六章 決戦のイペアンスロポス 3

 相人の部屋には二つのベッドが並んでいる。相人自身の物と、伊織のベッドだ。

 部屋の外は既に闇に包まれ、昼行性の動物はもう寝静まった頃。相人と伊織はお互いそれぞれのベッドに腰掛け、向かい合いながら愚痴を言い合っていた。


「何が悲しくて男と一つの部屋で寝なきゃならねえんだ。他にも部屋はあるだろうに」

「流石にそこまで嫌がられると傷付くんだけど。僕だってベッドを動かすのが面倒って理由でそのままにされたのはどうかと思うけどさ」

「俺はお前と違って動けない時も意識があったんだぞ。考えてもみろ。恐怖に支配され、動けない中、近くにあるのは男の寝顔。もうお前と同じ部屋で寝るのはうんざりだね」

「そんなこと言っても仕方ないだろ。あとは今日だけなんだ。一晩くらい我慢しろよ」


 今日限り。それは、明日になったら伊織のベッドを移すという意味ではない。

 アルコーンの拠点が判明した以上、これ以上被害が増える前に迅速に攻め込む。それがハーミーズの決定だ。具体的には、明日の朝一番に研究所を発つ。恐らくは、その時が最後の戦いになるだろう。いや、最後の戦いにしなければならない。


 だから、今日限り。アルコーンとの戦いが終われば、この研究所に用はないのだから。


「全部明日で終わらせる、か」

「うん。いい加減、決着付けないと」


 初めてアルコーンと相対した時から二週間足らずしか経っていないが、随分と沢山のことがあった。その殆どが闘争であり、苦しいことや悲しいことばかりだった。

 アルコーンが撒き散らす不条理を断ち切る。その為に戦う力が、今の相人にはある。


 ……ふと、相人は伊織の様子がおかしいことに気付いた。普段あまりしないような、深刻で何かを迷っているような、そんな表情。はっきりと物を言う伊織には珍しい。


「伊織、どうしたんだよ。何か変だぞ」

「あ、いや、実は、だな。……やっぱ何でもねえ」


 伊織はぶっきらぼうで遠慮というものを知らないが、恥を知らない訳ではない。皮肉屋で天邪鬼な一面で普段は隠しているが、これで結構友達思いなところがある。

 そんな伊織が躊躇する言葉があるとすれば、


「何だよ、伊織ってば僕のこと心配してくれるんだ」

「……ちっ、にやついてんじゃねえよ気持ち悪いな」


 伊織は悪態を吐くが、相人の笑みが消えないことを悟ると、大げさに溜め息を吐く。


「はあ……。まあ、心配ってのも嘘じゃねえよ。お前危なっかしいからな。でも俺が言おうとしたのはそんなことじゃねえよ」


 伊織は先程よりも真剣な顔になる。恐らくは、意識的に表情を引き締めた。


「明日で決着付けるっていうなら、今のうちに言っておくべきだと思う。こればっかりは、やっぱり恥ずかしいからって黙ってる訳にはいかねえ」


 それでも伊織は躊躇した様子を見せる。呼吸を整え、拳を作って自分の額を軽く叩いた。


「――ありがとう。お前のおかげで俺はこうして元に戻れた」


 正面から頭を下げる伊織に、親しさ故に発生するいい加減さや照れは見られない。


「廃屋でアルコーンを見た時、本当に訳が分からないくらいに怖かった。思い出そうとしただけで今でも吐きそうになる。恐ろしくて仕方がなかった。実際は十日くらいだったけど、何年もそうだった気がする。時間とかそんなこと考える余裕もなかった。ただただ怖かった」


 本当に辛そうに、大粒の汗を流しながら伊織は回想する。

 それは、相人には推し量ることすら許されない、人類には耐え難い極大の恐怖の記憶だ。思い返すだけだとしても、心に相当の負荷がかかる筈だ。


「もうどれだけそうしていたか分からなくなった時、そばにお前がいた。ずっと、隣で俺のことを呼びかけてくれた。――それだけで俺は救われたんだ。怖くても一人じゃないなら、お前がいるなら、何とか大丈夫だって」


 頭を下げたまま、相人に顔を見せず、伊織は震える声で感謝を告げる。


「本当に……本当に、ありがとう……!」


 正直なところ、相人は衝撃を受けた。あの伊織が声と肩を震わせ、頭を下げている。

 それだけで十分に伊織の本気は伝わってきた。


「……まったく、泣くなよ伊織」

「泣いてねえ。ったく、ちょっと弱みを見せると調子に乗りやがる」


 伊織は目元を拭って顔を上げると、いつも通りの軽口を叩く。これでいい。やはり、伊織はこうでなくては調子が狂う。


「ああ……そうか」


 そこで、相人は気付いた。こうしていつもと同じように言葉を交わせるのも、伊織が元に戻ったからだ。伊織が目を覚まさないままだったら、こんな、日常的な平穏は訪れなかった。


「どうした。またにやにやして。ぶっちゃけマジでキモイぞ」

「いや、伊織は口が悪いなあって」

「……それで何故笑う? マゾか? いや、割と真面目に」


 伊織は眉根を寄せて怪訝そうな顔をする。

 しかし、相人は答えない。今気付いたことを伝える相手は、伊織ではない。


「さ、そろそろ寝ようよ。寝不足で明日を迎える訳にはいかないだろ?」


 相人は電気を消して自分のベッドの中に潜り込んだ。伊織も、相人の様子に首を傾げながらも横になった。

 夜が明ければ決戦が待っている。厳しい戦いになるだろう。敵は強大だ。それでも――、


「なあ、涯島」


 暗闇の中で、伊織が相人の名を呼ぶ。

 数瞬だけ躊躇いのような沈黙を置いて、激励を口にした。


「……気合入れろよ」

「うん。分かってる。――絶対負ける訳にはいかない」


 夜は更ける。ある者は友と語らい、ある者は自らの罪を報いようと奮起し、ある者は亡き友との思い出を胸に秘め、ある者は愛する者を思い、それぞれの夜が更ける。

 時が流れ、戦いに臨む者達の思いは夢の中に溶け、そして。


 ――決戦の朝を迎える。




 天の月は太陽に居場所を譲り、山の中にあっても朝の日差しが降り注いでいた。

 その背に数日間過ごした研究所と、非戦闘員達の視線を背負い、並び立つ者達がいた。


 涯島相人。天王寺凛。遠浪遥。白蝋由羽。

 そして、彼ら戦士達の前に、研究所所長であるハーミーズ・マーキュリーが向かい立つ。


「これより最後の作戦を開始する。――その前に、幾つか確認しておこう」


 ハーミーズの声は、今までのどの時よりも厳かで、それだけ彼の気負いを感じられた。


「白蝋クン。本当に戦えるんだね?」


 ハーミーズは最初に由羽の名を挙げた。

 由羽は、巨体のアルコーンとの交戦で体に大きな傷を負った。今も左腕をギプスで固定し、残った右腕は松葉杖を突いている。更に、幾つか内臓も傷付いているらしい。


「俺が回復するまで待ってはくれないでしょう」

「ああ、敵の拠点を監視している研究員がいつ見付かるか分からない。できる限り迅速に決着を付ける必要がある」


 ハーミーズは冷然と事実を口にする。それでも、由羽の目は揺らがなかった。


「戦います。足手纏いにはなりません。俺は俺の罪に報いなければならない」


 贖罪を誓う由羽の言葉には、しかし後ろめたい罪悪感は感じられなかった。


 ハーミーズはそれ以上由羽には何も言わず頷き、次の者に顔を向ける。


「遠浪クン。もう落ち着いたかね」


 昨夜、遥は激情し、取り乱した。相人を案じ、それ故に糾弾し、自らを追い詰めた。


「ここで駄々をこねる程子供じゃないです。安心してください、ちゃんとやりますから」


 遥は、何でもないかのように気丈に答えた。

 そこに強がりが全くないと言えば嘘になるだろう。表情も心なしか強張っている。それでも遥の精神は十分に安定しているように見えた。

 ハーミーズもそう察したのか、何か言いたげにしながらも、何も言わず頷いた。


 そして、次。


「天王寺クン。既に百目鬼クンの死への執着を乗り越えた君に、言わなければならないことはない。だから、これだけ言おう。頼んだよ」


 信頼の言葉を手向けられた凛の顔に迷いはない。無駄な気負いも感じられず、ありのままにハーミーズの言葉を受け取っていることが分かった。


「はい、任されました」


 以前の凛は今にも壊れてしまいそうな危うさがあったが、今は非常に安定している。

 ハーミーズも今の短い返事でそれが分かったのだろう、満足げに頷いた。


 三人へ言葉を贈り、ハーミーズは最後に相人に向き直る。


「涯島クン。君には言いたいことは沢山ある。キリがないので、君が何を考えているのか、言いたいことを聞かせてほしい」


 確かに、相人は何を言われても仕方がない程に心配をかけてきた。今、ハーミーズが求めているのはその心配を打ち払うに足る言葉だ。

 相人は、前に出てハーミーズの横に並ぶ。この言葉は、ハーミーズに対する返答ではなく、ここにいる全員に向けた宣誓だ。


「僕は必ず生きて帰る。生きて帰らなきゃ意味がないってことがやっと分かった」


 相人は今まで守られているだけの自分が嫌だった。自分がどうなろうと、役に立たなければならないという考えが常にあった。今もそれを拭い去っている訳ではないが、自分が犠牲になるような振る舞いをして周囲がどう思うのか、漸く考えることができた。

 昨夜、伊織の感謝の言葉を聞いて、気が付いた。残された者の苦しさを。自分が生きていなければ、みんなにそんな思いを押し付けることになるのだと。


「約束しよう。僕だけじゃない。天王寺さんも、遠浪も、白蝋君も――全員生きて帰ろう」


 相人が言い終えると、それぞれの顔に笑顔が浮かんでいた。

 凛や由羽は安心したような笑みを。その後ろにいる伊織は、やっと気付いたのかとでも言いたげな呆れ半分の笑みを。

 そして、先程まで張り詰めた様子だった遥も、目に涙を溜めながら、確かに笑っていた。


「君の気持ちはよく分かったよ。戻り給え」


 そう言って相人の背を叩いたハーミーズも、笑みを浮かべていた。


「それでは、改めて。――最終作戦を開始する。最も重要な各自の生存は、既にしっかりと胸に刻んだだろう。故に、ワタシからの要求は一つだ」


 朗らかさを見せていたハーミーズの表情が引き締まる。


「勝つこと。以上!」


 ハーミーズの激励が朝の山中に響いた。――丁度、その瞬間だった。


 鈍い風切り音の後、地響きと共に轟音が巻き起こる。砂煙が舞い、視界が遮られる。

 爆心は研究所。隕石のように、空から何か大質量の物体が降ってきた。直撃を受けた研究所はまるでそれ自体が爆発したかのように弾け飛び、建材が散らばった。


 イペアンスロポスの三人は、各々自分の能力を駆使して非戦闘員と自身を研究所の破片から守ったが、衝撃波を受け、非戦闘員共々後方に吹き飛んだ。

 唯一アルコーン化し、身体能力が強化されていた相人だけがその場に踏み止まり、真っ先に落ちてきたそれを見た。


「巨体の、アルコーン……!?」


 由羽を負傷させ、凛と遥を追い詰めた、脅威の象徴とも言うべき存在。最強のアルコーン。

 大男が落ちてきた空を見上げると、背に翼を生やした少年――タラリアが飛んでいた。つまり、タラリアが巨体のアルコーンをここまで運んできたということだ。


 しかし、疑問が残る。敵はどうやってこの場所を突き止めた?


「キビシス! こっちは任せるね!」


 タラリアの言葉にキビシスと呼ばれた巨体のアルコーンが頷き、タラリアは飛び去った。


 土煙が晴れる。破壊された研究所。吹き飛ばされた仲間。自分の目の前には敵がいる。

 相人が取るべき行動は、決まった。キビシスの前に立ち、前を向いたまま言う。


「みんなは早く行って! こいつの相手は僕がする」


 ハーミーズの話では、敵の拠点を監視していた研究員がいた筈だ。だが、現在襲撃を受けているというのに、その研究員からキビシスとタラリアが拠点を出た連絡がないということは、連絡を取れない状況にあるということ。恐らくは、既にアルコーンに見付かって始末されている。つまり、こちらが敵の拠点を突き止めたことが漏れているということだ。

 今一番避けなければならないことは、敵本拠地の西園愛に逃げられることだ。


 キビシスが他のアルコーンが姿をくらます時間を稼ぐ為の囮である場合、キビシスに単体で対抗できる戦力が相人以外にいない以上、この場に相人が残るのが最善だ。


「でも、先輩……!」

「分かった、ここは涯島クンに任せよう」


 遥が異論を唱えようとしたが、ハーミーズがそれを引き留めた。


「作戦を達成する為に必要なことだ。全員速やかに乗車するんだ」


 ハーミーズの言葉を受けて、凛は既に車に向かって移動していた。由羽も、周囲の研究員の手を借りて移動を始めている。

 しかし、遥だけは名残惜しそうに相人を見て立ち止まっていた。


「遠浪、大丈夫」


 そんな遥に、相人は振り返ることなく告げる。この場で選ぶ台詞は考えるまでもない。


「約束しただろ。約束は絶対に守る」

「……絶対ですよ!」


 どこまでも真剣な声の後、遥も走り出した。

 凛、由羽、遥の三人を乗せ、ハーミーズが敵の拠点に向けて車を発進させた。

 これでここにいるのは、相人とキビシス、そして伊織と研究員達からなる非戦闘員だけだ。


「邪魔、しないんだな」


 車が十分に離れたことを確認してから、相人はキビシスに言葉を投げた。

 キビシスの目的が足止めなら、ここでハーミーズ達を行かせる理由はない筈だ。しかし、キビシスは全く手出ししなかった。


「確かに主からは敵を釘付けにするよう命じられている。だが、私の目的は別にある」


 キビシスは、感情の起伏なく言い放つ。


「――私は貴様を殺す為にここにいる」


 相人の扱いが、単なる交渉材料から、完全な敵に変わっていた。これまで敵は相人を狙っても、その命を狙うことはなかった。しかし、キビシスは違う。積極的に、他の目的よりも優先して相人を殺しにかかる。


「だったら、お前の目的は果たせない」


 その事実に、相人が怯えることはない。相人は自分が死なないことを確信している。

 約束をした。だから、生き残らなければならない。

 生き残ることに意味があると気付くことができた。だから、死ぬ訳にはいかない。


「――僕は死なない」


 初陣にして最強の敵。相手にとって不足なし。


 決戦が、始まる。

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