七章 渾融のパトス 3

 情報が頭に雪崩れ込む。他者の記憶が自分の経験になる、尋常ではあり得ない感覚。

 記憶も意識も無意識も全て溶け、混ざり合う。涯島相人と西園愛の境界が曖昧になる。

 それでも個々の意識は薄れない。ただ、合一していくのみ。消えようとしているのは、それとは無関係に、純粋に肉体が死に向かっている為だった。


 消えゆく中で、相人はかつて西園愛だった者の記憶を見た。


 愛は幸せな家庭に育った。両親に愛され、家計も裕福だった。容姿も整っていたし、頭脳は飛び抜けて優秀だった。特筆すべき障害も、大きな欠点もなく、誰よりも恵まれていた。

 相人が見たのは、そんな愛の当たり前の日常。大きな変化のない、ごく普通の日だった。


 心地よい自然の光が食卓に注ぐ。そこで今より一回り小さな愛と父が朝食を食べている。

 太いフレームと強い度の眼鏡をかけた父が嬉しそうに話す。冴えない見た目をしているが、これでも日本有数の脳科学者である。


「愛は本当にすごいよ。愛が立てた仮説のお陰で超能力者の存在を立証できた。世紀の大発見だ。ハーミーズ博士も大したものだと言っていたよ」


 娘の手柄が嬉しくてたまらない様子で褒めちぎる。この時期は、愛が父とハーミーズの研究を手伝ってから数ヶ月経った頃だ。


「それにこんな美味しいご飯を作ってくれて、頭はいいし、家事はできるし、可愛いし、愛が僕の娘で幸せだよ、本当に」

「パパにはうんざりだわ。毎日毎日そんなことばかり言って、ありがたみなんて感じないわ」


 父に大袈裟に褒められる度に愛は気恥ずかしさと嬉しさを呆れで隠す。辟易してはいたが、父が自分を愛しているのだと強く感じることができた。


「それに、私はパトス粒子の発生量が多い人がいるって仮説を立てただけで、証明したのはパパとハーミーズさんじゃない」

「その仮説が重要なんだよ、愛。君が手伝ってくれるまで、僕と博士はパトス粒子をどうすれば利用できるか悩み続けていたんだからね」


 愛は己の功績がそこまでのものとは思わない。確かにきっかけにはなっただろうが、愛がおらずとも遠くない内に辿り着いていた発想だ。愛はほんの一押しして早めたに過ぎない。


「一パーセントの閃きの為に、僕らは九十九パーセントの努力を積み重ねる。だけど、愛は一発でその一パーセントを引き当てた。こういうのを天才って言うんだろうなあ」

「割合と確率をごちゃ混ぜにするなんて、パパはそれでも科学者なの?」


 相人は、現在とはまるで違う愛の様子に微かな驚きを抱く。しかし、考えてみれば当然だろう。この愛は、まだ己の感情を切り捨てていない、才能を除けば普通の少女なのだから。

 これが、本当の愛。相人が殺してしまった少女の正体。


「――おや、もうこんな時間か。そろそろ出かけないと。愛も、学校だろう?」


 父が時計を見て呟いた言葉に、愛の表情は暗くなる。父は愛の変化を見逃さなかった。


「どうしたんだい? 何か、学校で嫌なことでもあったのか?」

「……ううん。そんなことないわ。ただ、ちょっと退屈なだけよ」


 その言葉が嘘だと、相人は知っている。


「はは。確かに愛からすれば小学校レベルの勉強はつまらないかもね。でも、学校は勉強するだけの場所じゃない。体を動かしたり、友達と遊ぶのだって大切なことだよ」

「ええ。分かってるわ。授業は退屈だけれど、学校は楽しいわ」


 愛は、笑顔でそう答えた。本当のことを言えば、要らぬ心配をかけてしまうから。




 愛は学校に着くと、教室に向かうよりも先に校庭の隅にある飼育小屋に向かう。それは、愛が飼育委員であるからではない。そもそも、飼育委員の仕事は昼休みに行われる。

 では、何故愛が飼育小屋に向かうのか。それは、そこが人目に付かないという理由がある。

 校門と昇降口から遠く、登校してくる生徒に見られず、近くに大きな木が植えられている為、部活動をしている生徒や顧問、そして校舎からも死角になっている。そして、滅多に人の通らない裏口を通れば誰にも見られずに来ることができる。


 それが、愛を呼び出す者にとって都合がいいのだ。


「あ! やっと来たー。愛ちゃん、遅いよぉ」


 愛を待っていたのは、三人の女子生徒だ。そのうちの一人、長髪の少女が愛に向かって手招きをする。彼女達は愛のクラスで中心的な位置にいる女子だ。彼女は親し気な笑みを浮かべているが、その脇にいる二人は笑顔に含んだ悪意を隠そうともしていない。


「で? ちゃんとやってきたの?」


 そばかすの少女が蔑むように愛に尋ねる。


「うん……」


 それに答える形で愛がランドセルを降ろそうとすると、途中で前髪をカチューシャで上げた少女がひったくった。まだ完全に降ろす前に奪われたので、肩ベルトが引っかかり、腕が捻られて痛んだ。しかし、愛が声を上げることはなかった。


「もたもたしてんじゃないっつーの」


 カチューシャの少女は愛のランドセルをまるで自分の物を扱うかのような粗雑さで開ける。そこからノートをいくつか取り出すと、ランドセルを地面に放り捨てた。

 三人のクラスメイトは顔を付き合わせて、愛が持ってきたノートの内容を確認する。


「ちゃんとやってあるじゃん、ご苦労様ー」

「愛ちゃんは天才だからこれくらい簡単だよねー」


 そばかすの少女とカチューシャの少女が愛に形だけの労いの言葉を贈る。

 愛はこの三人の宿題をやらされていた。毎日学校が終わると、宿題が出た教科のノートを押し付けられる。やって来なければ、暴力を振るわれる。しかも、ただやってくればいい訳ではない。愛が代わりにやったのだと悟られないよう、筆跡を変え、別々のところで適度に間違えなければならない。今まで教師に気付かれたことはないが、もしことが発覚した場合、彼女達が愛に何をするのか、想像に難くない。

 愛は彼女達を恐れていた。だから、愛が逆らうことはない。


 しかし、従順である筈の愛の鳩尾に、リーダー格の少女の爪先がめり込んだ。


「こ……はっ、ぁ」


 内臓を圧迫される痛みに、呼吸が止まる。父と一緒に食べた朝食が逆流しそうになるのを必死に押し留める。


「ねえ、愛ちゃん。どうして宿題をやってあるノートが四冊あるの? 私、愛ちゃんみたいに頭よくないから分からないからさ、教えてくれない?」


 彼女達三人のノートではない、もう一冊のノート。それは、考えるまでもなく愛の物だ。


「私には、これが愛ちゃんのノートに見えるんだけど、私が間違ってるんだよね?」


 彼女達は自分達の宿題をやらせるだけでなく、愛が愛自身の宿題をやることを禁じた。それは単に愛を宿題をやって来なかった者として教師に叱らせることだけが目的ではない。


「だって愛ちゃんに宿題なんていらないもんね。格好よかったなあ、先生に『こんなレベルの低い勉強なんて、やる価値ありません』だなんて、私には言えないよ」


 愛を問題児に仕立て上げ、教師からの信頼をなくすことが、彼女達のやり口だ。

 事実、成績優秀かつ教師の言うことを聞かない愛は、殆どの教師から嫌われていた。時には教師から嫌がらせを受ける程で、いじめの相談に乗ってくれることなど望むべくもない。


「このノートは私から落とした人に届けておくね。誰が落としたか分からないから、届くのはちょっと遅くなるかもしれないけど。ああ、遠慮しないでね。私達、友達じゃない」


 愛には、彼女達が何故ここまでするのか理解できなかった。愛は幼少の頃から両親に、人を傷付けるようなことをしてはならないと教わってきた。小学五年生になる今までその教えを忠実に守ってきた。だから、そうしない彼女達のことを心の底から理解できない。

 彼女達は愛を友達だと言う。愛は父に友情の大切さを知っていると答えたが、実のところそんなものを感じた経験はここ数年なかった。




 愛の放課後は一般的な小学生に比べるとかなり忙しい部類に入る。

 宿題を押し付けられると、迎えに来た父の車に乗って移動する。向かう先は父が教授として在籍している伯難大学だ。愛は父の研究を手伝う為に、父の研究室に通っていた。


 相人は愛の記憶から、そこが伯難大学病院脳外科特別研究室の前にハーミーズ達が利用していた施設だと理解した。脳外科特別研究室と比べると一回り小さい研究室で、研究員の数も少ない。相人の知っている顔もあれば、知らない顔もあった。海外からやってきた協力者であるハーミーズと教授である父を除けば、この時点では全員が大学院生のようだ。


 研究は楽しかった。学校の勉強に比べると遥かに難解で、それが愛の頭脳水準には合致していた。それに、純粋に父の役に立てたことが嬉しかった。


「やはり、愛クンが予想したように、パトス粒子は感情の昂ぶりに反応して放出されるのではなく、粒子の放出に反応して感情の変化が起きているようだね」


 ハーミーズが資料に目を通しながら愛に話しかける。

 愛がパトス粒子の研究に寄与した部分は大きい。この時点では解明し切っていなかったパトス粒子の性質をハーミーズが殆ど解明していたのは、愛の仮説があってこそだろう。


「やはり君は優秀だ。日本に飛び級制度がないのは全く合理的ではないな」

「そんな……私、そんなにすごくないです」


 愛は顔を赤らめて俯く。素直に人に褒められるということがこそばゆくて仕方がなかった。


「ね、ハーミーズさん! うちの愛は凄いでしょう! 天才少女! 三人寄らずとも文殊を超えてるってものですよ!」

「ああ、すぐにでも西園クンを追い越しそうだ。そうならないように早く研究に戻り給え」


 ハーミーズが父を嗜める。軽口が悪意なく出てくる、こういった関係が本当の友人なのだろうなと愛は感じていた。


「おや、もうこんな時間か。愛クンは帰らないとまずいんじゃないか?」


 時計の針は既に七時を回っていた。小学生が出歩くには遅すぎる時間だ。

 本来ならば、父が愛を送るべきだ。しかし、


「あ、私送りますよ」


 髪を茶色に染めた研究生の女性が手を挙げた。

 父は研究を主導する立場であるので、愛を送る為に持ち場を離れると、全体の作業が遅れる。そこで、少し前から彼女が愛を家に送り届けるようになったのだ。


「いつも悪いね。愛も一緒に帰れなくてごめんな」

「ううん。パパはやることがあるって分かっているもの」


 全く寂しくないと言えば嘘になる。それでも、心配をかけたくないという思いから、愛は本音を語らない子供だった。


「じゃあ、行こうか」


 女性が差し出した手を遠慮がちに取り、愛は研究室を後にした。

 伯難大学から愛の自宅までは女性の車に乗る。この移動する鉄の密室の中で過ごせば、十分も経たずに帰宅できる。


 たったの十分、それだけの時間我慢すればいい。


「最近の小学生はとんでもないわね。自分の父親だけじゃなくハーミーズ博士にまで取り入って。そんなにすごくないですぅ、って謙遜したつもりかもしれないけど、とんだ嫌味よね」


 彼女は明らかに愛に対して悪意を向けていた。小学生を相手にした大学院生の態度とはとても思えない。しかし、彼女からは罪悪感や恥といった感情は全く感じられない。


「偉い人にはすぐ尻尾振って、男には尻振って、まるで雌犬よね。子供だからってカマトトぶって分からないとか言わないでよ。淫売って意味よ、淫売」


 異常な攻撃性だった。確かに愛は普通の研究生よりも功績を上げており、嫉妬されても不自然ではない。それでも小学生の女の子に対してここまで責め立てることができるものだろうか、と相人は違和感を覚えた。

 しかし、愛は首を傾げるようなことはしない。彼女が愛に敵意を向ける理由が、単に愛の頭脳に対する嫉妬だけではないということを知っているからだ。


「教授の娘ってだけで我が物顔で入り浸って、あの人があんたのことが好きなのは娘だからよ。そうじゃなかったら、あんたみたいなの、あの人が気に入る筈ないじゃない。望んでない結婚で生まれて、仕方ないから愛してるのよ。教授は本当は、私を選ぶ筈なんだから」


 叶わぬ相手に恋焦がれ、的外れの妄想に身を委ねて当たり散らす様は最早哀れですらあった。父と母は愛し合っているし、彼女は父からすれば一教え子で、一研究仲間に過ぎない。

 とはいえ、この時点の愛からすれば、自分より遥かに年上の人間から理不尽に当てこすられているこの状況は、ともすれば学校でのいじめ以上に恐怖の対象であると言えた。


「……さっきから何黙ってるのよ。私の話なんてどうでもいいって訳? いいご身分よねえ! あんたからすれば私みたいな劣等生の言うことなんて聞く価値なんてないものねえ!」

「ご……ごめんなさい……」


 今にも消えてしまいそうなか細い声で許しを乞う。この狭い空間の中では人の理性や叡智など何の役にも立たない。野性的な威嚇と、本能的な怯えだけがあった。


「謝って許されるとでも思ってるの? 思ってるんでしょうねえ。今までそうやって甘やかされてきたから! とりあえず謝って誤魔化そうだなんて、悪いなんて思っていない癖に!」


 不条理の極みのような暴言だったが、ここでは、常に愛に降りかかるありふれた災厄だ。

 愛にできるのは、この十分間が過ぎ去るのをじっと待つことだけだった。




 週末になると、愛は父に連れられてある場所に向かう。


 そこは、相人にとってもここ最近見慣れた場所になっていた。伯難大学病院である。


 父の計らいか、適切な処置かは愛には分からなかったが、その病室は個室になっていた。


「あなた、愛。来てくれたのね」

「ママ!」


 愛は母を見るや否や、そのベッドの傍らに駆け寄る。本当は抱き着きたかったが、母の体に障るかもしれないと考えて実行しなかった。

 母は上半身を起こし、下半身に布団をかけた状態で愛と父を迎え入れた。


「寝ていなくて大丈夫なのかい? 休息はとても重要なんだよ」


 父が心配を口にする。焦りを隠さないその口調に母はくすりと笑う。


「だって退屈だもの。それにあなたと愛が来てくれるのに寝ているなんてもったいないわ」


 母が子供っぽく笑う。落ち着きを持ちながら、笑顔を絶やさない母は愛にとって安心の象徴と言える存在だった。

 父がいて、母がいる。この時間が愛にとって貴重な幸せだった。


「体調はどうなんだ? 無理して病気が悪化したりしたら……」

「もう、心配性ね。ただの検査入院じゃない」


 父の慌てる様は確かに一見滑稽なようにも見え、母が困ったように笑う気持ちも分からなくはなかった。しかし、愛の立場は父に近い。


「そんな風に油断するのはよくないわ。気を張ってるのもよくないけれど、自分の体なんだからちゃんと気を付けないと」

「二人共、今日は説教しに来たの? つまーんないなー」


 自分の母が唇を尖らせ、足をばたつかせている姿を見せられ、愛は嘆息する。入院中一人の時間が続いたせいか、人恋しさから愛や父に甘えたいらしい。

 父といい、母といい、小学生の自分と比べてすら子供っぽいのではないかと、愛は何とも言えない不安を感じずにはいられなかった。


「そういえば、愛。もう少しで夏休みよね。どこか行きたい所はないの?」


 母が話題を変える。

 母が治らない限り遠出が難しいことは明白だ。だから安静にして早く治してほしいところだが、それを口にするとまた拗ねるような気がしたので、愛は別の返答をすることにした。


「夏休みなら、丁度流星群の時期だよね。ペルセウス座流星群。私、それが見たい」


 本音で言えば然程興味がある訳ではない。母の機嫌を損ねないように病室から動かずに楽しめるものを考えたところ、最近クラスメイトの誰かが自由研究の題材にするだとか言っていたのを何となく思い出しただけだ。


「天体観測だったら、星が綺麗に見える場所を知っているのよ。早く治すから、そこで一緒に見ましょうね」


 愛の考えを知ってか知らずか、母は退院後のことを口にした。先程まで父と愛の言葉を説教だとか言っていたのにこれだ。愛は母の変わり身の早さと自分の考え過ぎに苦笑した。

 父は何かを決心したように拳を胸の前で固めた。


「それじゃあ、望遠鏡を用意しなきゃだ。最高級の奴にしよう。願いごとが間に合うように、スーパースローカメラで録画もしよう!」

「えっ、流れ星って映像でも願いを叶えてくれるの?」

「分からないけど、ママや愛の願いごとを叶えてくれないくらいケチなら、録画じゃなくてもきっと駄目さ。その時は流れ星の代わりに僕が願いを叶えてあげよう」

「流石パパ、頼もしいわね。惚れ直したわ」

「僕はコンマ一秒ごとに惚れ直してるよ」


 夫婦の頓珍漢な会話を聞いて、愛の苦笑は更に深くなった。


 これは、平穏な時間の記憶。

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