六章 決戦のイペアンスロポス 8
キビシスは一つの命を終わらせる為に、足を前に進める。
這いつくばる天敵を前にしても、キビシスの心が昂ぶることはない。淡々と自らが生き残る為の道を辿る。一つがあり続ける為に他の一つを犠牲にする。ただそれだけの摂理だ。
キビシスの在り方は獣のそれだ。ただ生きる為に生き、生きる為だけに殺す。喜ぶことなく、怒ることなく、悲しむことなく、楽しむことなく、恨むことなく、恐れることなく、親しむことなく、敬うことなく、愛することなく、確固たる己だけがあるキビシスにとって、執着の対象はただ生きることだった。死を恐れるが故のハルパーのような渇望とはまた違う。キビシスには生以外の何もかもに関心がなかった。
であれば、その為に他者の命をすり潰すことに微塵の躊躇すら生まれる余地はなく――敵対者が立ち上がったとしても心が揺れることはなかった。
「無駄なことだ。――だが、価値がなくとも足掻くのが命だったな」
戦う意志を見せるのならば是非もない。キビシスは殺害の為の全霊を、闘争の為の全霊へと切り替えた。拳を握り、走り出す為に足に力を溜める。
「伊織……少し、離れて。このままじゃ、多分巻き込む」
戦闘態勢のキビシスを前に、しかし涯島相人は背後の仲間に言葉を発した。伊織と呼ばれた少年も、多少ばつの悪そうな表情をしていたが、その言葉に従い戦闘の余波に巻き込まれないであろう位置まで退避した。
その隙を突くように攻撃することもできたが、それは全霊とは言えない。涯島相人は背後の友に声をかけながらも、微塵も警戒を緩めていなかったのだから。
互いに戦闘の姿勢を取り、再び膠着状態が訪れた。敵の呼吸を読み、自らの呼吸を整え、己の力が十全に振るわれる瞬間にしかけ、激突する。その為の停滞。
それが、前回の対峙であったが、此度の膠着状態は異なる様相を呈していた。
キビシスにとって己の呼吸は整えるものではなく、乱れることのない一定のものだ。それ故、前回は涯島相人の呼吸の微細な乱れを読み取って攻撃を開始した。
だが、今の涯島相人からは呼吸の乱れは感じられない。負傷し、普通であれば集中を維持できなくなる筈だが、後がない緊張状態が逆に作用したらしい。最早、いつ攻め込んでも変わりはないだろう。
つまり、二人が同時に走り出したのは、全くの偶然だった。
時間の感覚が果てしなく圧縮される。己が一歩進むのに、敵が一歩近付くのに、永劫と等しい時が流れる。それでも、会敵までに刹那程もかからないという矛盾が存在していた。
閃光が届くよりも短い瞬間に、時を置き去りにした二人は言葉を発することなく対話していた。尋常の法則の上では決して実現しない、理を超えた会話だった。
――何の為に戦う――。
どちらとも分からぬ問い。
――生きる為に――。
どちらとも分からぬ答え。
――何の為に生きる――。
どちらとも分からぬ問い。
――ただ、生きる為に――。
――誓いを果たす為に――。
ここで、二人の答えは明確に別れた。そして、永劫の時の中で交わすにはあまりに短く、閃光の中で語るにはあまりに長いかけ合いは――激突と共に終焉を迎える。
前回とは違い、拳と拳が邂逅する。キビシスの拳速を知った涯島相人はそれを見越して拳を振り抜いたのだろう。
しかし、それが即ち両者の互角を示すことにはならない。
拳がぶつかり合った瞬間、涯島相人の腕が後方に弾かれる。腕だけでなく、勢いのまま体ごと飛ばされる。涯島相人は前回と相も変わらず地面を転がる。
涯島相人は全霊を賭けていた。しかし、負傷していた以上、キビシスに競り勝つ道理はあり得ない。万全ならば、打ち勝つことはできずとも、キビシスの攻撃に僅かでも踏み止まり、その隙に融合することも不可能ではなかっただろう。
再び這いつくばる天敵をその目に収め、キビシスは確信する。
「――ここで、私は死ぬのだな」
体中に生まれてこの方感じたことなどなかった痛みが走る。漲っていた筈の力も全く入らない。キビシスを最強足らしめていた怪力は、見る影もない。むしろ、僅かでも生き永らえている事実がキビシスの頑強さを物語っていた。それも、長くは保たない。
アルコーンと人間の融合によって起きる拒絶反応、その症状だった。
「どうやら、見くびっていたようだ」
この状態に陥って、キビシスは涯島相人の策を思い知った。
最初の激突で打ち負けることは、その後の刃による不意打ちの為の布石ではなかった。不意打ちが決まればそれでも構わなかっただろうが、それはあくまで本当の目的をキビシスの目を逸らすことに主眼が置かれた行為だった。事実、キビシスは不意打ちを看破したことで再度の激突の際、涯島相人は結果の伴わぬ足掻きをしているとしか考えなかった。
涯島相人は、敢えてキビシスの初撃を受けることで攻撃のタイミングを計っていたのだ。
常に平常心を保ち、常に全霊を以て拳を繰り出すキビシスは、最高のパフォーマンスを出し続ける。即ち、拳の威力、速度、タイミングなど、その全てが一定なのだ。
つまり、一度攻撃を受ければ次の攻撃のタイミングを正確に予想できる。事実、涯島相人は二撃目を完全に予想し、一瞬のタイミングに合わせて完璧に融合してみせた。
その策を実行に移し、成功させるような精神を涯島相人が持ち合わせているなど、キビシスにはこうして敗北を喫した今になるまで思いもしなかった。
この作戦はキビシスの打撃を二発受けることが前提になっている。一撃目は全力を出さず、威力を軽減し、二撃目は融合した僅かな瞬間のキビシスの弱体化もあり、生き残る可能性はあるだろう。それでも、一歩間違えれば命はない。
この前提に関しては、自己犠牲の感情によって許容し得るだろう。
しかし、作戦を実行に移せば、二撃目で恐怖が顔を見せる筈だ。何もかもを破壊するキビシスの拳の圧力を前にして、タイミングが僅かにずれ、正確な融合などできない筈だった。
だが、現実はキビシスの敗北という形で結実した。故に、キビシスは涯島相人を見くびっていたのだと気付かされた。
「いいや……僕はそんな大した奴じゃないよ。昨日の僕なら、多分お前には勝てなかった。勝てたのは……今日の僕は一人じゃなかったからだ」
涯島相人が、地に伏せたままキビシスの声に呼応した。
「みんなと約束したんだ。絶対に生きて帰るって。だから、僕は死ぬ訳にはいかない。一人じゃ何もできないって思い知らされてきたけど、今の僕は一人じゃない」
生きようとする意志。それが明暗を分けたのだと涯島相人は語る。しかし、それはキビシスも同じだ。むしろ、純粋に生きることにのみ執着するキビシスにこそ軍配が上がる筈だ。
キビシスと涯島相人、何が違うのか。キビシスは言葉なき、長く短い会話を思い出す。
ただ生きる為に生きるキビシスと、誓いという目的を持つ涯島相人。
ただ生きることしかないキビシスと、自己犠牲や恐怖、それ以外の幾つもの感情を持ち、その上で生に向かって手を伸ばす涯島相人。
ただ一つの道を進むキビシスと、幾つもの道の中から一つの道を歩む涯島相人。
「――成程、敗北も道理か」
キビシスには葛藤がない。キビシスには迷いがない。キビシスには弱さがない。
涯島相人は葛藤も、迷いも、弱さも全て踏破して、ここに立っている。ただある道を進んできたキビシスとでは生に対する執念が違う。
そして、キビシスは己の敗北も、ただあるがままに受け入れ、最期まで心乱すことなくその生を終えた。
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