七章 渾融のパトス 2
初めに感じたのは、■■だった。
目に見えるものが■ろしい。耳に聞こえる音が■ろしい。鼻に香る匂いが■ろしい。肌に触れる感覚が■ろしい。舌に広がる味が■ろしい。この身で感じる何もかもが■くて、■ろしくて仕方がなかった。
男にとって、生きることは周囲を■■で囲まれることだった。耐え難い苦痛だった。一秒足りとてこんな■■の中で存在していることを呪わなかった瞬間はない。けれど、それ以上に死ぬことは■ろしかった。それだけは絶対に嫌だと自分の中で何かが叫んでいた。
狂わなかったのは、正気を失っているうちに死ぬのが■かったから。■えを外に漏らさなかったのは、弱みを攻められて死ぬのが■ろしかったから。
母が■い。兄弟が■い。敵が■い。
母は自分を生み出し、そして殺すことを知っていた。
兄弟は自分と同じかそれ以上の力を持っていたから、いずれ殺されるかもしれない。
敵は脆弱だが、足元をすくわれるかもしれない。
そんな■■の中で、生き残る光を見付けた。策を巡らし、母の目を盗み、兄弟に取引を持ちかけ、敵を蹴散らし、一度は光を手に入れた。
これで死なずに済むかもしれない。この■■に満ちた世界の中で、最大の■■を取り除くことができるかもしれない。――そう思った矢先に、死が訪れた。
■い■い■い■い■い■い■い■い■い■い■い■い■い――――――――!
これまで感じたどんな■■よりも、母よりも、兄弟よりも、敵よりも、■ろしかった。男は■■の中で、死の暗闇に落ちた。
だが、今ここに光が射した。男は名を呼ばれ、もう一度生の世界へ帰還した。
男は、己の物ではない口で、声に答える。
「――いい度胸だ、人間」
怖くて恐ろしい恐怖から、ハルパーは抜け出した。
荒れ狂う白い刃が、同色の人型を悉く切り刻む。その長さはその場から動かずとも獲物に届き、その数は獲物の数を優に超えていた。
「はん。本調子とはいかねえか。全力の十分の一しか出せねえ」
百を超す刃を操りながら、相人――否、ハルパーはうんざりしたように独り言ちた。
「何……? あなた、相人じゃない。まさか、ハルパーなの……?」
自らの分身を蹴散らされた西園愛が、初めて狼狽を見せる。
「これはいいものを見た。動揺する程度の感情は残っていたようだな。そういう可愛げのある反応をしとけば、涯島相人の気も少しは引けるんじゃねえか?」
「答えなさい。あなた、相人の体を……!」
乗っ取ったのか。西園愛の怒気は言い終えずとも、その問いを伝えていた。
「ん? ああ、俺は確かにハルパーだが、少し違う。――僕もちゃんとここにいるぞ、西園愛」
相人は真っ直ぐに西園愛を見据える。
「僕達はお前が植え付けたアルコーンによって融合している。――つまり溶け合ってるってことだ。なら、意識が同時に存在してもおかしくねえだろう?」
パトス粒子が感情を司る粒子であり、アルコーンがそれぞれに固有の感情と能力を持っているのなら、ハルパーの意識を表出させれば、ハルパーの能力をより確かに発揮できる。
ハルパーは一度死んだが、相人と融合したことでもう一度生を得たのだ。
「ああ、そう言えば涯島相人以外は全部殺して、二人きりで過ごすんだったな。それじゃあ、涯島相人の中にいる俺はどうするんだ? 教えてくれよ、お母様」
過去の鬱憤をぶつけるように、ハルパーが西園愛を挑発する。
「相人から出ていきなさい、ハルパー」
「俺じゃなくてこいつに言ってくれ。融合しちゃいるが元はこいつの体。主導権は俺にはねえ」
ハルパーは嗜虐的な笑みを浮かべて西園愛の要求を受け流す。一瞬後には、その笑みは消え、相人の表情に戻る。
「僕は当然断るよ。ハルパーがいないと、お前を殺せない」
相人は、自らの手を刃へ変成させ、西園愛に向けて伸ばす。刃はその体に突き刺さることなく、泥に浸かるようにするりと中に侵入する。
能力の併用。即ち、刃によってリーチを確保した上での融合だ。
ハルパーの刃だけでは西園愛に届かない。打撃も、斬撃も、物理的なダメージそのものを分離する女だ。倒すには分離の暇を与えずに細切れにする必要がある。万全の状態でも手が足りるか怪しいというのに、実力の十分の一しか発揮できない現状ではまるで足りない。
融合も西園愛には通用しない。拒絶反応を起こした体の組織を切り離してしまえば、殺すことはできない。
西園愛から、白い人型が崩れ落ちるように分離する。しかし、
「ぐ、ぁあ……! 相人、あなた……!」
それでも西園愛は苦しむ。
相人は、刃を切り離していなかった。
「ぎぁ……、僕が切り離さず、融合し続ければ、っ、お前がいくら自分から、死を、切り離しても、……ぐ、ぅ、どこまでも、追い続ける」
苦悶の声を漏らしながら、相人は融合を続ける。いくら耐性があると言っても、融合し続ければいずれ限界は訪れる。それは西園愛に限らず、相人にも同じことが言える。
「だったら……っ」
西園愛は次の手を打つ。自らから拒絶反応を起こした部分を分離できるのなら、その逆もまた然り。相人と融合している部位から自分を切り離し、継続する融合から離れる。
「――そんなもん、この俺が許す訳ねえだろうが!」
更なる刃が、分離した西園愛と融合する。
「どれだけ分離しようが、俺の刃が貴様を捉え続ける。絶対に逃がしやしねえよ……!」
相人が融合を続ける限り、拒絶反応を切り離しても分離しきれない。ハルパーが刃で追い続ける限り、自らが逃げることも許されない。西園愛に待っているのは、死以外あり得ない。
「おかしいわ……! ハルパー、あなた、死ぬのが怖くないの? あなたも死ぬのよ?」
自らから切り離した恐怖によって生まれたハルパーに、西園愛は問いかける。ハルパーは、何よりも死を恐れていた筈だ。
「言ったろ、俺に主導権はねえんだっての。それにな、今は自分を犠牲にしててめえと刺し違えるよりも、何もできずにてめえに殺される方が怖いんだよ――!」
融合とは、何も能力を同時に使えることや意識が同時に存在することを示すのではない。
相人にキビシスが指摘したように、融合すれば、その相手の感情に影響を受ける。相人がハルパーの恐怖やキュエネーの自己犠牲に影響を受けたように、ハルパーも自己犠牲や、相人の殺意に影響を受けたのだとしても不思議ではない。
そして、それは西園愛も例外ではない。西園愛は今、自らから切り離した筈の恐怖を思い出していた。
「やめて、相人……! 私はあなたを愛しているのよ! こんな、こんなの酷いわ! 私、まだ死にたくない……っ!」
西園愛は恐怖する。生物ならば当然持っている筈の死の恐怖を、長らく忘れていたそれを今になって突き付けられていた。
だから、縋る。最愛の人に。かつて自分を助けてくれた相人に。
「お前が望んだことだ、西園愛。お前、言っていたじゃないか。ずっと僕と一緒にいたいって。――さあ、望み通り僕と一つになるんだ!」
相人はその懇願を拒絶し、西園愛の全てを受け入れた。
そして、二人は融合し、溶け合い――渾融した。
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