六章 決戦のイペアンスロポス 5

 相人とキビシスが互いに必勝を期す口上を謳い上げたところで、場は静けさに包まれた。


 伊織は、相人の背後から二者の相対する様を、息を飲みつつ観戦していた。


 恐らく、両者は互いに敵の呼吸を読んでいる。

 相人の融合能力と、キビシスの絶対的な力。両者ともに必殺の手段を有している。裏を返せば敵が自分を殺す武器を持っているということだ。隙を突かれて先制されることは敗北と死を意味し、先制できればすなわち勝者となる。慎重にならざるを得ないのだ。


 伊織は傍から見ているだけでも緊張感に押し潰されそうだというのに、キビシスの佇まいからはそういった、平時と異なる心の動きは全く感じられない。

 アルコーンとの戦いの殆どを反応現象による行動不能状態で過ごした伊織にとって、最強のアルコーンだというキビシスの脅威は伝聞によるものでしかなかった。自分に直接戦う力がないこともあり、頭では理解していても、今までは確固たる実感を抱いてはいなかった。

 しかし、ことここに至れば嫌でも理解できてしまう。その実力を、その暴力を晒されずとも、ただそこに屹立している威圧感だけで、戦士でない伊織ですらその脅威を推し量ることができた。


 しかし、そんな巨漢に相対する相人の背からも、動揺や無駄な強張りは感じられない。

 伊織にとって実力を実感できなかったという点においては、相人もキビシスと変わらない。相人は古くからの友人で、鉄火場に立って戦うような男ではなかった。それでも、そんな相人が強大な敵を前にして堂々と立っている姿だけで、これまで修羅場を潜り抜けてきたのだと理解できた。


 両者共に油断はない。勝敗は純粋な実力によって決するだろう。

 伊織は、勝率はほぼ五分と五分だが、ほんの一厘程相人に利があると考察する。

 互いに必殺の武器を持っている二人だが、キビシスのそれは厳密には必殺ではない。キビシスの脅威は純粋な力だ。今の相人ならば、一撃に限れば耐え得るかもしれない。

 対して、相人の融合能力は原理的に逃れ得ない必殺だ。伊織は、身体能力でいえばキビシスが勝るだろうが、攻撃能力の差で相人に軍配が上がると予想した。


 しかし、それでも胸中に不安は残る。有利が相人にあると言っても、それは本当に僅かでしかないし、伊織の考えは希望的観測に過ぎないかもしれない。

 そして、それとは別に、伊織にはある懸念があった。戦いに向かう相人の精神的な障害になることを恐れ、相人自身には告げていなかった、ある懸念が。


 それら諸々の不安と緊張が汗となって伊織の皮膚から噴き出す。額ににじんだそれを伊織が拭おうとした時だった。

 伊織の動作が合図となったのか、あるいは二人の間にしか分からない何かがあったのか、伊織には判じ得ないが、ともかく。


 両者は、走り出した。


 その速度は、常人である伊織の目で追えるものではなかった。二人の足元から土煙が上がった瞬間には、双方間の距離は消え失せ、互いに拳を振りかぶっていた。

 激突の地点は、相人の初期位置に近い。つまり、この一瞬でより長い距離を移動したのはキビシスということだ。やはり、速度でいえばキビシスに利がある。しかし、相人もキビシスの速さに対応し、同時に構えを取っている。ならば、攻撃性能から考えて勝者は相人だ。

 伊織は、一秒にも満たない時間で取得した視覚情報を必死に繋げて答えを導き出した。


 ――だが、そんなものは刹那の間もなく打ち砕かれる。


 同時に振り上げられた二つの拳だったが、その片方――キビシスの拳が、消えた。


 単純な話だ。相人とキビシスが同時に拳を振りかぶれば、より速いキビシスの拳の方が先に相手に届く、ただそれだけのこと。

 ごく当たり前にキビシスの拳が相人の顔面に打ち込まれ、ごく当たり前に相人の体が伊織の足元まで吹き飛ばされた。


「……っ、涯島……!」


 一瞬にすら届かぬ内に起きた事象に、伊織は一拍遅れて友の名を叫んだ。

 相人は答えない。うずくまったまま起き上がることができないでいる。


「それで終わりか」


 キビシスは相人の状態などお構いなしに、その命脈を断とうと歩を進める。

 徐々に明確な死の気配を纏う巨体が迫りくる。


「涯島……お前これで終わるのかよ! 死なないんじゃなかったのかよ!」


 伊織は縋るような思いで呼びかける。……返ってきたのは苦しそうな呻き声だけ。

 何の力も持たない自分が恨めしかった。自分には何もできない。ただ、相人が自力で立ち上がるのを待つしかない。伊織は祈りながら再度相人に視線を向ける。


 そこで、ふと気が付いた。相人がすぐ近くまで吹き飛ばされたからこそ気付くことができた。打ちのめされ、止めを刺されるのを待つだけである筈の相人の目が絶望にも、諦念にも、焦燥にすら染まっていないことに。

 その目は明らかに何かを狙ってキビシスを見ている。相人は、表面上は敗北を喫したように装い、勝利の為に何らかの策を講じたのだ。


 伊織は相人の視線の先、キビシスの方を見る。伊織の目からは特に変わったところは――いや、キビシスの足元の地面に変化があった。

 土が盛り上がり、地下から真っ白な刃が飛び出したのだ。

 あれは、相人と融合したというアルコーン、ハルパーの能力だ。相人は初めから正面からのぶつかり合いでの勝利を考えていなかったのだ。それよりも、吹き飛ばされた後、勝負が決まったと確信した相手の死角からの暗殺こそが狙いだったのだ。


 布石は整った。触れた者を殺す毒剣が、キビシスを急襲する――!


「――愚策だな」


 重々しい声が、抱いた希望を叩き落した。


 地の下から伸びた刃が、空を貫いた。そこには既にキビシスの姿はない。キビシスは先程より二、三メートル程相人から遠ざかっていた。相人の不意打ちに対して飛び退いたのだ。

 伊織は目の前で起きた事象を信じられず、目を剥いた。確かにキビシスの身体能力ならば一瞬で回避行動を取ること自体は可能だろう。しかし、攻撃は完全に死角を突いていた。相人に止めを刺そうと前を向いていたキビシスは下からの攻撃に反応できない筈だ。


「本当に立ち上がれないのか。ならば、後退する程の警戒は必要なかったな」


 キビシスの言葉で伊織の中で謎が氷解した。相人が敗北を装ったように、キビシスも勝利を確信した様子を装い、その実相人からの反撃に対して警戒を怠っていなかったのだ。


「……気付いて、いたのか」

「打ち合った時点で貴様が本気を出していないことは分かっていた」


 相人の問いに、キビシスは眉一つ動かすことなく答える。


「全力で当たって押し負ければ損傷は今の比ではなかった筈だ。貴様は初撃での勝利を捨て、負傷を減ずることを優先した。ならば、その後に何かあると警戒するのは当然のことだ」


 伊織は、今までキビシスの強さを理解していなかったことを理解した。キビシスの持つ強みは、他を寄せ付けない圧倒的な身体能力だけではなかったのだ。

 何より恐ろしいのは、その身体能力を支えるどこまでも冷静な判断力。


「融合が仇となったか。ハルパーとキュエネーの感情まで受け継いだのは不運だったな」


 キビシスは無感情に言い放つ。


「恐怖故に策を張り、自己犠牲を厭わぬ為に自らの損耗を織り込んだ。その結果がこれだ」


 キビシスは二体のアルコーンの根本感情を並べ、相人を揶揄した。


 だが、この瞬間の伊織の耳に入ったのは、ただ一つの単語だった。

 自己犠牲という四文字は、伊織が抱いていた漠然とした懸念に対する解答として完璧すぎた。目を覚ましてから、ずっと違和感が付きまとっていた。相人の言動一つ一つに以前とは違う何かが目に見えない形で潜んでいた。

 確かに、相人には自らよりも他人を優先するかのような傾向があった。それに関しては伊織がずっと忠告していた。それでも伊織の進言が軽口で済んでいたのは、それがあくまで相人自身の願望であったからだ。

 しかし、由羽の謝罪に対して謝罪を返したあの時は違う。まるで何かに意志を無理矢理捻じ曲げられているかのように、相人は浮かべかけていた笑顔を引っ込めて自分を責めた。


「策を張るならば正面戦闘を避けるべきだった。ぶつかり合うならば全霊を込めるべきだった。そうしていれば勝機はあっただろう。勝率を高める為の行為が貴様の敗因だ」


 伊織は自らの怠慢を悔いた。気付いていた以上、自己犠牲に言及するべきだった。相人を思いやって言わなかったなど欺瞞だ。目の前にいるのが自分の知っている相人ではないのではないかと恐れたのだ。


「私は常に全霊で臨む。――次で貴様は潰す」


 平常心の化身であるこの怪物ならば言葉の通り次の一撃も、先程と寸分違わぬ百パーセントの膂力を以て相人の体を打ち砕くだろう。

 対する相人は策を失い、満身創痍だ。それに加え、キビシスの言葉に間違いがなければ自らのものではない感情に支配されている。己を捨てることで手に入れられる勝利など存在しない。自己犠牲に走る相人の勝利の姿は、既に消え失せていた。

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