六章 決戦のイペアンスロポス 7

 その女は苛烈だった。

 千を超す同胞を塵芥の如く討ち滅ぼすイペアンスロポスを見て、アイギスは姿を消したハルパーの末路を知った。あの女なら、ハルパーを仕留めることも不可能ではあるまい、と。


 アイギスは西園愛に忠誠を誓うアルコーンである。服従の感情より生まれ出で、主に全てを捧げた。そんなアイギスですら、その女には感心せざるを得なかった。

 しかし、アイギスは笑う。難敵に挑む勇者の笑みではない。確信しているのだ、勝利を。


 女は既に、アイギスの張った罠の中にいる。


 膨大な数の同胞を蹴散らし、女は扉を突き破って洋館に足を踏み入れた。壁紙がところどころ剥がれ、蜘蛛の巣があちこちにある古ぼけたロビーが女を迎え入れる。

 女が周囲を警戒しながら前に進むと、吹き抜けのホールの辿り着く。女の目には、壁に沿って配置された二つの階段と、その先に続く二階フロアが映っている筈だ。


「――思っていたよりも、早いのね」


 極上の鈴の音の如き、母なる海のさざめきの如き――否、この世の何物にも世界中の何者にもたとえることの叶わぬ至上の美声。アイギスの敬愛する主、西園愛の玉音である。


「私には、ここまで随分長かった気がするわ」


 女が、主に向けて殺意を飛ばす。

 主はその不敬を受け流し、女に背を向け館の奥に向けて歩き出した。追ってこい、と主は暗に告げているのだ。女も主の誘いを承知したらしく、警戒を保ったまま階段を上る。


 アイギスは内心でほくそ笑む。女は、思惑通りに動いている。否、動かされている。

 女がどれ程の強者であろうと、アイギスの策から抜け出すことはできない。


 アイギスは切り札である。これまで敵の前には決して姿を現さず、その存在を秘匿し続けてきた。敵はアイギスの名前すら知らない筈だ。

 知らないものからは逃げられない。警戒することすら叶わない。

 女の警戒は特定の何かに向けたものではなく、何らかの不測の事態に対処可能な状態を維持しているに過ぎない。それではアイギスへの警戒には一歩も二歩も足りない。


 ことは全てアイギスの采配に従っていた。




 妙だ。凛は言葉では表現できない違和感に襲われていた。


 その原因は分からない。現時点で無理矢理解釈するならば、全ての元凶を仕留め得るところまでやってきたことで気負いが生じ、必要以上に慎重になっているのかもしれない。

 自己分析しつつも、凛は警戒を緩めない。相手はこれまで凛達を苦しめ続けてきたアルコーンの首領なのだ。たとえ杞憂になろうと、備えられるだけ備えるに越したことはない。


 西園愛を追って二階までやってきたが、今のところ向こうからしかけてくる様子はない。ただ誘うように歩いているだけだ。その不気味な動きも、凛の警戒心を高めていた。

 西園愛が凛をおびき寄せたのだとすれば、十中八九罠が待ち受けている。外から砲撃して洋館を倒壊させればその心配は無用だったが、これまで生前に利用していた洋館にいながら捜索の目を掻い潜っていることを考えると、隠し部屋や秘密の通路がある可能性がある。建物を崩してそれを塞いでしまえば、西園愛を取り逃がすことになる。

 確実にここで仕留める為、凛は西園愛を追っていた。


 西園愛は左右に等間隔で扉が並んだ廊下をぎしぎしと音を立てながら歩いている。凛は相手を常に射程に入れて、いつでも不可視の砲弾を撃ち込めるようにはしているが、得体の知れない感覚が軽々と攻撃することを躊躇わせていた。

 マークテストの解答欄を一つずつずらして塗り潰しているような、致命的な見落としをしている感覚。正体不明の焦燥感と、そんな感覚を必死で抑えようとしている自分がいる。


 敵の拠点になっていた筈なのに本当に何年も使われていなかった廃墟のように、足を進めるごとに埃が舞い、服が薄く汚れ、目や鼻がむず痒くなってくる。そんな人に忘れ去られた地を踏破し、西園愛と凛は二階の廊下の突き当りまでやってきた。

 廊下の端で西園愛が立ち止まる。もう西園愛に逃げ場はない。今は違和感もあり先制してはいないが、何か妙な動きを見せれば即座に攻撃態勢に移行できるように意識する。


「――ねえ、あなた。一つ聞いていいかしら」


 これまで凛に背を向けて前を進んでいた西園愛が振り返り、呼びかけてきた。


「私はあなたとおしゃべりをしに来たんじゃないの」


 西園愛は凛の拒絶の言葉を全く意に介さず言葉を続ける。


「さっき私と相人を会わせないと言っていたけれど――どうしてそんな酷いことを言うの?」

「……酷いこと?」

「だってそうでしょう? 人の恋路を邪魔するのはとっても酷いことなのよ」


 ずっと人間を貶め続け、死と残酷を振りまいてきた元凶が、どの面を下げてそんな被害者じみたことを口にする。自らの悪行は全く省みず、ただ目的だけに執着している。悪行を悪行と認識しない最悪の自己中心主義は、狂人と呼ぶに相応しい。


「自分が恋する乙女だなんて可愛らしいものとでも思っているの? たとえ会ったとしても、涯島君はあなたを拒絶するわ」


 どうせ、凛の言葉は届かないだろうことは分かっている。それでも、西園愛を否定する言葉を口にしたかった。


「知っているわ、そんなこと」


 返ってきたのは、凛の想定とは違う言葉だった。


「相人は優しいから、価値のない人達を殺している私は嫌われていると思うわ。――けれどね、私は諦めないわ。努力して、工夫して、一生懸命頑張って、きっと相人を振り向かせてみせる。みんなみんな殺して、私と相人だけになれば、相人も私のことを好きになってくれるに違いないでしょう? 多分時間はかかってしまうけれど、諦めなければ私の思いも相人に届く筈だわ。――だって、愛は何よりも強いのだから!」


 怒りを通り越して、吐き気がした。耳を塞ぎ、目を潰したい衝動に駆られる。これ以上、この気持ちの悪い化け物を認識していたくなかった。


 先程まで抱いていた違和感も放り出し、凛は透明の砲弾を撃ち放つ。


 凛の殺気に気付いたのか、西園愛は応じるように右手を挙げ、その右手の指を鳴らした。

 それと、ほぼ同時。凛の斜め前方にある左右両側の扉が開け放たれ、中から大量のアルコーンが飛び出した。砲弾は、アルコーンの壁に阻まれ、威力を減衰されて西園愛に届かない。


 ならば追撃すればいいと、凛は次弾を形成するが、それを撃つ前に左右の扉から一体ずつアルコーンが凛目がけて走り寄ってきた。

 凛は迷わない。二体とも、一撃で吹き飛ばせる。


 そこで、アルコーンは凛の予想外の動きを見せた。敵は凛に肉薄するよりも前に攻撃をした。その対象は凛ではなく――床だった。


「え……っ」


 凛がその動きに思わず声を漏らすが、既に砲弾は撃ってしまっており、今から対応することは叶わない。砲弾によってアルコーンは吹き飛ばされるが、老朽化が進んでいる屋敷の床はアルコーンの膂力には耐えられず穴が空き、凛はそのまま一階に向けて落下する。


「この程度の小細工……!」


 凛は砲弾の反動によって空中で移動できる。自由落下では凛を仕留めることはできない。


 しかし、敵の策はそれだけに止まらない。一階から一体のアルコーンが落下する凛目がけて跳躍する。西園愛は初めからこの状況に備え、事前にアルコーンを待機させていたのだ。

 だが、これだけでは凛が下に砲撃すれば敵の撃破と二階への復帰ができ、策は意味をなくす。――無論、西園愛がそんな隙を残している筈はない。


 凛は二階から穢れなき白のドレスを身に纏った少女が飛び降りるのを見た。

 もし下に砲弾を撃てば、西園愛に攻撃され、上に撃てばアルコーンに攻撃される。挟み撃ちの形に持ち込まれた。

 この状況を打破するには――。


「そこ――!」


 上でも下でもなく、横。凛は天井でも床でもなく壁に向けて砲撃し、空中を水平に移動し、挟み撃ちから逃れる。

 このまま西園愛とアルコーンがぶつかる位置で砲撃を放てば一網打尽にできる。


 ――ぞくり、と全身が総毛立った。


 理由は判然としない。感覚としてはこれまでの違和感に近い。だが、比較にならない程に強い。このまま砲撃を放てば凛の勝利だ。だが、それを受け入れられない自分がいる。

 どうしても嫌な予感を振り払えない。謎の違和感。真っ白なドレスを着た西園愛。老朽化し打ち捨てられた洋館。これまで戦ってきたアルコーン達。


「そういう、こと……」


 一秒に満たない思考時間で、凛の中に巣食っていた違和感を晴らす答えが訪れた。


 次の瞬間、凛の頭上の天井が砕かれ――そこから西園愛が凛目がけて落下してきた。二人目の西園愛。そのあり得ない光景を前に凛は、


「――待っていたわ」


 自らの頭上を撃ち抜く形でパトス粒子を収斂させた砲弾を撃ち放った。

 不可視の砲撃は二人目の西園愛に直撃し、その体は思い切り撃ち上げられる。凛が着地すると、砲撃を受けた西園愛は一階の床に落下した。


 そして、一階に待機していたアルコーンと一人目の西園愛が凛に突進するが、


「邪魔よ――!」


 凛の砲撃によって二人共吹き飛ばされ、動かなくなった。

 しかし、二人目の西園愛はまだ完全に息の根が止まった訳ではない。それでも、立ち上がることのできないダメージを負っているようだった。


 凛が二人目の西園愛が落下してくることに気付くことができたことの理由の一つが、一人目の西園愛のドレスが全く汚れていなかったことだ。

 老朽化し、埃が溜まった洋館を二階の突き当りまで歩けば、服が全く汚れないということはあり得ない。実際、二階で凛と相対していた西園愛のドレスは汚れていたし、二人目の西園愛のドレスにも汚れは付いている。つまり、二人目だと思っていた西園愛こそが凛が追っていた一人目の西園愛だったのだ。


 理由の二つ目は、相人がハルパーから聞いたというアイギスというアルコーンの存在を思い出したことだ。今まで数々のアルコーンと戦ってきたが、アイギスという敵は姿を現さなかった。ずっと引っかかっていた違和感は、この盤面になっても全く姿が見えないアイギスに対する疑問だったのだ。


 恐らくは、アイギスは変身能力を持っている。でなければ、ドレスの汚れた西園愛と綺麗なドレスを着た西園愛がいることの説明が付かない。凛が追っていたドレスの汚れた西園愛が本物の西園愛だろう。止めの一手を打ったことからそう考えられる。

 敵の策は、本物の西園愛が凛を誘導し、落下させ、別室で待機していたアイギスが追撃。ドレスが汚れていなかったのは、二階に来てから着替えたか変身したからだろう。そして、それを回避した凛を本物が仕留める――と、こういう手順を考えていた筈だ。


 しかし、西園愛は敗北した。


「酷い。酷いわ。どうして……どうして私の思いを……相人への愛を邪魔するの……?」

「……あなたには、言っても分からないわ」


 怒りの感情すら今となっては表に出ることはなく、ただ単純に処理する為に砲撃を放つ。


 その、寸前。周囲の扉が、内側から一斉に開け放たれた。


 続々と現れ、くすんだ壁紙を塗り潰す白。下級アルコーンが凛を囲むように出現する。

 その突然の状況の変化に、一瞬凛の意識が西園愛からぶれる。


 その一瞬に、西園愛が立ち上がり、その場から離脱した。

 直前まで、西園愛は身動きできる状態ではなかった。それに油断した、ということもある。恐らくは、凛の気を緩める為の演技だったのだろう。


「逃がさない……!」


 逃げた愛に追い打ちをかける形で、砲弾を放つが、間にアルコーン達が割り込み、衝撃が殺される。アルコーンの壁に穴が空くが、すぐさま他のアルコーンがその穴を埋める。


「待ちなさい、西園愛……!」


 西園愛は、その叫びに答えることなく、凛の視界から消えていった。

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