持ち上げただけで、それきり会話は途切れてしまった。

 けれども――どうしてだろう。

 このおじさんの沈黙は居心地が悪くない。

 私はなんとなく車窓を眺めるおじさんを観察してみるが、新たな発見があったりはしない。ただ、使い込んでいるらしいツナギや安全靴よりも、おじさん自身の方がよっぽどくたびれているように思えた。

 だらしなく座席に背を預けて車窓を眺める見知らぬ男が、雨の日に捨てられた子犬みたいに弱って見えるから不思議なものだ。欠伸してるときは老いた大型犬のようだと思ったのに。

「疲れてるんですか?」

 と、私は言った。

「見ての通りだな」皮肉げな笑みを見せ、おじさんは私に向き直った。「もし俺の様子を見て元気いっぱいだと思うなら、眼科に行くか頭の病院に行くべきだ。たぶん保険も利くだろうさ」

「どんな仕事をしてるんです?」

「ついこの間まで、止まってる工場の機械を整備する仕事をしてた。知ってるか? 大抵の工場ってのは定期的にほとんどの機械を止めて、整備だの修理だのをするんだ。普段そこで働いてるやつは休みになって、昔そこで働いてたような爺さんが何人か期間限定で戻って来て整備をする。その爺さんの手元に、寄せ集めの派遣だの二次下請けだのが入って来る」

 俺はその寄せ集めの方だった――と、おじさんは言った。

「機械の整備、ですか」

 なんとなく頷いてはみたものの、『工場』という言葉から私が連想できるのは、たまにニュースで見るような食品加工の工場だけだった。ベルトコンベアの上をなにかの呪術的儀式みたいに次々と商品が流れて行って、白い服を着た作業員が商品を目視でチェックしていく。私にはよく判らない基準を満たさなかったものが作業員の手によってコンベアから取り除かれる――。

 けど、たぶんおじさんの仕事とは全然違うのだろう。

 こてんと首を傾げる私に、おじさんは理解を求めない口調で続けた。

「よく知らない工場の構内の端にナントカ工業って会社のプレハブが建ってて、朝の七時半にそこに行く。で、今日はあの爺さんについて行けって言われる。爺さんの運転するトラックに四人くらいで乗り込んで――お互い自己紹介もナシでだ。ヘルメットに名前が書いてることもあるけど、支給品のヘルメットだったら名前は書いてない。そんで、わけの判らない道を時速三十キロ制限をきっちり守りながら進んで工場の意味不明な場所に連れて行かれる。例えばそこに据え付けられてるモーターを取り外してきれいに整備したりするわけだ。モーターっていっても重さ半トンちょいありやがるんだからな。それをチェーンブロックで吊り上げて台車に乗せて、いつの間にか駐車場で待ち構えてるユニックでトラックの荷台に載せて、建屋に戻ったら天井クレーンを使って降ろす。んで、モーターをバラして灯油をじゃぶじゃぶ使ってチェーンとかボルトとか外装の内側なんかを洗う。きれいになったらグリスを塗って元通り組み直して元に戻す。こういうのを何回も何回も繰り返すわけだ。なんの機械を洗ってるのか全然判んねーし、休憩中の爺さんの孫がどうのこうのって話だとかを聞かされて、魂が擦りきれるような気分にさせられる。そんなわけで、俺は疲れてる」

 そこまで一気に喋ってから、おじさんは「へっ」と鼻を鳴らして肩をすくめた。もちろん私は話の内容を一割くらいしか理解できなかったし、おじさんにしても私の無理解を承知しているふうだ。

 働くって、こういうことなのだろうか?

 私には上手く飲み込めない。たぶん、そういうふうに働かない人生だってあるのだろうし、おじさんみたいに生きていく人生もまたあるのだろう。おじさん自身にしても、そういうふうに働かない人生だってあったはずだ。

 でもきっと彼にとっては手遅れで、私にとっては早すぎる問題だ。分かち合えないのが判りきっているから理解を求めなかったのだろう。

「……大変なんですね」

 と、私は言った。

 おじさんは苦笑気味にもう一度肩をすくめて、駅の売店で買ったペットボトルの蓋を開け、ぐびりと喉を鳴らして液体を胃に落とした。仮にボトルの中身が水銀だったとしても、おじさんは同じように嚥下しただろう。

「おまえは?」ボトルのキャップを手の中で弄びながら、おじさんは言う。「青春ど真ん中の女子高生が学校サボって、よりによってツナギのおっさんに付いて来るんだ。なんかあんだろ?」

「誰にだってそれなりに、なにかはあると思います」

「誰かのことなんか俺は知らない。ついでに言えば、おまえは『誰か』じゃない。目の前で話をしてる、一人の人間だ」

 きちんとこちらを見て話すおじさんの眼差しには茶化すような気配がなかった。ほんの一欠片も。家族以外の人間からこれほど真面目になにかを言われたのって、覚えている限りでは初めてかも知れない。

 だって、友達とか学校の先生とかって、そんなに真剣に私のことを見たり考えたりするわけじゃない。本音とか真剣さはときに人を傷つけるからだ。私たちはだから当たり障りのないことを言って暮らしているし、たぶん、その方が生きるのは楽だ。

 でも、今はそうしなくていいっておじさんは言う。

 だから――だから、ちょっとだけ、本音を洩らそうと思った。

「……うち、母子家庭なんですよね。中学校に入るちょっと前にお父さん死んじゃって、お母さんは再婚する気があんまりないみたいで」

 珍しくもない話だ。

 私自身、自分のことを不幸だなんて思っていない。いや、そりゃあ、お父さんが死んだときは思ったけど、こうしている今は自分が不幸のどん底にいるとは本気で思っていない。

「……お母さんは女手一つで、私をちゃんと育てようとしてくれます。特にお金の面で不自由はさせないようにって、お小遣いも多めにもらってますし。それに、道徳的なこともしっかりしてるんです」

 すごい人だ。そう思う。

 同じようにできるかと言われれば首を横に振るしかない。誰かと愛し合ったこともなければ子供を産んだこともない私が、お母さんの苦労や愛情を推し量ることなんてできるわけがない。

「良い母親なんだな」

 他意のない言い方をおじさんはした。

「そうですね――」頷き、私は買っておいた紅茶のペットボトルを開け、一口飲んでから続ける。「――そう思います。でも、そのことが、ちょっと重いんです。たまにですけど……たまに、重く感じちゃうんです」

 例えば、私はお母さんが望むように幸せな人生を歩めるのか。あるいはお母さんが気をつけているように、まともな人間になれるのか。どうすれば幸せになれるかなんて知らないし、まともな大人なんか見たこともない。

 みんな、自分と自分の周りのことで手一杯だ。

 それでどうやって『まとも』な人間になれるんだろう?

 お母さんにとって恥ずかしい人間にだけはなりたくない。それは本心からそう思う。でも、その思いが――どうしても、たまに重くなる。

 重すぎる、なんてことはない。

 たぶん、五百グラムくらい。

 けれど……けれども、だ。

 支えるのが嫌になることだってある。

「――おまえの悩みはとてもまともだ。たぶんな」

 おじさんは極めて真剣な顔で言った。それから、手の中で弄んでいたペットボトルのキャップを締め直し、窓際に置いて小さく嘆息する。

「まとも、ですか?」

「たまに派遣先の職場で、別の派遣会社の連中が身内でいじめみたいなことをやってるのを見るよ。たぶん大した理由はないんだろうな。ちょっと声が小さいとか、気が小さいとか、そのくらいのことだ。でも俺はそれを眺めてるだけで、別になにもしやしない。まともな大人じゃないと我ながら思う。だからって正義マンになろうとも思わないけどな」

「それは……でも、当たり前じゃないですか」

「みんな本当に『自分と自分の周り』をまともにできればいいんだよな」自分の言葉をまるで信じていないような言い方を、おじさんはした。「だって、そうだろ。誰もが自分と自分の周りの人間をまともにできるなら、自動的に全人類がまともになれるはずだ。周りの人間の周りの人間の周りの……そうやって延々と続くんだからな」

 言うまでもなく、現状はそうなっていない。

 ということは――ほとんどの人間は自分と自分の周囲の人間にまともであれと願っていないのか、おじさんの理屈が間違っているのか、あるいはその両方という線もある。

 私にはみんなが『自分と自分の周りをまともに』と考えて生きているようには思えないし、仮にみんながそう思って生きたところで世の中が優しくなるとも考え難い。どうせみんなが『まとも』になったところで、この世界から争いがなくなることはないだろう。きっと誰かが自分の『まとも』を別の誰かにぶつけて、おそらくは自分はまともだと考えているはずの誰かが理不尽に傷つけられる。それは避けようのないことだ。そんなこと、まだ高校生の私にだって理解できる。

 おかしなものだ。人類が次の瞬間に絶滅すれば、ある種の平和がこの世に訪れるだろうなって簡単に想像できるのに、みんなが幸せになれる方法は私の頭ではどうあっても思いつかない。なにかシンプルで素敵なアイデアがありそうなものだけど。

「……難しいですよね」

 私は溜息交じりに呟き、紅茶のペットボトルをおじさんがそうしているように窓際へ置いてみた。電車が振動するたびにボトルの液体がゆらゆら動き、車窓に入り込む日射しを受け、揺れる水面がきらきら輝いていた。

 景色が流れて行く。

 でも、私たちはひどく淀んでいる。

 そんな気がした。

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