七章 渾融のパトス 5
以後、学校での仕打ちから、辛さが格段に取り除かれた。
愛情の恐ろしさに比べれば、嫉妬や憎悪は決して耐えがたいものではなかったのだ。それらは外側からしか愛を傷付けない。内から苛む愛情に勝るものではない。
だから、平気という訳ではなかったが、以前程頭を悩ませることはなくなった。
学校で嫉妬に耐え、家で愛に怯える日々が、一年近く続いた。
愛は六年生に進級したが、変わったことと言えば学校でのいじめの加害者が増えたことくらいだ。愛を虐げる行為は次第にエスカレートし、直接的な暴力装置として一人の男子を招き入れた。それでもリーダー格の少女は発覚しないように跡が残るような暴行は指示しなかった。痛いのは嫌だったが、その点は愛にとってもありがたかった。何よりも愛を苦しめるといっても、父に心配をかけるのは、やはり避けたかった。
「むかつくんだよ、お前!」
相も変わらず飼育小屋の前でそれは行われる。
スポーツ刈りの男子が愛の髪を掴んで投げ飛ばした。頭皮を引き剥がされそうな痛みと、瞬間の浮遊感の後に、砂埃を立てて地面に転がった。
「俺達がやること全部、下らねえって顔で見やがって、頭いいからって馬鹿にしてんだろ!」
別にそんなつもりはなかった。ただ、外に興味を向ける余裕がないだけだ。ただ、痛みに耐える以外のことをする余力が残されていないだけだ。
「先生も親もお前のこと嫌ってんのに、お前を見習えって言うんだぜ。俺達みんな、お前より下だってよお! お前は平然とやってんのに、俺達はできねえのかって言ってんだよ!」
彼は、愛の腕を掴んで、無理矢理立ち上がらせる。そして、平手を振り上げ、
「何とか言ったら――」
「駄目だよ。叩くのは駄目」
愛の頬を叩く直前に、制止の声が入った。
リーダー格の長髪の女子だ。無論、愛を助ける為の行為ではない。
「男子の力じゃ愛ちゃんの顔が腫れちゃうでしょ? 女の子の顔は大事にしなくちゃ」
そう言って、彼女は、握り拳を愛の腹に叩き込んだ。
「げ、ぼぁ……!」
「安心してね。私の力じゃお腹を殴っても、痣になったりしないから」
胃腸がせり上がるような感覚に襲われながら、愛は考える。いや、考えるまでもなく分かっている。誰も助けてはくれない。愛を助けるのは、打算と愛情だ。打算は、愛をより長く苦しめる。愛情は、愛をより強く苦しめる。結局、愛は助からない。
嫌になるくらいに分かっている。愛は期待しない。
自分の人生はこういった苦しみと共にあり続けるのだと覚悟していた。
だから、次の瞬間、愛は驚愕する。
「――何やってるんだ!」
相人は、言葉を放ってから恐怖を感じたことを憶えている。相手が自分より年上で、人数も多く、その内一人はガタイがいい。それでも、後悔はしなかったことも、憶えている。
だが、愛の心境は知らなかった。愛はこの時、やってきた少年の行動を理解できなかった。
少年は、愛を攻撃するクラスメイトを咎めている。それは分かった。だが、何故そんなことをするのかはまるで分からなかった。愛はその少年を知らなかった。彼が自分を愛しているとは考えにくい。では、何らかの打算があるのだろうか。少年が取るリスクに見合うリターンがあるとは、愛には思えなかった。何故そんなことをするのか、理由が分からなかった。
「何だよ、お前」
スポーツ刈りの男子が、乱入してきた少年を睨み付ける。少年は息を飲んで、明らかに怯えている様子だったが、引き下がることはしなかった。
「僕は、五年二組の涯島相人だ!」
「は? 名前なんか聞いてねえよ。さっき言ったことの意味聞いてんだよ、五年生」
どこかずれた返答に、スポーツ刈りの男子は苛立ちと威圧交じりに尋ねる。警告だ。これ以上踏み入れれば、容赦はしないと言外に告げていた。
「さっき聞いたのは、僕の方だ。その子から離れろ!」
その言葉を言い終わるのとほぼ同時だった。スポーツ刈りの男子は愛から手を離すと、相人に走り寄って、思い切り顔を殴り飛ばした。今度は、誰も止めることはなかった。
「下級生が生意気なこと言ってんじゃねえよ。さっさと教室行けよ」
スポーツ刈りの男子は地面に転がった相人から背を向ける。当然の展開だ。愛には相人にどんな打算があったのか分からないが、相人はただ殴られて損をしただけだ。
「い……痛くない。お前みたいな弱虫に殴られても、全然痛くなんかない……!」
しかし、相人は涙目になって鼻をすすりながら、決して涙を流すことなく立ち上がった。
「弱虫だと?」
「そうだ。すぐ暴力を振るう奴は弱虫なんだ。我慢ができない、弱虫だ!」
相人の反撃はそこまでだった。スポーツ刈りの男子の形相は怒りに染まり、先程以上の勢いで相人を殴った。更に、倒れた相人に対して執拗に攻撃を加え続けた。
相人が我慢しきれずに涙で顔をぐちゃぐちゃにしても、砂まみれになっても攻撃は止まらなかった。それでも、相人は許しを乞うような言葉は一言も発することはなかった。
「あーあ。あんなことしたらすぐばれちゃうのに。巻き込まれたくないし、私達は行こっか」
リーダー格の少女がそう呟き、愛は連行されるようにその場から離れた。
これが、愛と相人との出会いだった。
それからというもの、愛の心には苦痛と共に疑問が常に同居するようになった。
あの相人という少年は、何故愛を助けようとしたのだろう。分からない。
分からないから、ずっと心から相人が離れなかった。分からないから、知ろうと思った。愛は、暇を見付けて、クラスメイトの目を盗んでは、相人の元へ向かって観察を重ねた。
愛は好奇心から相人に近付いた。――決して、愛情など抱いてはいない。
相人を観察して、いくつか分かったことがある。
相人は、スポーツ刈りの男子に刃向ったことで、愛と同じように目を付けられていた。精神的な面で見れば愛と比べて軽いものだが、その分直接的な暴力は激しかった。
相人には、友人がいた。相人と仲がいいようだが、無礼なところがある友人だ。何故無礼だと思ったのかといえば、愛が観察しているのをその友人に見付かった時、大袈裟に気味の悪いものを見るような反応をされたからだ。
そして、相人がどのような人間なのか、相人が何故愛を助けたのか。
相人は、ただ我慢できなかったのだ。自分の前に傷付いている人がいるというのが、嫌だった。あの時、見捨てるという選択肢は相人の中には存在しなかった。お人よしだとか、格好付けだとか揶揄されることもあったが、それは相人の本質とは少しずれている。
相人の本質は、単純なわがままだ。他者が傷付くのが嫌だという、ただそれだけの至極自己中心的な――憎悪や嫉妬、愛情のように他者に向けられるものとは明確に隔絶した、自分の中で完結した感情だ。今でこそキュエネーとの融合で自己犠牲の面が強くなっているが、本来の相人は誰よりも自分本位な男だった。
自らを偽っている訳でもなく、印象と中身がここまで乖離した人間を愛は他に知らなかった。だから、相人を理解した後も観察を続けた。――断じて、愛情など抱いてはいない。
そんな折のことだった。
相人を観察しているところをスポーツ刈りの男子に見付かり、何が気に入らなかったのか分からないが暴行を受けた。リーダー格の少女が不在だったこともあり、その暴力に歯止めはなく、愛は腹に痣を作った。
その日、自宅にて、父の愛を受ける際にその痣が見咎められ、愛が学校でいじめを受けていることが父の知るところになった。
そして、愛に対して誰よりも愛情を注ぐ父は、愛を守る為に愛の転校を決定した。父の行動は迅速で、別れを告げる時間も与えられず、愛と相人は引き裂かれた。
それ以降は、穏やかな日々が続いた。、新しい学校で愛は暖かく迎えられた。――転校後もいじめられていたとハーミーズは言っていたが、恐らく愛が自殺したことを受けてそう推測したのだろう。
父からの愛情表現は止まることはなかったが、それさえ我慢してしまえば以前よりずっと快適な日々が続いた。
しかし、愛の心の中は以前とは比べ物にならない程に空虚だった。
周囲のあらゆることに興味を持てない。全ての人間がくだらないものに映る。自分以外の何もかもに価値を見出せない。
そこに至って、漸く愛は自らが抱いていた感情の正体を知った。愛は、相人を愛していた。故に、相人を失った世界に価値はなかった。
母が死んで一年経ち、去年と同じように星が流れた。しかし、愛は願いを託さなかった。
――願いなら、自分の手で叶える。
価値のないものは全て壊してしまおう。誰かが傷付くことを相人は嫌っていたけれど、それはきっと仕方のないことだ。愛は、相人を愛しているのだから。愛してさえいれば、何をしても許されるのだから。――愛は、何よりも強いのだから。
そして、愛は誰にも気付かれることなくアルコーンを生み出した。初めはごく少量だったが、少量で十分だった。自分の体に適合するよう作ったとはいえ、一気に大量に取り込めば拒絶反応が起きる。愛は少しずつ、アルコーンを自らの体に移植していった。
その後、アルコーンとして得た分離能力で、アルコーンの部位と人間の部位を切り離し、人間の部位を自殺に見せかけて処理した。アルコーンの部分は最低限生存できる程の分量しかなかったが、増殖能力で少しずつ成長した。
動ける程に復活したのが、三年前。そこで愛は自らの自己犠牲を分離した。父や母を気遣って己を犠牲にするような弱さは必要なかったからだ。自己犠牲から生まれたキュエネーは相人に移植した。そして、愛は次々に自らの感情を分離していった。人を傷付けてはならないという邪魔な教えを守る忠実さも、偽りのものしか知らない友情も、相人への愛を抑える平常心も、自らを縛り付ける恐怖も、いらない感情は全て捨てた。
愛の中には相人への強い愛情だけが残った。何よりも強い――何もかもを壊す愛だけが。
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