七章 渾融のパトス 4
また平日がやってくる。学校に行き、虐げられる時間だ。
しかし、そんな苦痛の時間も今日で暫しの別れを迎える。明日から夏休みが始まる。宿題を押し付けられはしたものの、休みに入ればそれ以上の嫌がらせを受けることはない。
両親と外出する約束もしている。あまり強い期待はしていなかったが、いざ夏休みになると楽しみに思う気持ちが確かにあった。長期休暇を前に愛の気分は僅かに高揚していた。
そんな風に浮かれていたのがまずかったのかもしれない。
「――馬鹿にしてんじゃないわよ!」
父の手伝いを終えて、家に向かう車中でのことだった。
車が発進した瞬間、茶髪の女性が声を荒げたのだ。
「当てこすりのつもり? 自分達は幸せな家族だとでも言いたい訳? そうやって、私を教授から遠ざけようとしているんでしょう!」
女性が愛を怒鳴りつけるのは今に始まったことではないが、今日はいつにも増して激しい。普段ならばこんな大声を出すのは後半、苛立ちを我慢できなくなってからだ。彼女の唐突な激昂に、愛は怯えるより戸惑いを感じる。その態度も彼女の怒りの琴線に触れたらしく、
「何訳分からないみたいな顔してるのよ。教授と話してたじゃない、嫌味ったらしく! 家族三人で天体観測? 馬鹿みたい!」
彼女の叱責を聞いて、愛は漸く自らの失敗を悟った。学校から解放された気持ちのまま、その場に彼女がいるということを失念して父と夏休みの予定について話してしまったのだ。
彼女が向ける憎しみの矛先は、厳密には愛ではない。父を自らから奪う(と彼女が思い込んでいる)家族の存在だ。愛はその構成員の一人に過ぎない。
即ち、愛達家族の幸福は彼女にとってタブーだと言える。
「可哀想な教授。流星群の観察なんてそんな子供っぽいこと、教授が楽しみにしている筈がない。娘の前だから仕方なく待ち遠しいふりをしているのよ。親の愛を知らないあんたを哀れんでね。全く、本当にあんたは教授の足を引っ張ることしかできないのね……!」
彼女の言葉は全て的外れだ。それでも、こうも断言されてしまうと、本当にそうである可能性を想定しまう。父と母が愛し合っておらず、愛は間違って生まれてしまった子供で、愛されず、ただ哀れみを以て接されている。……考えただけで気分が悪くなった。
「何その顔。そうやって被害者面して教授の同情を買ってる訳? あんたにそんな資格なんてない。あんたがいなければ教授は自由なのよ。あんたなんて死ねばいいのに。そうね、死ねばいいんだわ! 教授と私の邪魔をする奴はみんな! あんたも、あんたの母親も!」
彼女が吐き出す呪いの言葉は酷く空虚なものだ。現実と空想をない交ぜにして、思い込みと間違った憎悪の上に立脚したそれには、何の力もありはしない。
しかし、この時の愛にとってはそうではない。ただの妬みだと分かっていても、無意味だと分かっていても、母を貶す言葉を看過できる程に精神的に成熟していなかったのだ。
とはいえ、目の前の女性への恐怖を植え付けられ、はっきりと言葉や行動として反抗することのできない愛にとって、目付きを険しくすることで精一杯だった。
女性は走らせていた車を路肩に寄せて停めると、左手で愛の髪を引っ張り、右手で愛の頬を思い切り引っ叩いた。
「っ……!」
頭皮を引き伸ばされる感覚の直後に、鋭い衝撃と熱が叩き付けられる。この感覚が痛みだという理解すら一瞬遅れてやってきた。叩く、というような表現では生温い。皮膚の表面だけの痛みではなく、内部まで届く衝撃は張り倒すと言った方が正しい。
「睨んでるんじゃないわよ……! 悪いのは私とでも言いたいの? ふざけんじゃないわよ! 悪いのは全部あんた達じゃない! 馬鹿にしてぇ! 死ね! 死ね! 死ねえ!」
彼女の異様な様相と痛みに怯み、愛は今度こそ眼差し程度の抵抗すらできなかった。
この後に繰り返される平手に対しても、身じろぎ一つ許されることなく、この日の愛は顔を腫らして自宅へ帰った。
研究室から帰った愛は父が帰宅するよりも早く床に就く。父の研究を手伝った日は、夜に家で父と顔を合わせることなく、次に対面するのは翌朝になる。父が帰るのは愛がとっくに眠りに落ちた深夜だ。この日も、いつもと同じように父を待つことなくベッドに入った。
しかし、普段と異なることが一つだけあった。真っ赤に腫れた頬の痛みだ。
研究員の女性はまるで力加減などしていなかった。大人が本気で子供を殴った場合、殴られた側の痛みは相当なものだ。切ってしまった口内の血はどうにか止まったが、頬の腫れも痛みも全く引かない。氷で冷やしてみたもののまるで効果はない。
ずっと応急処置をしていては、そのうち父が帰ってきてしまう。父に心配をかけたくない。
痛みで思考が纏まらない中、愛はとりあえず痛みに耐えながら布団を被ったのだった。
「痛い……痛い……痛い……」
ベッドの中なら誰も見ていない。誰にも迷惑も心配もかけないし、泣いたからといって殴られたり蹴られたり教科書を捨てられたりしない。
愛は泣いた。溜まっていた鬱憤を全て流すように、たった一人で人知れず涙を流した。
泣いているのが痛いからなのか、悲しいからなのか、悔しいからなのかも分からない。それこそ体中の水が尽きるまで永遠に零れ続けるかと思われたが、しかし終わりはやってきた。
扉を開ける音。愛が鼻をすする音を除いては静寂を保っていた部屋に、突如現れた異音は愛の肝を冷やすのに十分な効果を挙げた。
一瞬で理解した。父が帰ってきたのだ。
「あれ、まだ起きてるのか?」
音に反応した愛の身じろぎを父は見逃さず、声をかけてきた。愛は声を返さない。返答すれば鼻声に気付かれる。このまま布団を頭まで被ってやり過ごすしかない。
「あー、びっくりしたよね。実は帰りが遅い日はいつも愛の寝顔を見てから寝ることに……、愛? 眠くて機嫌悪いのか? 起きてるなら顔を見せてよ」
父が異常に気付いた。どうする。誤魔化しきれない。どうする。どうするどうする。
きっと、毛布を掴んで離さなければ、愛の強い拒絶を感じた父は引き下がっただろう。翌朝尋ねられたら眠くて仕方なかっただとか、寝惚けていて憶えていないとでも答えればいい。しかし、痛みと焦りで冷静さを欠いた愛に、その答えを導き出すことはできなかった。
父の手で優しく毛布は剥がされ、涙と腫れで真っ赤になった愛の顔が露わになった。
後日、研究員の女性は大学院を辞めた。
愛は女性から受けた仕打ちを父に明かすしかなく、それを聞いた父は愛が見たことがない程に怒りに震えていた。
翌日父は女性を呼び出して叱り付けた。いや、教授としての叱責ではなく、一人の父として怒りをぶつけた。女性は父に愛の言葉で訴えたが、火に油を注いだだけだった。愛はその場に居合わせなかったが、父から聞いたその内容だけで壮絶な修羅場だったのだと察した。
父は女性に退学するように勧告した訳ではないが、父に拒絶された彼女には、もう研究を続ける意味はなかったのだろう、自ら退学を願い出たのだという。
このことは父以外の研究員には知られていない。愛が父に黙っているように頼んだのだ。助けてもらえたことは嬉しいが、父に心配をかけたことは心苦しかった。ハーミーズや他の研究員にまで心配させたくはなかったのだ。
愛は頬の腫れが引くまで研究室に行くのは休むことになった。父の手伝いができないのは残念だったが、日々降りかかる恐怖が一つなくなったことは、愛の心に平穏をもたらした。
愛の夏休みは確実によい方向に向かっていた。
それでも、平凡な小学生の夏休みと比べれば、ハードだと言わざるを得ない。何せ、クラスメイト三人の宿題をやらなくてはならないのだ。無論、愛からすればレベルの低い課題ではあったが、単純に分量が多過ぎた。
女性の所業が発覚してから数日経過し、愛は冷房の効いた家で宿題と向き合っていた。
辟易しつつも、愛は気合を入れる。今日は母と約束した天体観測の日だ。残念ながら母は退院できていないが、病室からでも星空は見える。憂いなく約束を果たす為、早く今日のノルマを果たしてしまおうと、愛は鉛筆を走らせた。
昼食を終えて、食後の眠気を我慢しながら愛が悪戦苦闘していると、玄関に付けられた鈴が音を立てた。今日、父は早めに帰るとは言っていたが、昼過ぎは流石に早すぎる。
愛は首を傾けつつ、玄関に向かおうと立ち上がる。しかし、愛が自室から出るよりも先に、
「愛! 愛! た……っ、大変だ――!」
ノックもせず、やたら慌てた様子の父が駆け込んできた。
「でん、電話が……! 大変だって、電話が来て! それで……っ」
「落ち着いて、パパ。何があったの? ゆっくりでいいから、順番に――」
とにかく、できる限り緩やかな語調を心がけ、愛は父の昂ぶりを押さえようとする。しかし、次の瞬間放たれた父の言葉は愛からも冷静さを奪い取った。
「ママが、病院から電話、来て……! 急変したって、ママの容体が……っ!」
――そこからの記憶は飛んでいて、相人には断片的にしか把握できない。
父と愛は病院に行ったが、母は既にこと切れていた。
病名は聞いたが既に記憶からは失われている。葬儀の準備や親戚への手配など、慌ただしかったと思われるが、細かい記憶は残っておらず、その点は相人の想像に過ぎない。
それから父の様子は急変し、家に引き籠って何もしない日と、研究室に入り浸って食事も睡眠も忘れて研究に没頭する日がほぼ半々だった。
愛は父を生かすために食事を作り、時折母を思い出して泣く以外は、何をしていたのかはっきりしない。当然夏休みの宿題をする余裕などなく、休み明けは手酷い責め苦を受けた。しかし、その時の愛には既に現実感などなく、どこか鈍い痛みの感覚以外は何をされたのか、何を言われたのか、今となっては分からない。
ただ、母が死んだ日、流れ星がやけに綺麗だったことは憶えていた。
――願いごとは、もう叶わないけれど。
数ヶ月後、父が体調を崩した。明らかにまともではない生活をしていたのだ、当然だろう。
父が倒れた時、愛は母の時と同じことが起きるのではないかと怯えたが、本当にただの体調不良でしかなく、安静にしておくとすぐに治った。
体調不良自体は重要なできごとではない。それをきっかけに起きた父の変化こそが、愛の人生を捻じ曲げた、ある意味では一番の原因だった。
それからの父は引き籠るような真似はしなくなり、研究室からも以前より早く帰宅するようになった。必然的に、愛と父が過ごす時間が増えた。
父の体調が快復してから数日後、愛は研究室から帰ってきた父を迎え入れた。
「お帰りなさい、パパ」
「ああ、ただいま。玄関で待ってくれるなんて嬉しいよ、愛」
愛は自分が研究を手伝う日以外は、父を玄関で待つことにしていた。できるだけ父の顔を見たかった。そうしないと父まで自分から離れていってしまうという錯覚に襲われていた。
父の手の温もりを感じて安堵している愛を、父は不意に抱きしめた。
「えっと……、パパ?」
「ごめんよ、愛。僕は大切なことを忘れていたよ」
耳元で、父が謝罪する。突然のことで愛は当惑する他ない。
「ママがいなくなって、愛も寂しかった筈なのに、僕は自分のことで精一杯だった。それで、愛に心配をかけて……、すごく不安だったよね。本当に、すまない」
父の声は話す度に涙声になっていった。それだけ、自分の行いを悔いているのだろう。
愛は父を責めようと思ったことは一度もない。母を失った悲しみは誰よりも愛が理解できるし、愛には母の他にも父という親がいたが、父には母の他に妻はいない。その苦しみは愛の痛みを超えていた筈なのだ。
愛は、そっと父の背に手を回す。自分を責める必要などないのだと、伝えたかった。
「ありがとう、愛。ああ――愛しているよ」
破綻しかけていた親子愛が修復した。――記憶を見る相人はそう思った。
それは間違っている。それは断じて親子愛などではなかった。
「――愛情の示し方を教えてあげよう」
父は、愛の胸のボタンに手をかけた。
「え……?」
「初めは痛いかもしれないけど、大丈夫。愛し合っていれば、すぐに痛みなんてなくなるよ」
修復されたのは、父が母に向けた愛情だ。父にとって、愛は母の代替物だった。
優しい父が、変わらぬ笑みのまま自分の衣服を脱がしている状況を、愛は理解できない。
「何? パパ、何をしようとしているの?」
「これから僕達は愛し合うんだよ。ああ、前から少し思っていたけど、ママによく似てきたね」
父が何をしようとしているのか、愛には理解が及ばない。いや、無意識に理解を拒んでいた。それでも、自分では説明できない嫌悪感が湧き上がっていることは理解できた。
「や、やめて! おかしいよ、パパ!」
愛は己の感覚に従い、父を拒絶した。父の手を振り払い、自らの体を守るように縮こまる。
愛の行動に、父の動きが止まる。その目は、母が死んだ時と同じだった。
「あ、愛……? どうして、どうしてだ。僕は君をこんなにも愛しているのに、それを拒むのか? あ、ああああ、だ、駄目だ。耐えられない。ぼ、僕が愛する人は、みんな僕のところからいなくなる……。何で……どうして……」
父はあからさまに動揺し、その場で崩れ落ち、床に顔を押し付けてさめざめと泣き喚いた。
この時、愛は父の心が壊れていることを知った。最早、元には戻れない程に破壊し尽くされているのだと。
「ご、ごめんなさい、パパ。す、少し驚いただけよ。も……もう、大丈夫……」
体の震えを押さえて、父に呼びかける。
すると、父はぱっと顔を上げて笑みを浮かべる。いつもと変わらぬ、優しい笑みを。
「ああ、そうか。僕も悪かったよ。愛が愛おしくて、つい焦ってしまった。でも、もう大丈夫なら、よかったよ」
相人には、二人があまりに痛ましく映ったが、愛と融合している以上、目を逸らすことすら叶わない。この親子は、二人の心も、これからの光景も、正視に堪え得るものではない。
痛い。怖い。気持ち悪い。こんなにも愛を示す父を嫌いになりそうな、自分が嫌だった。
そして何より、これまで抱いてきた価値観が破壊された。妬みは自分を傷付ける。恨みは自分を傷付ける。けれど、愛情だけは、自分を守ってくれる。
そんなもの、完全に間違いだ。愛すらも自分を傷付ける。愛こそが最も自分を傷付ける。しかし、愛されている以上、抵抗もできない。意味がないのではない。してはならないのだ。愛していれば全てが許される。逆を言えば、愛されるだけの者は何も許されはしないのだ。
この瞬間から、愛にとって、愛は天敵となった。
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