第3話


 乗車券を取って車内を見回しても非日常は去らなかった。

 バスに誰も乗っていなかったからだ。

 私とおじさんと、乗り口からは顔の見えない運転手。この三人以外誰もバスに乗っていない。

 ……こんなのって有り得る?

 私としては有り得ないように思うけど、本当のところは判らない。いつも乗っているバスとは逆に、このバスは町外れへ向かっている。もしかすると、この時間このバスはいつも人気がないのかも知れない。でも、それにしたって乗客ゼロっていうのは変じゃない?

 おじさんはそんな感覚など知らぬとばかりに一番後ろの座席へ向かい、どっかりと腰を下ろした。少し迷ってから、私はおじさんの隣に座ることにした。

 さして間を置かずバスが動き出す。通りを少し進んだあたりで行き交う人や車が目に入ったけれど、停留所に立っている誰かをバスが拾うことはなかった。誰もバス停に立っていなかったからだ。

 まるで此方と彼方が見えないナニカで隔たれているような、彼方から此方は見えていないかのような、そんな不自然さ。

 けれど、そのことを私はそれほど強く意識しなかった。ああ、『こっち』は亀裂の内側なのだと曖昧に片付け、バスの行き先を訊いてみることにした。

「どこまで行くんです?」

「とりあえず、駅まで」おじさんはくしゃみを我慢しているような顔をして答えた。「それよりおまえ、なんでしれっとバスに乗ってんだよ。学校行けよ。知らない人に付いて行っちゃいけませんって、もっと小さい頃に教えてもらわなかったのか?」

「『付いて来いよ』って言われてたら断りましたよ」

 そう答えてから、本当にそうだろうかと自分で疑問に思ってしまった。もしかしたら、私は自分でも判らないようなナニカが原因で、おじさんについて来てしまったのかも知れない。でもどうだろう。おじさんに付いて行かなきゃと思ったわけではない――と、思う。

 だけど亀裂の入った非日常の中で、ただひとり見つけた害のなさそうなおじさんに話しかけないでいられたかと問われたら、首を横に振るしかない。たぶんおじさんがもうちょっと小汚くたって話しかけたはずだ。

 もちろん他にも理由はある。隣に座って眠たげな顔で車窓を眺めているおじさんの横顔がちょっぴり好みというか、嫌な感じがしないのだ。それに、割と近い距離にいて嫌な臭いがしないのも大きいと思う。

 体臭というものは当人にとってもどうしようもない生理的相性がある。例えば一年の頃に同じクラスだったサッカー部の塩崎君は結構人気がある方だけど、私は彼の汗の臭いがすごく苦手だ。夏場なんかはわざとらしくシャツのボタンを外して汗に濡れた肌を見せつけるようにしていたけど、それが目に入る度に私はうんざりしていた。

 でも、隣に座っている三十三歳のおじさんからは、嫌な臭いがしない。着ている灰色のツナギにはなんだかよく判らない染みがあるけど、きちんと洗濯しているようで塗料とか油とかの匂いはしない。

 くわぁ、とおじさんが車窓を眺めながら欠伸を洩らす。年老いた大型犬みたいな欠伸だ。私もつられて欠伸してしまい、思わず口に手をやった。

 滑り込んだ非日常の内側だというのに、心地好いバスの揺れに身を預けているうちに気を抜けば眠ってしまいそうだ。それはもったいないけど、そうした方がいいのかもっていう気もする。だって、眠ってしまえばバスが私たちを知らない何処かに運んでくれるかも知れないし。

 もちろんそういうことにはならず、割にあっさりとバスは駅前に辿り着いてしまう。おじさんはツナギの尻ポケットから二つ折りの革財布を取り出してバス代を支払い、私はバスカードを使って駅前に降りた。

 そしてやっぱり人がいない。

 平日の朝、たぶんそろそろ八時くらい? スマホの電源を入れ直す気になれなかったので自信はないけど、この時間の駅に誰もいないなんて、さすがに不自然すぎるだろう。バスに乗ってる間は人も車も通っていたのに。

「なあ、とりあえず俺は電車乗るけど、おまえ、そろそろ学校行けよ」

 後を付いて来る野良猫に餌は持ってないぞと忠告するみたいな言い方をおじさんはした。自分は犬みたいな雰囲気のくせに。

「今日はサボるって決めました」と私は言って、ちょっと考えてから付け足した。「それで、たまたま電車に乗りたい気分になったんです。おじさんが電車に乗るのとは関係なく、そういう気分なんです」

「そりゃ大した気分だな」

 へっ、と私の屁理屈を鼻で笑うおじさんだった。でも私が付いて来ることに関してはそれ以上なにも言わなかった。

 駅のロータリーを横切り、設置されているなんだよく判らないモニュメントの脇を抜け、階段を上って駅構内へ。

 地方都市なので構内はお世辞にも広いとは言えない。券売機なんて四つしかないし、駅員の詰所と窓口が一緒くたになっていて、窓口からちょっと中を覗き込んでみれば詰所のテーブルやそこに乗せられている駅員さんが買ったであろうペットボトルなんかが見える。売店も一応あるけれど、学食の購買みたいに品揃えが貧相だ。

「……昼飯くらい買っておくか」

 ぽつりと呟いたおじさんが売店でおにぎりとペットボトルのお茶を購入し、店員のおばちゃんに千円札を渡しているのを眺めながら、私は違和感を覚えないことに曖昧な違和感を覚えていた。

 だって、駅は無人じゃない。

 それはバスも同じだった。バスの運転手はきちんとバスを運転していた。駅の駅員さんはちゃんと窓口にいるし、売店のおばちゃんは五十年前からそこにいたような顔をしてレジの横に座っている。

 なのに――誰かがいる感じが全然しない。

 駅員さんも、売店のおばちゃんも、薄いフィルター越しの『あっちの世界』にいるみたいだ。私も売店でペットボトルの紅茶を買ってみたけれど、商品の受け渡しをしている最中であってさえ、おばちゃんの存在感はひどく希薄だった。どんな顔をしていたのかも判然としない。

 おじさんはそういう感慨を覚えているのかいないのか、特に表情を変えず、券売機に千円札を吸わせていた。鈍行で、それなりに離れた先の駅が目的地だ。私も同じように切符を購入し、制服の胸ポケットに切符を仕舞っておく。そういえば電車はちゃんと時刻通りに来るんだろうか? バスのときは突拍子もない時間にやって来たけれど……。

 そう思った瞬間、『二番線に電車が参ります』というアナウンスが響いた。思わず私はおじさんを見たけど、おじさんの方はわたしを見てなかった。改札の上に吊られている電光掲示板を眺めている。ナントカ行き、みたいな表示がないのだ。っていうか、なにも表示されていない。

 おじさんは少し考えるようにして、でもほとんど躊躇なく改札に切符を食べさせてホームへ向かって行く。一瞬だけ私の方を振り向いて、好きにしろよ、みたいな顔をして歩き出すので私は慌てて改札を抜け、おじさんの隣に並んだ。階段を上って下りて、寂れたホームに到着する。

「良い天気だな……」

 ややあって、ふと、おじさんが呟いた。

 ホームの向こうには線路沿いの道路が延びていて、街路樹が春の日射しを受けて青々と輝いている。ちょっと風がそよげば葉がさらさらと揺れ、路肩の土埃が頼りなく踊る。きっと一瞬後に人類が絶滅してもそれらの情景は一瞬前と変わらず続くはずだ。十年後ともなれば随分と変わってしまうにしても。

「海まで行って、どうします?」

 気になって訊いてみる。でも、問いを口にした瞬間わずかに後悔した。だって海を見たいから海を見に行くのだ。海に行ってなにかをしたいわけじゃない。

「……海まで行けば、なんか思いつくだろ」

 というおじさんの回答は死ぬほど雑なものだったけれど、それでいいと思った。なんでもないような春のある日、ふと思い立って海に行く。日常の亀裂に入り込んだからには具体性など必要ないのだ。


◇◇◇


 でも、どうだろう?

 私が感じている日常の亀裂や非日常感って、どういうものなんだろう。

 いつもいるはずの人がいない、通りかかる車を見かけない、よく知らないおじさんと何処か遠くへ行くことにした――券売機に千円吸わせてお釣りが来るような『遠く』だけれど……でも、そういうものと私がいつも生きている日常との間に、一体どれだけ隔たりがあるのだろう?

 だって、その気になればいつだって私は学校をサボって『何処か遠く』へ行けるはずだ。重さ五百グラムのお弁当を持って。

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