七章 渾融のパトス
七章 渾融のパトス 1
相人の記憶では、最初の遭遇は三年前。その時は、恐怖に憑かれ、夢とすら思っていた。
二度目は伊織の病室での再会だった。その時に彼女の異常性を直視し、脅威を認識した。
そして今、三度目の邂逅は果たされた。――相人にとっては最悪の形で。
「ふざけんなよ……! 涯島、どうにか時間稼ぐぞ! ハーミーズさんに電話して増援をもらう! こうなりゃみんなの戦いの邪魔だとか言ってられねえ!」
傍らの伊織が慌てふためいて電話を取り出し、操作する。
「は……? 圏、外? くそ、山ん中だからか!? 昨日は繋がってたじゃねえか!」
相人はそんな伊織を見て、西園愛が笑みを浮かべていることに気が付いた。
「西園愛。お前が何かしたんだな」
確信を持って尋ねる。方法までは見当付かないが、あの笑みを見れば一目瞭然だ。西園愛が笑顔を向ける対象が相人ではないのなら、そこには必ず何らかの理由がある筈だ。
「ええ。上手くいってよかったわ。他にも近くに基地局があったら意味がなかったもの」
一般的に山間部に電波が届きにくいとされるのは、人口の多い都市部に比べて携帯電話の利用者が少なく、建設のコストに見合わない場合が多いからだ。無論、それでも山間部に基地局を全く作らない訳ではないが、都市部よりは基地局の数は少なくなる。都市部に比べれば、基地局を破壊して電波障害を生み出すのは容易だった筈だ。
「お前……!」
伊織が西園愛に噛み付こうとするが、相人が手で制する。
「ごめん、伊織。僕に話をさせて」
西園愛とは自分が蹴りを付けなくてはならない。自分でなくては、西園愛に対しては何もかも意味をなさない。
「どうしてお前がここにいる」
「私、キビシスのことを疑っていたの。生き残る為に相人を人質にするんじゃないかって。だけど驚いたわ。まさか相人がキビシスを倒してしまうなんて。その力、どうしたの?」
西園愛の言葉を聞く限り、キビシスは相人の力を報告していなかったようだ。それも当然だろう。いずれ敵対する相手に情報を渡す必要はない。
つまり、西園愛は相人達を欺く為に身をひそめていたのではなく、キビシスを欺く為に隠れてここまでやってきたことになる。通常、アルコーンが行動すれば反応現象によってその痕跡が残る。それを回避して研究所までやってくるには、タラリアを使うのが最も手っ取り早いし、不意を突ける。キビシスが同じようにやってきたことを考えると、西園愛がここまで来たタイミングはそれよりも以前――少なくとも昨日には山中に潜んでいたことになる。どうやって自らの不在をキビシスの目から逸らしていたかは分からないが、キビシスは最期まで西園愛の計略に気付いている様子はなかった。
「キビシスからあなたを助けなかったことを怒っているの? ごめんなさい、もちろん危なくなったら助けるつもりだったのよ。だけど、あんなに凛々しいあなたを見たのは初めてだったから、つい、もう少し見ていたくて……」
どういう思考回路をしていたら、相人と西園愛の関係でそんな憤りが発生すると考えるのか、相人には理解できなかった。聞きたいことは、別にある。
「もう一つ聞く。お前は何の為に人類を滅ぼす。僕の為って、どういう意味だ」
ずっと、それが分からなかった。これまで得た情報から、大体の予想は付けられる。それでも、西園愛の口から答えを聞き出す必要がある。今なら答えを引き出せる筈だ。
相人の質問に、西園愛は喜色をにじませた。
「私と相人以外の無価値な人を全部消すのよ。そして、私と相人だけで永遠を生きるの」
恍惚とした微笑みで語る西園愛は、美しくすらあった。それは、毒持つ花の美しさだ。
「その為にあなたの心臓にキュエネーを融合させたのよ。少しずつ馴染ませて、少しずつあなたを私と同じにして、ずっと二人だけで生きられるようにするの」
融合の意図は、それか。相人が反応現象で倒れないようにする為の処置と思っていたが、そもそも初めからアルコーンにすることが目的だったとは。
「ああ、でも私の知らないうちにハルパーと融合してしまうなんて、可哀想な相人。そんな急な融合、体が保たないのに。――でも、安心して。あなたを治せる子を作ってあげるから」
「そうか。聞きたいことはこれで終わりだ」
肩を借りていた伊織から離れ、前に出る。
「おい、涯島……。お前、その体で……」
「大丈夫だよ、伊織。この体、回復力はすごいんだ」
虚勢を張る。何とか自力で立てる程には落ち着いているが、気を抜くと今にも倒れそうだ。それでも、伊織をこれ以上巻き込む訳にはいかない。西園愛という怪物を生み出してしまった責任は己の手で果たさなければならない。
「終わりだなんて、寂しいことを言わないで。私は、もっとあなたとお話したいのに」
「終わりだよ――いいや、終わらせよう。僕の戦いも、お前の愛も」
相人の宣誓に、西園愛は本当に悲しそうな、涙でも流しそうな顔をする。
「まだ分かってもらえないのね。私の気持ち、分かってもらえるように精一杯頑張なくちゃ」
戦いの開幕は穏やかなものだった。張り詰めるような緊張も、熾烈な攻防もなく、互いにただ歩み寄る。
相人は敵がアルコーンである限り、触れさえすればその瞬間に殺すことができる。西園愛もアルコーンを吸収する力を持っているが、相人という異物と融合している以上、取り込めばその時点で拒絶反応が起きる筈だ。
能力を考えれば、相人に利がある。しかし、そのことは、キビシスとの戦いを見ていた西園愛なら承知している筈だ。それでも向かってくるということは、何か策があるのか、それとも相人が未だ知らない能力を隠しているのか……。
思考しているうちに、双方の距離は手を伸ばせば触れられる程に近付く。
とにかく、触れれば終わる。相人は手を伸ばして西園愛に――、
「え?」
触れるよりも先に、西園愛が相人の体を抱擁した。柔らかな感触が相人を包む。
身長差があるために、飛び付いて首に手を回してきた。思わず後ろに倒れそうになるが、その体は軽く、一度持ちこたえれば立っているのは苦ではなかった。
体温が分かる距離。互いの鼓動が互いを押しのけ、主張する。白く、冷たい印象を与える見た目に反して、相人のそれよりも暖かく、早い。こそばゆい息遣いを鮮明に感じる。
何を、している……? 不可解な行動に、相人は行動を忘却する。
「愛しているわ。この世の誰よりも、あなたが好きよ。六年前に出会った時も、三年前に会いに行った時も、この前訪ねた時も、そして今も、あなたが好き。いつまで経っても風化なんてしない。会う度に……ううん、今この瞬間も、どんどん相人のことが好きになっていくの」
無垢な、飾り気のない言葉である筈なのに、蠱惑的にすら思える。
ただ純粋に相人を求める声。それに対して湧き上がる感情は、罪悪感に近しい悲哀だった。
「いきなり抱き付くなんて、はしたない女の子だなんて思わないでね。私も恥ずかしいのよ。本当はこうして話しているのも、とっても勇気がいることなんだから。今にも声が震えそうだし、心臓もばくばく動いてる。……ああ、意識したら、もっと恥ずかしくなってきたわ」
駄目だ。拒絶しろ。突き放せ。――そう念じても、体が動かない。何故、自分がやらねばならないのかと考えてしまう自分が憎らしい。ここまできて、まだ覚悟ができていないのか。
「好きよ、相人。大好き。愛してる。ああもう、それ以外に何て言ったらいいのかしら。今日までずっと、毎日毎日、もっとロマンチックで素敵な愛の言葉を考えていたのよ? だけど忘れてしまったわ。相人を見たら全部全部吹き飛んでしまったわ」
蕩けるような美声がそうさせるのではない。相人はどうしても少女の強い思いに対して非情になり切れない。全ては、自分がそうしてしまったことだから。
「あなた以外何もいらない。相人の為なら何だってできるわ。私はその為に生きてきたのだもの。相人の傍にいたいから。相人とずっといたいから。このまま私と一緒にいましょう? 私はあなたの為に全てを捧げるわ。お願い、今すぐ愛してとはいわないけれど、私と一緒にいてちょうだい。――お願い。愛しているわ。私はあなたを愛しているのよ、相人」
それでも――やらねばならない。
相人は意を決し、愛が抱き着いている首の皮膚の一部を融合させ、切り離す。
「お前とは一緒にいられない。お前は、僕が殺す」
相人は初めて殺意を口にした。倒すでも、止めるでもなく、殺すと口にした。結果は同じでも、キビシスには倒すと言った。それでも西園愛には殺すと言った。
宣言通りに――いや、宣言よりも先に殺害は完了している。たとえ西園愛であろうと、拒絶反応からは逃れようがない。瞬く間に西園愛は地に伏せることになる。
しかし、数秒経っても倒れる気配がない。相人を抱く腕の力も緩まない。何も起きない異常に、相人の中で警告が鳴り響く。
だが、膠着状態は長くは続かなかった。数秒遅れで西園愛が倒れた、という訳ではない。
西園愛のその背中、正確には首筋が盛り上がる。否、中から何かが這い出ようとしている。
最初は、まるで助けを求めるかのように白い腕が伸ばされた。そして、徐々にその全容が白日の下に晒される。白い人型、アルコーンだ。それは西園愛から完全に分離すると、自らの足で立つことすらせず、地面に投げ出され、微動だにしない。
何だ、これは。西園愛の能力によって生み出されたということは分かる。ハルパーが西園愛は自らの体を分離させることでアルコーンを作ると言っていた。だから、それは分かる。
分からないのは、生み出されたアルコーンが相人を襲うこともせず、寝転がっていることだ。西園愛が兵を出したのだとすれば、それは立ち上がって戦うべきだ。
――奴の力は分離、増殖だ。
ハルパーの言葉が思い起こされる。起きた事象から推測するに、西園愛は相人の体の一部と融合し、拒絶反応を起こした部分を自らから分離したのだ。
通常のアルコーンが、相人と融合した部位――例えば腕を切り離したとしても、拒絶反応は防げない。末端から伝播する毒ではなく、融合した時点で全身を蝕む反応なのだ。
しかし、西園愛は相人と同様に人間とアルコーンの融合体である為に、人間との融合にある程度の免疫を持っていてもおかしくはない。故に、全身を蝕まれても無事な部位が存在する。相人が融合した後に融合部位を切り離しても死に至らないのと同じ理屈である。
西園愛は全身から拒絶反応をした部位のみを分離した。そして、無事な部位を増殖することでことなきを得たのだと考えられる。つまり、今生み出されたアルコーンは、拒絶反応によって、生み出されるよりも先に死んでいたのだ。
「残念だわ、相人。これでも分かってもらえないのね」
西園愛は、涙を流して呟く。
相人は、西園愛を突き飛ばして距離を取る。このままなすがままにされていては、主導権を握られる。ともかくフラットな状況に戻さなければと考えた。
「分かってもらえないなら――もっと時間をかけないと駄目ね」
西園愛の手から次々と白い塊がぼとぼとと地面に落ちる。それらは次第に人の形を取り、五十を超えるアルコーンへと変貌した。
数で押すつもりか。確かに、相人に対して物量で攻める作戦は有効だ。融合能力は体が接していればいくらでも同時に行使可能だが、融合部位を切り離すハルパーの能力は同時に使用できるのは二本が限度だ。体が万全であれば下級のアルコーン程度なら身体能力でいなして対応できるが、疲弊した現状では同時にこれ程の数を相手にするのは困難だ。
――などと、甘い考えを抱いていた。
アルコーン達は相人には向かわない。相人を無視して、その背後へ歩を進める。ゆっくりと、まるで相人に見せ付けるかのように。
相人の後ろには、伊織と研究員達がいる。
「お、前……!」
「私にとってあの人達はどうでもいいけれど、相人には大切でしょう? 相人が私に付いてきてくれるなら、この場では生かしてあげるわ。その後に逃げ出されたら困るから、一人は一緒に連れていってあげる」
それはつまり要求を飲まねば、人質の一人を除けばこの場で皆殺しにするということ。
今の状態で五十ものアルコーンを全て捉えるなど不可能だ。そもそも歩くことすらままならない状態だ。ハルパーの刃も二、三メートルが限界。しかも、それだけ伸ばすと一本が限界だ。相人一人の力ではアルコーンを排除することも時間稼ぎもできない。
この場に限り投降するのはどうだ。人質になる者には負担をかけるが、西園愛の隙を突いて逃げられれば犠牲は最小限に留められる。凛達が救出に来てくれる筈だ。しかし、逃げおおせる程の隙はあるだろうか。ハルパーに捕まった時はGPSから追跡してもらえたが、基地局を破壊して電波を遮断してくるような女だ。また助けてもらえる保障はない。
何か、他に手はないか。他に、誰も死なずに済むような手――――――――――――。
ああ、そうすればいいんだ。
「――力を貸せ、ハルパー」
悪魔の名を、呼んだ。
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