第2話


「あの、えっと……なにしてるんです?」

 車の通らない車道を横切り、ベンチに腰かけているツナギのおじさんに話しかけた。もっといい台詞があったような気もしたけれど、なにか特別でユーモアに溢れた言葉が私の口から吐き出されることはなかった。

 ツナギのおじさんは少しの間、ピンと来ないような感じの表情で私を見て、ややあってから周囲をぐるりと見回し、バス停の証である標識を指差した。全部の動作に十秒くらい使ったと思う。

「バスを待ってる」

 と、おじさんは言って、けれど自分の言葉にあまり納得しなかったふうに首を傾げて眉を寄せた。

「そうだ、バスを待ってる。もうとっくにバスが来てるはずだ。なんでバスが来ない? 車も通ってないし、人もいない。なんだこれ?」

「何時のバスですか?」

「七時二十二分のバス」

 おじさんはツナギの胸ポケットからスマートフォンを取り出し、寄せていた眉の角度を変えた。私は改めてスマホの電源を入れる気にならなかったけど、たぶんもう七時四十分は過ぎているだろう。

「マジか」あまり感情を込めずにおじさんは呟き、スマホを胸ポケットに戻した。「ていうか、マジでこれ、なんだ? 夢か?」

「判んないですけど、なんかあんまり夢っぽくないですよね」

 そう言いながら、私はこれが夢でないことをほとんど確信していた。夢にしては前後が繋がりすぎている。

「朝っぱらから知らない女子高生に話しかけられるのは現実感ないけどな。こういう世の中だし、俺、捕まったりしないか?」

「捕まるようなことするんですか?」

「捕まるようなことをしてないのに捕まるような世の中だから嫌だなって話だろ。まあ、実際捕まってるようなやつはきっと捕まるようなことしてるんだろうさ。判んねーけど。でも、俺は子供に大人の都合だの欲望だのぶつけるようなことが嫌いだ。なあ、なんで朝っぱらからこんな話をしてんだ?」

「判らないですね」

「俺も判んねーよ」

 はぁ、とおじさんは溜息を吐いた。なんだかひどく疲れたような様子だった。でも私はそのことにはあまり注目せず、おじさんの声がちょっといいな、なんてことを考えていた。高くも低くもなくて、少し投げ遣りで、全然偉そうじゃないところがいい。たぶんおじさんは私の学校の先生の何人かよりは年上だと思うけど、どの先生よりも偉そうじゃなかった。

 なんだろう、こういう話し方をする人を知っている気がする。でもそれは、このおじさんではない――ような。

「これから仕事ですか?」

 私は私の内側に生まれたデジャヴめいた感覚を振り払うように、さほど知りたいわけでもない質問をした。

「だったら良かったんだけどな。これからバスに乗って、どっか遠くに行こうと思ってたんだよ。仕事なくなったから」

「リストラってやつですか?」

「違う。単に派遣の契約が切れただけ。一年以上働いたから失業保険の手続きはしなきゃなんねーけど……っつーか、子供相手にする話じゃないな」

 がりがりと雑に頭を掻き回し、おじさんはまた溜息を洩らした。

「あのぅ……おじさん、歳はいくつですか?」

「三十三」と即答するその口調には、なんの感情も含まれていなかった。少なくとも私にはそう聞こえた。「そういうおまえは、見た目ちんちくりんだけど、制服着てるってことは中学生だろ。学校は?」

「高校生ですけど」

 私は不機嫌そうな表情をつくったけれど、これは反射みたいなものだ。いつだって私は実年齢より幼く見られるのだ。なのでそういうときはちょっと気分を害したぞという顔をすることにしていて、いつの間にか特に嫌じゃないときもそういう反応をするようになっている。

「あっそ。学校行けよ」

「今日はサボることにしたんです」

 口にしてみると、本当に全く学校に行く気がなくなっている自分に気が付いた。たぶん今日はなにがあっても学校には行かないだろう。

「いいな」おじさんはわずかに唇の端を持ち上げた。「学校行ってる頃にしかできないことって、判るか?」

「え、なんですかいきなり。制服デートとか?」

「違う。大人になっても制服を着るようなやつはいる。その中の一部の人間は変態って呼ばれる。正解は『学校をサボること』だ」

「なんか、若者にしかできないことは『若さ故の過ち』みたいな感じですね。だったら社会人にしかできないことは『仕事をサボること』ですか?」

「いや、仕事はどんな小さい子供にも与えられるからな。毎朝玄関から新聞を取って来るとか、食べ終わった食器を下げろとか、部屋を片付けなさいとか。そういう仕事をサボることは誰にでもできる」

「まあそうかも知れませんね」

 あまり納得はできなかったけれど、言ってることの意味は判った。本当に判らないのは、なんだって私たちがこんな話をしているのか、ということだ。

「…………」

「…………」

 ふと沈黙が訪れ、私たちは示したように揃って周囲を眺め回した。やっぱり車が一台も通りかからないし、通行人も見当たらないし、何処かでスズメが鳴いているのに姿は何処にも見当たらない。

「キングの小説みたいだな」

 顎の無精髭を親指の腹でさわりながら、おじさんが呟いた。でも私にはキングがなんのことか判らず首を傾げるしかない。そんな私に「なんでもない」というふうに手を振り、おじさんは胸ポケットからまたスマホを取り出して時刻を確認した。そしてコイン投入口の存在しない自販機を眺めるような顔をしてスマホの電源を落とした。

「まあ、いい」

 私にというよりは、たぶん自分に対して、おじさんは呟いた。

 まあいいさ、と。

「どうせ用事があるわけじゃない。仕事もねーのにツナギ着て家を出ちまったから、どっか遠くに行って海でも見るつもりだったけど、そんな予定が潰れたからって気にすることじゃない。世の中にはもっと気にしなきゃいけないことがある」

「例えば?」

「地震のこと、その被害のこと、原発のこと、政治のこと、既存のものに変わるエネルギーのこと、もっと新しい思想信条のこと。より優れた考え方やスタイルについて人間は考えた方がいい。派遣で食いつないでる俺みたいな人間がみじめな思いをしても構わないって考えてる連中が多すぎるし、この世から戦争がなくなった例がない。世の中の頭のいいやつらはもっと素晴らしいことを考えるべきで、偉いやつらはそいつらに金をくれてやるべきだ」

「なにひとつピンと来ないです」

 本音だった。だってそんなもの、同級生の女の子がアイドルグループの一次オーディションに合格したというニュースくらい私にはどうでもよかった。

「まあそうだな」

 と、おじさんはとても簡単に頷いた。

「私としては、どっか遠くに行って海を見ることの方が『もっと気にしなきゃいけない』はずのいろんなことより素敵だなって思うんですけど」

「そりゃそうだ。やらなくていいことの方が楽しいに決まってる」

「なるほど」

 そうかも知れない。義務や責任を果たすことが無数の娯楽より楽しいのであれば、世の中はもっと違った形になっているだろう。

 でもどうだろう、映画や小説やコンピューターゲームが存在しない世界のことを、私はうまく想像できなかった。それならまだ全ての戦争が次の瞬間になくなってしまうことの方が幾分か簡単に考えられる。この世のあらゆる弾丸がマシュマロに変わり、全ての武器がクッキーやビスケットや飴細工に変貌し、いろんな場所に祝福の花弁が降り注ぐのだ。きっと三十秒くらいは世界平和が訪れるはずだ。三十一秒後に素手で殴り合いを始めるにしても。

 私が不出来な世界平和に思いを馳せ、おじさんが親指の腹で自分の顎髭を弄んでいるうちにバスがやって来た。呼吸と呼吸の間に滑り込むみたいな自然さで、見慣れた市営バスが目の前で停まってプシューと音を立てて扉を開くまで、バスが来たことの不自然さに気付かなかったくらいだ。

「……バスだな」

 と、おじさんは言って、立ち上がった。

「そうですね」

 と、私は頷いて、バスに乗った。本来乗るべきとは反対方向のバスに。

 だって、何処か遠くへ行きたくなったのだ。

 それは奇妙な非日常感のせいかも知れないし、鞄の中にある重さ五百グラムの弁当箱のせいかも知れない。あるいは、おじさんに付いて行かなければと感じてしまったからかも知れない。

 それとも、何処か遠くへ行くのがあまりにも魅力的だったのか――やっぱり自分のことなのに、上手く説明できない。

 どうしてだろう?

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