甲羅の上の私たち

モモンガ・アイリス

第1話


 目が覚めるとスマートフォンが点滅を繰り返している。アプリの地震速報だ。また夜中のうちに揺れていたらしい。

 私は寝ている間にベッドのそこかしこに散乱させていたパジャマだとかブラジャーだとかを寝ぼけながら掻き集め――何故か眠ってる間に脱いでしまうのだ――とりあえずパンツを穿いていることを確認してからベッドを降りた。

 窓を開ければ今日も快晴。春のやわらかな日射しが町に注いでいて、何処かでスズメが鳴いている。小学生の作文に書かれるような、平均的で牧歌的な朝。そのことがどうしてか私をちょっと憂鬱にさせる。

 私はスマホを手に取り、地震速報から辿って各地の震度を確認する。夜中に目覚めなかっただけあって、さほど大きな地震ではなかったようだ。震源地は近くも遠くもない。

 時刻は午前六時五十分。

 朝の支度を済ませて学校に行くのが、なんだか面倒だった。私と同い年の、たぶん何万人もの女の子がきっと同じような時間に顔を洗って歯を磨き、化粧水を顔に叩き込み、乳液をすり込んで、場合によってはファンデーションやチークや色つきのリップクリームを使って顔面を装飾するのだ。もちろん眉だって描いているだろう。そう考えると吐きそうになる。どうしてと訊かれても困るけれど。

 でも私はそんな気分を表に出すことなく一階に降り、お母さんにおはようを言って朝の儀式をいつも通りに済ませる。ただしリップを塗るのはごはんを食べてからだ。白いごはん、お味噌汁、ベーコンエッグにレタスとトマトのサラダ。お母さんは中途半端な化粧の私を見ていつも苦笑する。ごはんを食べてから身支度すればいいのに。そりゃ、私だってそう思うけど、どうしてかこういう習慣になってしまったのだ。

 私が朝ごはんを食べている間にお母さんは私のお弁当をテーブルに置いて家を出る。車のエンジンがかかって、軽自動車が家から遠ざかって行く。私はいつも通りに食事を済ませて洗い物を流しに戻し、ぬるま湯で口をすすいでからリップを塗り、制服に着替える。

 洗面台の鏡に映る眠たげな女が自分だということが、私は未だに上手く飲み込めない。だって、まだお父さんがいた頃は化粧なんかしていなかった。化粧をしなくたって世界一かわいい女の子だったのだ、私は。

 なんてことを考えながらリビングに戻り、テーブルの上のお弁当を鞄に詰め込む。五百グラムにも満たないそれが妙に重く感じるのは何故だろう。きっと、軽さというものは、重さなのだ。自分でもよく判らないけれど。

 そうして家を出ようとしたとき、また地震が起きた。

 立って歩いていても地震だと判るくらいの揺れだから、たぶん震度二以上。揺れている時間は短くて、「ああ、揺れているな」と思っているうちに世界の震動は収まってしまう。

 ぴたり、と。

 全てが停止したような錯覚。

 私はそっと息を吐き、同じくらい慎重に息を吸う。すぐにスマホが着信し、地震速報を伝えてくる。スマホを制服のポケットに放り込み、家を出て玄関の鍵を閉めた。そしてすっかり学校に行く気が失せているのを自覚して途方に暮れてしまう。

 だって、学校をサボったって行く場所なんてない。学校をサボって何処か行く場所のある女子高生なんて、そう多くはないだろう。

 仕方なく私は通学路を歩き、五分経たずにバス停へ辿り着く。去年から利用している、なんの変哲もないバス停だ。

 でも、なにか変だった。

「……あれ?」

 いつもなら同級生の誰かが同じようにバスを待っているのだけど、今日は違った。バス停に誰もいない。やたら古い腐りかけのベンチと、何日か前の雨ですっかり花弁を散らしてしまった桜の木がぽつんと佇んでいるだけ。

 おかしいな、と首を傾げながらバス停で二分くらい待ってみて、それから私はなにが変なのかを理解した。

 家を出てからここまで、人とすれ違っていないし、車も通っていない。

 ただの一人も、たったの一台も。

 ……そんなことって有り得る?

 判らない。有り得るのかも知れないし、そうでないかも知れない。ひょっとするとそんな偶然はこれまで何度も起こっていて、気付いていなかっただけかも知れない。

 けれども、このときの私はそういうことを考えなかった。

 なにか――いつもとは少しだけずれた何処かに迷い込んだような気がしてならなかった。そして私はそのずれが妙に魅力的に思えたのだ。どうしてかは判らない。そんなこと誰にも判るものか。

 春休みが終わって高校二年生になった私は、不意に訪れた日常の亀裂の中にひょいと飛び込んでみたくなった――たぶんそういうことだ。これ以上は上手く説明できない。


◇◇◇


 当然だけど私は不思議の国のアリスじゃないし、何処を見たって白兎なんか走っていなかった。

 だから、私はしばらく黙って突っ立っていた。

 訪れた日常の綻びが本物だと確信できずにいたし、そもそも、そんな確信なんて別に欲しくなかった。

 鞄の中からスマートフォンを取り出し、私はバスがやって来るはずの時刻が過ぎるのをただ待ち続けた。午前七時三十二分。あと五分だけ待ってバスが来なければ、本当に学校をサボって何処かに行こう。そう思った。

 でも、何処に?

 綻んだ日常から非日常にするりと移行して上手に振る舞える気がしない。きっとこういうときに女の子は何処か遠くへ旅立つのだろうけど、よく考えると私は何処かへ行きたいわけではないのだ。

 ひとつも素敵なアイデアが浮かばないまま五分が経ち、バスは来なかった。車だって一台も通りかからなかったし、通行人もいなかった。

 いつもの通学路のバス停で、やわらかな春の日射しが注いでいて、何処か遠くでスズメが鳴いている。そして誰もいない。

 午前七時三十七分。

 私はスマホの電源を落とし、歩き出した。とりあえずは家に帰る方向に。もし本当に非日常が訪れているならきっとナニカが起こるだろう。そうでなければ家に帰って玄関の鍵を開けて普通に学校をサボってしまおう。

 どちらが本当の気持ちなのか。

 自分自身のことなのに、上手く説明できない。

 世界に亀裂が走っていて、自分がその中へ滑り込んでいて欲しかったのか。そうではなく、非日常なんか気のせいで、安心して眠れる自分の家に帰ってしまいたかったのか――。

 どっちだろう? 

 どちらも別に嘘じゃないような気がする。

 それに、私がどう願っていようが状況とは関係なかった。歩き出して二十メートルも進まないうちに、対向車線側のバス停に人を見つけたからだ。

 灰色のツナギの、おじさん。

 一年生の頃には見かけたことのない人だった。対向車線側のバス停を毎日注意深く観察しているわけじゃないから確信なんか持てないけど、朝の七時半に小汚い作業着姿のおじさんが毎日ベンチに座っていたら、どう考えても記憶に残っているはずだ。

 歳は三十から四十くらい? 三十を過ぎた男性の年齢って、ちょっと判然としない。たぶん四十よりは下だ。油だとかペンキだとかの汚れが染みついた灰色のツナギにブーツっぽい安全靴、坊主頭にしてから三ヶ月くらい放置したような無造作な髪と無精髭。ほとんど反射的に『浮浪者』という単語が脳裏に浮かんだけれど、むしろ職場からちょっと抜け出して来ました、みたいな表現の方が近いのかも知れない。

 春の日射しを受けてぼんやりしているおじさんの姿はくたびれきっていて、もし私が野良猫だったら同情して顔をぺろぺろ舐めたくなったかも知れない。そういう雰囲気のおじさんだった。

 たぶん私は車道を挟んだ反対側でたっぷり六十秒は彼を眺めていたと思う。そしてその間もやっぱり車は通りかからず、私とおじさん以外の人もいなかった。百秒くらい経ったところでツナギのおじさんは私に気付き、ぐるりと周囲を眺めてから欠伸をひとつ洩らした。それからおじさんはまだ私が自分を凝視していることを確認し、不思議そうに首を傾げる。

 そりゃあ、女子高生が車道を挟んだ向こう側から自分をじろじろ見てくるのだから怪訝に違いない。

 私は右を見て、左を見て、もう一回右を見て、やっぱり車なんか一台も通らないことを確認してから車道を横切った。どうしてかって言われても困る。なんていうか、そうするのが自然な気がしたのだ。日常に亀裂が走ったら女子高生がツナギのおじさんに声をかけるのが自然なのだ。

 ……まあ、たぶん。


◇◇◇


 そうして私たちは世界の果てに旅立つことになったのだけど――こんな話を聞かされても、たぶんなにを言ってるか判らないと思う。私だって正直なところなにを言っているのかイマイチ判らない。

 でも、本当にそうなのだ。

 四月のある朝、ツナギのおじさんに声をかけたら世界の果てまで小旅行することになった。これはそういう話だ。

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