五章 律動のカルディアー 8

 涯島相人が現れた。

 その事実を、キビシスはごく当然のように冷静に受け入れた。


 ――ハルパーはしくじったということか。


 涯島相人を見た時のキビシスの最初の思考はそれだった。ハルパーが身柄を押さえていた涯島相人がここにいるということはそういうことだ。

 涯島相人ならハルパーについて多少なりとも情報を持っている筈だ。ハルパーが生きているのか死んでいるのか、情報を聞き出す必要がある。そうでなくとも、涯島相人は重要なピースだ。西園愛との交渉の為に、涯島相人は手に入れる必要がある。


「確保しろ」

「っ! 先輩!」


 鎖を操っていたイペアンスロポスが叫ぶが、意味はない。彼女は完全に包囲されている。


 西園愛から、涯島相人の人柄は聞いている。恐らく、彼は自身の身柄と引き換えにイペアンスロポスを見逃すことを提案するだろう。涯島相人とイペアンスロポスでは重要度は天と地程に違う。要求は引き受けてやることにしよう。

 そんな判断から下されたキビシスの命令を受け、一体のアルコーンが涯島相人に接近し、その体へ手を伸ばす。


「――邪魔だ」


 涯島相人は、アルコーンの手を払った。


 意外だった。涯島相人は自らを犠牲にするつもりだと思っていたが、そうではないらしい。

 だが、愚かな決断だ。涯島相人は連れていく。イペアンスロポスも殺してしまえばいい。


 キビシスが視線を涯島相人から鎖のイペアンスロポスに戻そうとした時だった。


 涯島相人に手を払われたアルコーンが、地に崩れ落ちた。


「……何、だ」


 その異常な光景に、キビシスは思わず疑問をそのまま口に出していた。

 通常アルコーンはキビシス達上級アルコーンには及ばずとも、人間を遥かに超えた能力を持っている。そもそも、アルコーンはパトス粒子以外によっては傷一つ負うことはない。


 奴は、何をした。


「……確保しろ」


 キビシスは先程の命令を繰り返す。今度はこの場にいる半数を超えるアルコーンが命令を実行しようと動き出す。しかも、戦闘態勢を取りながら、だ。

 八体のアルコーンが、同時に目標に殺到する。


「邪魔だって、言ってるんだ!」


 その全てが、涯島相人の前には通用しなかった。


 異常だ。キビシスは再びそう思わずにはいられなかった。アルコーンが伸ばす八対の魔手に対して、涯島相人は悉くを人の域を大きくはみ出した駆動で回避を成立させた。

 人を超えた速度。人を超えた跳躍力。人を超えた柔軟性。それはまるでプロドティス……いや、それよりもむしろ、アルコーンに近いとすら思えた。


 そして、数秒前と同じ光景が繰り返される。涯島相人は八体に順々に触れ、触れられたアルコーンは、次の瞬間には全身の力を抜き取られたかのように、その場に倒れ伏した。

 外傷一つなく、魂などというものがあるのだとすれば、それが抜き取られたような。


 その現象に、キビシスは驚愕せずにはいられなかった。そして、戦慄を抱く。

 傷一つないということは、傷を与える必要なく敵を打倒できるということだ。たとえ、一切の攻撃を欠片程の負傷なしに捻じ伏せられるキビシスにも通用し得るということだ。


 平静を根源感情とする筈のキビシスが動揺する。


「僕は遠浪と天王寺さんを助けに来たんだ。そこをどけ、アルコーン」


 生命として活動を開始して以来、初めての感情に動きを止めていたキビシスは、その感情の原因である男の声を受け、再度意識を冷静に戻した。

 脅威を前に、思考を停止するなど愚の骨頂だ。キビシスは考える。今までそうしてきたように、どこまでも冷静に。ただ事実だけを受け入れて。


 涯島相人の人間離れした身体能力。触れただけでアルコーンを殺す力。消えたハルパー。


「――。まさ、か」


 キビシスは結論に辿り着く。およそ信じ難い、最悪の結論に。


 瞬間、キビシスは涯島相人から逃げ出した。

 同時に残っていたアルコーン全てを涯島相人に捨て石としてぶつけることも忘れない。キビシスは、どこまでも冷静に、確実に涯島相人からの逃走を図っていた。


 危険だ。涯島相人は危険過ぎる。

 あれを材料に交渉する? 馬鹿な。あれに比べれば、西園愛はまだ優しいとさえ言える。

 涯島相人の存在は許しておけない。捕獲など考えるべきではない。そんな甘いことを言っていては、根本まで侵され殺される。


 ――あれは、何としてでも破壊すべき存在だ。




 パトス粒子変容体対策研究所二階にある、相人の寝室。ハーミーズは相人を見送った後、彼に付けていた点滴などを片付ける為にそこにいた。


「結果オーライと喜ぶべきか。……いや、まだ油断はできんか」


 刃のアルコーンを融合させたことによって相人の人格面に影響は出なかった。肉体的にも安定した状態だ。むしろ、戦力になったことを考えれば非常に喜ばしいことの筈だ。

 だが、今の相人の状態は危うい。パトス粒子を専門に研究してきたハーミーズですら、今後どうなるのか、全く予想できない状況だった。


「いや、悪い方向に考えるのはやめよう」


 自分に言い聞かせるようにハーミーズは独り言ちる。無論、その言葉に応える声はない。

 ……筈だった。


「ぁ……うぅ」


 ハーミーズ以外誰もいない部屋だというのに、すぐ近くで、人の声がした。ハーミーズはぎょっとして、その声の方向を見る。

 そして、ハーミーズは認識を改める。この部屋にいるのはハーミーズだけではない。初めから、ここにはもう一人の人間がいたことを失念していた。


「桶孔、クン……!?」


 反応現象を受け、再起不能になった筈の桶孔伊織がこの部屋には寝かされていた。


「はあ……っ、っつぁ、はあ……っ、俺の声……、聞こえるんすか……?」


 信じられなかった。これまで反応現象を受けて、正気に戻った例など一つもなかった。


「回復したのか!? 今の気分はどうだい? 今までは君の実感としてはどんな感じだった? いや、そもそも何で反応現象から復帰することができたのか、何か思い当たりは……」

「うぉ……ちょ、めっちゃぐいぐい来るなあんた……」


 まくし立てるハーミーズに、伊織は辟易したような顔をする。


「おっと、すまない」


 ハーミーズは意識的に伊織から一歩距離を取る。


「ここは涯島クンの寝室……可能性があるとすれば彼か……。そういえば他のみんなも彼から影響を受けてイペアンスロポスに……ということは彼も……」

「あー……そういやこの人こんな感じの人だったか……」


 考察をぶつぶつと呟くハーミーズに対し、伊織は心底呆れたような声を漏らした。

 その言葉に、ハーミーズは反応した。


「君とは会話したことはない筈だが、その口ぶりだと周囲の様子を把握していたのか?」


 伊織が恐怖の坩堝から復帰した理由が分かれば、今までの被害者の回復も見込めるかもしれない。ひいては、アルコーンに対抗する何らかの手段に繋がる可能性もある。

 前がかりな姿勢のハーミーズに対して、伊織は気怠げに答える。


「まあ……、最初のうちは訳分かんなくなってそれどころじゃなかったけど、途中から……」

「成程、ならば他の被害者もこちらの呼びかけに反応するということも……。しかし単なる呼びかけというアプローチは以前にも……。やはり涯島クンが何らかの……」

「えっと……、一つ伝えたいことがあるんすけど……」


 思考に没頭しつつも、ハーミーズはきちんと伊織の声は聞いていた。


「何だい?」

「俺、西園愛を知ってます」


 伊織の口から、予想外の名前が出たことに、ハーミーズは衝撃を受ける。まるで想定外の方向からの不意打ちだった。


「何がしたいのかも、何となく想像付きます」

「な……何故、君が」


 ハーミーズの声が上擦る。今まで、まるで謎に包まれていた存在だった西園愛の情報が、無関係だと思っていた、何の変哲もない筈の高校生の口から放たれるという現状が、現実離れしているように感じられた。


「俺、昔のあいつを知ってるんです」

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