六章 決戦のイペアンスロポス 4

 研究所を出発し、大通りを抜け、由羽達が乗っている車は人気のない道を走っていた。


 このまま、敵の本拠地を襲撃する。今は正に最終局面だ。

 由羽は、己を鼓舞する意を込めて、負傷していない右手を握り締め、


「――ハーミーズさん、ブレーキ!」


 窓の外に向けていた視線を勢いよく運転席に向け、叫んだ。

 由羽のただならぬ様子にハーミーズは問い返すことなく、車は急停車する。


 その直後、思い切り鐘を突いたかのような重低音が頭上から響いた。


「ぬ、うお……!」


 ハーミーズが狼狽の声を上げ、凛や遥も顔色を変えていたが、由羽は驚かない。

 上空からの襲撃者、翼を持つ白い少年、タラリアを直前に見付けていたからだ。


 誰よりも早く、傷を負っている筈の由羽が車から外に出る。由羽が思った通り、タラリアが車の上に滞空しており、タラリアの下には車を覆い隠す程の大きさの円盤があった。

 研究所を出てから今まで、由羽は違和感を覚えていた。敵の目的が拠点を変える為の時間稼ぎだとすれば、キビシスだけでなくタラリアも戦闘に参加するべきだ。そうしていれば、相人以外の者も研究所に足止めできたかもしれない。たとえ、それでも相人が一人で戦うことになっても、こちらの判断を待ってから由羽達を追えば十分に間に合った筈だ。

 しかし、タラリアはキビシスを連れてきたかと思うと、すぐに離脱した。そこで由羽はタラリアの役割はキビシスとは別にあるのではないかと考えた。時間稼ぎではなく、敵戦力の削減。本拠地に向かう敵を空中から奇襲することで一網打尽にする算段ではないかと。


 だから警戒していた。窓の外を見張り、白い翼を探し続けていた。

 そして、上空からの襲撃を能力を使用して防いだのだ。


「お前だろう、こっちの拠点を見付けたのは」


 由羽はタラリアを睨み付け、問いを投げた。


 敵がこのタイミングで襲ってきたということは、研究所が見付かったタイミングはキビシスが駅前に現れ、遥、凛、相人と交戦した時が最も怪しい。恐らくは敵もこちらと同じように尾行によって拠点を特定したのだ。

 上空からならば人々の視界に入らず追跡できる。反応現象を起こさずに尾行が可能だ。


「うん、そうだよ! 本当はそのまま君達と遊びたかったんだけどね。愛が今日まで待たないと駄目だって言ったから、待ってたんだ」


 驚く程あっさりと認めたタラリアが発した言葉に、由羽は顔をしかめる。

 それが事実なら、昨日のキビシスの出現はタラリアによる尾行の為の布石ということになる。更に、研究員からの連絡が途絶えたことを考えれば、こちらの尾行も織り込み済みと考えるべきだ。だとすれば、敵は拠点で万全の準備を整えて待ち構えている可能性が高い。


 由羽の背後で扉の開く音がした。遥が車から降りようとしていた。


「戻れ、遥」


 由羽は短く遥を制した。


「奴らは俺達が拠点を襲撃することを織り込み済みで作戦を立てている。敵は十分な態勢で待ち構えている。ここで戦力を分散するのは下策だ。――こいつは、俺一人でやる」


 奇しくも、相人がキビシス相手に一対一を挑んだのと同じ構図になった。自分が残れば、凛と遥の二人で西園愛を強襲できる。これが、最も賢い選択だ。


「ばっかじゃないの?」

「な……、遥?」


 冷や水を浴びせられ、由羽は思わず振り返って声の主である遥を見た。遥は既に降車して、むっとした表情で腕を組んでいた。


「その怪我で一人でやれる訳ないでしょう。あたしもここに残るわ」

「俺なら大丈夫だ。遥が残ったら戦力が……」

「大丈夫な訳ないでしょうが! ちょっと頭冷やしなさい!」


 由羽の反論は、最後まで言い切るより先に遥の声にかき消された。想定していたより強い否定の言葉に、由羽は思わず黙り込んでしまう。


「そんな怪我した状態じゃあいつには勝てない。よくて逃がすか、悪くて殺される。そんなことになったら、西園愛に戦力を集中させても、追い付かれて結局横入りされる。普段はそれなりに頭が回るのに熱くなると考えが雑になるのよ、あんたは。もう少し考えなさい」


 遥の指摘は、由羽にとって意外だった。指摘の内容についてではなく、遥が由羽を諌めたことそのものについてだ。普段は逸る遥を由羽が抑える場合の方が多かった。それなのに、今は遥の方が冷静さを保っている。


「先輩が残るのは我慢したけど、無謀なことしてるあんたは見過ごせない。あたしは先輩と約束したの。全員、生きて帰るって。分かる? 全員よ、全員」


 最近の遥には迷いがあった。それはきっと、相人のことが心に常に引っかかっていたからだ。

 だが、今は相人自身の口から生きる意志を聞けたことで、遥の中から迷いが消え、的確な判断を下せるようになっている。


「……そうだな。一緒に戦おう」


 今の遥と一緒なら、負ける気がしない。


「遊んでくれるのは、君達二人でいいのかな?」


 由羽の頭よりも高い位置で、タラリアが問いを投げる。

 こちらが問答している最中にしかけてこなかったのは、タラリアの根源となる感情とやらが友愛であるからかもしれない。


「ええ、あたし達二人だけです。――天王寺先輩とハーミーズさんは先に行ってください」


 遥はタラリアに返答し、車中の二人に呼びかけた。返事はなく、車は発進する。


 ――瞬間、九枚の円盤がそれぞれ九方向からタラリアを襲っていた。


 それは、完全な不意打ちだった。由羽は学校での交戦で、タラリアにはばらばらの軌道を持つ九つの刃全てを見抜き、回避する程の小回りは利かないと睨んでいた。

 確かに、由羽の想定は正しい。タラリアは遥の三本の鎖を掻い潜り、由羽の円盤にも対応した。だが、此度の手数はあの時の倍以上。然しものタラリアも反応しきれない物量だ。


 故に、タラリアはその全てを相手にしなかった。

 九方から迫る円盤がタラリアの体に到達するよりも先に翼を羽ばたかせ、攻撃が届く空域から離脱した。細かく回避するのではなく、純粋な速度で攻撃を置き去りにしたのだ。


「びっくりしたな。いきなり始めるんだもの。――次は僕の番だよ」


 タラリアは、由羽達の攻撃の届かない高みで、もう一度翼を羽ばたかせる。

 それは以前のように急降下する為ではない。空を叩くような羽ばたきではなく、地に向けた羽ばたき。更に上昇しようとしているように見えたが、タラリアの高度は変わらない。

 代わりに、その翼から数枚の羽根が弾丸のような速度で射出された。


 羽根が由羽と遥の体を貫くよりも先に遥の鎖が生成され、それを弾き飛ばした。羽根は、その勢いのまま、コンクリートの地面に突き刺さる。


 由羽は戦慄した。タラリアは、こちらの射程外から一方的に攻撃する手段を有している。

 学校で使ってこなかったのは、文字通り『遊び』だったということか。


「裏を返せば、今は本気ってことか」

「うん。愛からちゃんと、最後まで遊ぶように言われてるんだ」


 正直なところ、敵の戦力を見誤っていた。タラリアの恐ろしさは、その飛翔能力故の仕留めづらさと、その余裕を生かした高速の突進と考えていた。だが、制空権を確保した上での一方的な蹂躙にこそタラリアの真の危険性はあったのだ。


 しかし、凛達を先に行かせることには成功した。既に、車のエンジン音は聞こえない。

 あとは、遥と協力してタラリアを攻略せねばならない。


「由羽、足引っ張らないでよね」

「安心してくれ、遥。お前は俺を頼ってくれていいからな」


 戦闘中で、不利な局面だというのに、自然と笑みが浮かんでくる。こんな風に遥と軽口を叩き合うのが、とても懐かしい気がする。遥と肩を並べて戦うのが、嬉しくてたまらない。


「行くよ」

「ああ」


 そして不思議と――負ける気がしない。




 研究所を襲撃したキビシスに対して相人が、道中に飛来したタラリアに対して由羽と遥が残り、凛とハーミーズをここまで導いた。


 寂れた洋館。少し広めの公園程の面積の庭にはそこら中で雑草が伸び放題になっており、手入れがされていないことが分かる。壁は苔むし、黒い染みが縦縞の模様のように見える。そこかしこに蜘蛛の巣が確認できる。ひびが入っていたり、割れている窓も少なくない。

 凛は、五年という歳月はこれ程のものなのだ、と見せ付けられた気分になった。朽ち果てた洋館は、歪んだ愛情を長い歳月をかけて熟成させた、少女という名の怪物には相応しい。


「天王寺クン、分かっているね。一番大切なことが何なのか」


 蔦の絡まる鉄柵のような門の前に立つ凛に、ハーミーズが運転席から最後の確認をする。

 西園愛を討つことは絶対条件だ。その為に、勝利を手にしなければならない。


 だが、ハーミーズの問いに対する答えはそうではない。


「分かってます。私だけじゃなく、みんな分かってます。もちろん私も生きて帰ります」

「今更聞くまでもなかったかな」


 二人は笑顔で言葉を交わしたが、その表情は一瞬の内に真剣そのものに塗り替わる。


 きっかけは、一つの物音だった。方向は、洋館――敵の本丸から。錆び付いた金属が擦れ合う時の鈍いような、甲高いような音と共に、屋敷の扉がゆっくりと開いていた。

 古びながらも重厚さを感じさせる扉の先から現れたのは、凛よりも一回りか二回り幼い少女だった。人間を逸脱した白い肌を、同じく純白のドレスで着飾った少女。


「キビシスもタラリアもだらしがないのね。二人も通してしまうだなんて」


 何の変哲もない、むしろ可愛らしい少女の声だというのに、凛の体中に鳥肌が立つ。

 成程、確かにあれは異常だ。何よりも気持ち悪さが先にくる。


「ああ、気を落とさないでね。ちゃんともてなす用意はできているのよ」


 西園愛はただそれだけを告げて、踵を返す。屋敷の中で凛を迎え撃つ腹積もりか。

 彼女の言葉を信じるなら、きっと屋敷の中には罠が待っているのだろう。だが、それはそれで構わない。初めから分かっていたことだ。


「――待ちなさい」


 凛には、言っておきたいことがあった。


 何人もの人が死んだ。或子も命を落とした。アルコーンは人類にとって害でしかない。

 ハーミーズから激励を受けた。仲間とは約束を結んだ。西園愛の歪みを知った。

 無念。憎悪。義憤。戦意。憐憫。それら全てを踏まえて、言っておきたいことがあった。


「私達が、あなたを止める」


 その言葉に込めた感情が西園愛に伝わったとは思わない。西園愛は一瞬も足を止めることなく、洋館の中に戻ってしまった。


 それでも、凛はただ言いたかった。殺すでも、倒すでもなく、止めると。倒す必要はあるだろう。きっと殺すことになるだろう。或子の仇でもある西園愛にこの手で引導を渡すことを望んでいないと言えば嘘になる。それでも、凛は止めると言いたかった。

 今の凛は憎悪だけに支配されていた時とは違う。かつての自分のように、不要な感情を切り捨てた西園愛を前にして、今の自分のあり方を表明したかった。


「それじゃあ、行ってきます」


 もう立ち止まっている理由はない。凛は西園愛を追撃しようと、一歩足を踏み出す。


「……天王寺クン。少し待った方がいいかもしれない」


 背後から制止がかかった。振り返ると、ハーミーズは凛の前方、屋敷の入り口を示した。

 そこから、複数のアルコーンが続々と這い出てくる。

 一般人には天敵と言える存在だが、凛達イペアンスロポスにとっては、決して脅威ではない――などと呑気なことは、今回ばかりは言えないらしかった。


「おいおい……」


 背後でハーミーズが呆れたような声を漏らす。凛も心境としては似たようなものだった。


 洋館から出てきたアルコーンは先頭の個体の後に続いて、ぞろぞろと、延々と、無尽蔵と思える程に現れ、決して狭くない庭を埋め尽くした。

 同じ色の、同じ形の人型が鮨詰めになって蠢いている様には嫌悪感を抱かずにはいられない。先頭付近にいるアルコーンは鉄製の門を掴み、顔を押し付けている。その異様な迫力に、凛は思わず後ずさる。

 質ではなく、圧倒的なまでの物量。今まで戦ってきた相手とは脅威の種類が異なっていた。


「……ここはもう危険です。逃げてください」

「ああ、これ以上は足手纏いになりそうだ」


 ハーミーズが車を発進させるのとほぼ同時に凛とアルコーンを遮る鉄門が質量に耐えきれず、薙ぎ倒された。堰を切った白い激流が押し寄せる。それは既に複数体ではない。全てが一つの巨大な集合体として、ちっぽけな一人の人間を飲み込まんと迫る。


「いいわ。来なさい、全員纏めて吹き飛ばしてあげる」


 あらゆる難敵をも打ち砕いてきた力。凛の内にある感情の具現。寄せくる軍勢を討ち果たす粒子の奔流を解き放つ。

 膨大な力と力が激突し、その余波が周囲を揺らす。


 端的に言えば、初撃の勝者は凛だった。十数体のアルコーンが宙を舞い、雪崩の進攻は一時的に止まった。しかし、あくまで表面の膜を破ったに過ぎない。総体から見れば、ほんの一部の個体に過ぎない。凛の渾身の砲撃を受けて、殆ど損害がない。


 敵は、既に次の攻撃の態勢に移っていた。相対する凛も、迎撃の姿勢を整える。


「あなた達前座に構ってる暇はないの。全部踏み越えて、先に進ませてもらうわ」


 勝つ為に、生きる為に、止める為に、立ちはだかるこの壁を――打ち砕く。

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