五章 律動のカルディアー 7
凛が刃のアルコーンを撃破し、相人が負傷してから三日経過した。
凛は研究所の彼自身の部屋で、点滴に繋がれて眠る相人の横顔を見ていた。
結果的にハーミーズの判断は正しかった。凛は少なくともそう思う。そのお陰で、相人の命は繋がれたのだから。
しかし、ハーミーズの話では未だ予断を許さない状況らしい。
人間とアルコーンは相容れない。アルコーンが人間の天敵であるという以前に、肉体として別種の生き物である以上、当然交われば拒否反応が起きる。事実、相人はそれに由来する心臓発作に悩まされ、今も眠り続けている。ハーミーズ曰く、長期間の融合がなされていたからこの程度で済んでいるが、通常であれば即刻命は絶たれるだろうとのことだった。
ハーミーズも今後どうなるかは全く分からないと言っていた。案外今この瞬間に起き上がるかもしれないし、一生目を覚まさないことや、このまま息を引き取ることも考えられる。
また、これは最悪の想像だと前置いていたが、相人がアルコーンと化す可能性もあり得る――つまりはどんな事態が発生するか分からない以上、覚悟しておけということだろう。
ハーミーズに示唆された悲観的な可能性を聞いても、凛は迷うことなくあれでよかったと言える。凛は相人を助けると誓った。ならば、少しでも可能性があればどんな手段でも講じるべきだ。あの場で相人を救う術が他になかった以上、これでいい。
凛は祈るように毎日相人の横で待つ。学校の保健室で相人の目覚めを待っていたように、こうしていれば目を覚ますような気がしていた。
「……大丈夫。きっと助かるからね」
暫く相人を眺めていた凛だったが、一度相人から目を離し、この部屋にあるもう一つのベッドに目を移した。正確には、三日前にこの部屋に持ち込まれたもう一つのベッドだ。
相人に並んでベッドに横たわっているのは伊織だ。
伊織を運び込んだのは遥の提案だった。今まで相人は可能な限りは毎日伊織を見舞っていた。寝ている時でも一緒にいさせてあげたい、と遥は言っていた。
遥のことを思い出し、凛の表情は少し暗くなる。凛が相人を取り戻した時、遥に詰られることを覚悟していた。凛は相人を無事に取り返すことができなかった。これは、凛の責任だ。
しかし、遥は凛を責めることはなかった。それはきっと凛への怒りがないということではない。怒りよりも悲しみの方が強いというだけのことだ。それだけ遥にとって相人の存在が大きいということなのだろうが、同時に遥の心の傷の深さも示していた。
ここ数日の遥には覇気がない。こんなことなら、いっそ罵られた方が安心できる。そんなことを考えていると、凛の携帯が音を発した。
「もう時間か……」
凛が自分で設定したアラームだ。見回りの時間がきたのだ。
近頃アルコーンの行動が活発化していることを受け、見回りを強化することになった。以前は時間帯ごとに戦闘員が一人参加していたが、今は二人ずつ受け持つことになっている。由羽が動けない現状においては、凛と遥が昼の休憩を挟んで常に見回りをしている。
「それじゃあ、行ってくるね」
凛は言葉を返すことのない相人と伊織にそう告げて部屋を出た。
由羽は既に目を覚ましていた。意識を取り戻したのは二日前。由羽は丸二日眠っていたことになる。意識が戻ったとは言っても、重傷であることには変わりなく、今は自室のベッドで横になっている。ハーミーズからは暫く外出を禁じられている。
「先輩の様子はどうですか?」
自身も重傷だというのに、由羽はハーミーズにそんなことを尋ねた。
「今は君の問診中だよ。君達は自分より他人を優先し過ぎだよ、まったく」
「俺なんかと他の人を一緒にしない方がいいですよ」
由羽は相人を身勝手な感情で傷付けた。他の者達の心配や献身とはまるで違う。言うなれば贖罪だ。こんなことで許されることではないことは理解している。結局は自己満足だ。
「まあ、確かに涯島クンの自己犠牲とは違うかもしれないね」
「先輩だって他の人とは違いますよ」
相人のあれは正直、常軌を逸している。
凛や遥も他者の為に自分を投げ出すことはあるだろう。しかし、それは生物として持っている生存本能を凌駕する程の強い感情があってこそだ。友を失った後悔や恋心。相人への贖罪や遥への恋慕を考えれば、そういう意味では由羽も同類と言える。
しかし、相人は違う。相人は遺伝子に刻まれた命令に勝るような強い感情に至らずとも、自らを犠牲にする。だから、どんな時でも、誰の為でも関係ない。時も場所も状況も選ばず、他者の為に動くことができる。動くことができてしまう。それが涯島相人という人間だ。
「……先輩は飛び抜けて危なっかしいから、誰かが気を付けなくちゃいけないんです」
思えば。由羽が相人に憧れを抱きながらも憎むようになったのは、そんな相人の在り方を背負う強さがなかったからのような気がする。相人に嫌悪を持った方が楽だから。
「少し変わったね、白蝋クン」
「俺は変わりませんよ」
ただ前に戻っただけだ。ただ、自分の本当の思いに気付いただけのことだ。
「そうか。では、問診を続けようか」
「はい。……あ、その前に一つ聞いていいですか?」
由羽は目覚めてからの数日、ずっと気になっていたことを思い出した。先程まで話題になっていた自己犠牲とは打って変わって、自分本位の内容だったので切り出しにくい話ではあったが、そろそろ我慢もできなくなってきた。
「遥、やっぱり怒ってますよね? 全然見舞いにも来ないし……」
自分が取り返しの付かないことをしてしまったのは分かっているが、それでも遥にどう思われているかは気になってしまう。
「うん、まあ、見舞いに来ないってことはそうなんじゃない?」
「そう、ですよね……」
あっけらかんとしたハーミーズの返答は、覚悟していた以上に由羽の胸を抉った。
「だけど、ワタシが見た感じでは怒っているというより、落ち込んでる感じだったな。涯島クンのことがあるし、無理はないけどね」
「落ち込んでる……?」
由羽は違和感を感じた。
基本、遥は落ち込まない。落ち込んで自分を責めるようなストレスを抱えることを好まない。だから、そういう時はストレスを外に向けて発散する。
「あの、先輩が攫われた時の状況を教えてくれませんか」
「それがどうかしたのかい? 言う必要はないと思ったが……。まあ、隠すことでもないか」
ハーミーズは意外なことを聞かれて面食らったような顔をした。
「天王寺クンがタラリアとかいうアルコーンの方に行ったから、遠浪クンが一人で刃のアルコーンと戦って、力及ばず涯島クンを奪われてしまったんだ」
「そういうことか……」
遥の心境を悟った由羽は、溜め息と共に得心の言葉を吐く。
「……遥は割と身勝手な奴ですけど、あいつなりに意外と責任感は強いんです。だから、遥が落ち込んでいるなら、原因は今の先輩の状態じゃありませんよ」
由羽には分かる。遥がストレスを外に向けず落ち込んでいるとしたら、それは。
「先輩がそうなったのは自分のせいだと思ってるんですよ、あいつ」
遥は町の中心である駅周辺を見回っていた。
昼過ぎということで、昼食を終えたサラリーマンなどが見える。彼らは詳細を知らないとはいえ、この町で連続して学校などの大きな施設が襲撃されている状況でよく呑気に外食などできる、と遥は人々の危機感のなさに少し呆れながら歩いていた。
危機感。思い返せば、遥にもそれが足りていなかった。己が力を過信し、敵を侮った。一時の感情に流され、戦闘が雑になっていた。その結果、相人が傷付いた。自分のせいで、相人が。
だから、遥は今まで成果のなかった見回りも、極めて真剣に行なっていた。
駅の周辺に異常がないことを確認して、遥は大通りの方に向かおうと振り向いた。
その瞬間、視界に飛び込んできた光景に目を剥いた。
何故なら、大通り沿いの交差点の周囲には、何人もの人間が倒れていたからである。
「来た――ッ」
遥はハーミーズに電話をかける。この惨状は間違いなく反応現象によるものだ。口早にアルコーンの出現を報告して電話を切り、遥は交差点に向けて走り出す。
大通りに出る直前、遥から見て左側にある交差点沿いのコンビニに入った。外から目立たぬよう、低い姿勢を維持して店内を進む。幸いとはとても言えないが、怪我の功名と言うべきか、店内の人間も反応現象を受けており、遥の様子を訝しむ者はいなかった。
遥が入店したのは、相手に気付かれずに外の様子を確認する為だ。外で確認した場合、大通りの左右どちら側に敵がいるのか分からない以上、建物を背にしても運が悪ければ相手からも視認されてしまう。しかし、店内に入ればその心配はなく、一方的に偵察できる。
もう油断はしない。正面から戦って勝てるとしても、勝率はできる限り上げる。
中腰のまま店の外を覗くと、敵の集団は大通り側のほぼ正面にいた。アルコーンが十数体駅の方に向かって歩いている。その前方、それらを率いるように進むのは、遥の見たことのないアルコーンだ。しかし、知っている。巌にも見紛う程の大男。二メートルを超えて余りあるその巨躯はハーミーズが前の研究室で目撃し、由羽が病院で戦ったというアルコーンだ。
由羽が報告した内容によれば、特殊な能力は持たないが、異常なまでの頑丈さであらゆる攻撃が通じず、凄まじい怪力を誇るという。
由羽が手も足も出なかった相手だ。正面から挑まなくて正解だった。
だが、相性でいえば遥が有利だ。特殊な能力がないのならば、刃のアルコーンのように鎖を抜けられることはない。頑丈さも拘束に専念すれば関係ない。一度縛ってしまえば、怪力を封じる手段など何とでもなる。
巨体のアルコーンの足元から四本の鎖が現れる。予兆なしに出現したそれに大男が反応するよりも先に鎖が男の手足に巻き付いた。そして、そのまま男を空高く持ち上げる。
この時、遥が気を付けたのは、鎖をたわんだ状態で男を拘束することだ。遥の鎖ならば遥の意思によって、たわんだまま、張り詰めた状態と同じだけの力を発揮できる。張り詰めた糸は容易く切れてしまうように、伸ばし切った状態では巨体のアルコーンの怪力で鎖を引き千切られる恐れがある。しかし、たわんだ鎖は千切れない。
遥は撃破より拘束を選んだ。ハーミーズに連絡した以上、待っていれば増援の凛が現れる。巨体の始末はそれからでも遅くない。
「んじゃ、次は……」
それまでの間、遥はそれ以外のアルコーンを蹴散らすことにした。姿を隠している現状ならば、残った一本で十分に他のアルコーンの相手ができる筈だ。
そのように自らの九番目の手足に命じた瞬間、第五肢が千切れ飛んだ。
「――っ!?」
本来あり得ない感覚――体には傷一つなく、それでも一瞬痛みのようなものが走った。遥は鎖を己の手足と同じような感覚で操作していた。ならば、それが引き千切られればその痛みを負うのが感情を武器とするイペアンスロポスの道理。自らの感情を素材とする鎖が切断されたが故の幻痛である。
異常な感覚に目を剥いて、壊れた鎖に目を向ける。
男の右腕を縛っていた鎖が消滅していた。しかし、そんなことはありえない。決して力尽くでは逃れられないよう拘束した筈だ。一体、何をした。
その答えは、立て続けの幻痛と共に示された。
大男は無造作に腕を振り抜き、慣性に従い、遥の鎖が引っ張られる。そして、その勢いのまま、その勢いだけで、たわんでいた筈の鎖は弾け、切断された。
「……ふざけてる」
驚愕するより呆然とした。言うなれば、遥は大男を力が意味を成さない水の中に沈めたようなものだった。それをあのアルコーンは拳を振るうだけで全ての水を蒸発させたのだ。
難しい理屈など何もない。単なる力業。ただの力押しだけで、あの男はどんな小細工だろうと上から叩き潰す。
足の縛りも破り、地に足を付けた大男は迷いない足取りで歩き出した。その向かう先は、遥の潜伏しているコンビニだ。潜伏といっても、警戒していない相手に対する隠密だ。警戒されてしまえば鎖の届く範囲内に遥がいる以上、見付けることはそう困難ではないだろう。
巨体のアルコーンは行く手を阻む壁や硝子など存在しないかの如く前進する。
「ここにいたか、イペアンスロポス」
遥を視認した巨体のアルコーンは、姿勢を僅かに前方に傾けた。
直後、男の足元が爆発する。床が男の脚力に耐え切れず、土煙を上げて砕けたのだ。
それは、警戒していた筈の遥が虚を突かれる程の速度。遥の眼前に巨大な拳が迫る。
「ま、だ――ッ」
こんなことでは終われない。男の後方から鎖を四本伸ばし、振り上げられた腕を拘束する。無論、その程度では動きを止めることは叶わない。鎖は容易く引き千切られ、瞬く間の仮初の拘束としてしか機能しなかった。
だが、一瞬だけで遥には十分だった。その僅かな猶予で遥は側方の壁から伸ばした鎖を自身の右腕に巻き付け、そのまま、巨体のアルコーンの一撃から逃れるように自らを投擲した。
脱臼しそうな感覚に襲われたが、潰れて赤い染みになるよりはましだ。巨体のアルコーンの拳が破壊した床の破片から、新たな鎖を出して身を守りつつ、別の鎖を叩き付けて壁を破壊し、投擲の勢いのまま店の外に飛び出した。
右肩を押さえながら息を整える間にも状況は動く。巨体のアルコーンの傍に控えていたアルコーン達が遥に向かって走り寄っていた。
「こんな奴ら――!」
地面から五本の鎖を出現させ、一番近い五体の首に巻き付ける。このまま振り回して他のアルコーンも薙ぎ払う。そう決めて、アルコーンの足が宙に浮いた瞬間だった。
「ふっ……」
そんな息遣いが、遥の鼓膜をほんの少しだけ刺激した。無論、その主は巨体のアルコーンだろう。しかし、それも遥の耳が音を拾い得るか否かといった距離のもの。対処は攻撃の後でも問題ない。――その判断が過ちだった。
遥を、巨大な影が覆った。生物離れした脚力で跳躍した巨体のアルコーンが落とした影だ。
「この……、ちょっとは待ってなさいよ!」
遥は、巻き付けたアルコーンと共に周囲の敵を攻撃しようとしていた鎖の動きを軌道修正する。アルコーンを一塊の盾として前方に展開する。
瞬間、衝撃が走る。
繰り出された拳は、易々とアルコーン達と鎖を吹き飛ばす。巨体のアルコーンには、仲間を攻撃できないといった精神的な情も、物理的な防御も通用しない。
拳は一切の勢いを減衰せず、遥に向かう。遥にはそれから逃れる術はない。
一秒と待たず、遥の体はただの残骸になる。その事実を認識して、遥はただこう思う。
――ああ、最後まで先輩の役に立てなかったな……。
「そこを――どきなさい!」
声と同時、巨体のアルコーンが吹き飛んだ。
左側面から、トラックで跳ね飛ばされたように男の体が滑空し、十メートル先に着地した。
「遠浪さん、大丈夫?」
声に遥が目を向けると、そこには凛が立っていた。
「天王寺……先輩」
「ハーミーズさんから連絡があって、急いで来たの」
そうだ。状況が切迫していた為に思考の外にあったが、元々遥が救援を呼んでいたのだ。それが、土壇場で間に合ったということか。
だが、それで戦況が有利になったかというと、疑問符を浮かべざるをえない。吹き飛ばされた巨体のアルコーンは、しかし傷を負った様子もなく、こともなげに立ち上がっている。
「ありがとうございました。けど……」
「分かってる。全然効いてない」
遥と凛は不屈の姿勢を見せる男を相手に構える。
「援軍か。好都合だ。イペアンスロポスは殲滅する」
巨体のアルコーンが攻撃の意思を露骨に示して一歩踏み出した。
途端、遥の横にいた筈の凛の姿が消える。否。凛は消えたのではなく、一瞬の内に巨体のアルコーンの真横に移動していたのだ。恐らくは、病院でタラリアを追う際に見せた、能力の反動を利用した移動法の成果だろう。
遥の目にはまるで瞬間移動のように見える程の速度だったが、巨体のアルコーンは難なく反応して既に凛に向けて拳を振り上げていた。
「っ、させない――!」
遥が、五本の鎖で拳を縛り、一瞬攻撃が止まる。
「――くらいなさい!」
その間隙を見逃さず、凛が放った不可視の砲撃が巨体のアルコーンに直撃する。
男は足を踏ん張ってその場に止まったが、その際の反動を利用して凛は男から距離を取った。一秒前に凛がいた地点のアスファルトが男の拳によって粉砕される。
遥は思わず冷や汗を流さずにはいられなかった。今はどうにか反応できたからよかったものの、下手をすれば凛は死んでいた。また、遥のせいで人が傷付くところだった。
無茶をするなと抗議しようと凛を見て、遥は絶句する。
「やっぱり効いてないみたいね。でも、いつまで耐えられるかしら」
凛は笑みすら浮かべて、敵を挑発すらしている。
「幾らあなたが頑丈でも、必ず限界がある。その限界が来るまで何度だって攻撃を叩き込んであげる。何千回でも、何万回でも。私と遠浪さんなら、いつまでも一方的に攻撃できる」
いつまでも? あんなぎりぎりの芸当を延々と? それをできると言っているのか? 馬鹿げている。――馬鹿げているが、いつの間にか遥の口元にも笑みが浮かんでいた。
要するに、凛は遥を信じているのだ。絶対に自分を守ってくれると。そして、遥は気付かされた。自分のせいで誰かが傷付くのが嫌なら、自分の手で守ればいいのだと。
「まったく、あたしの先輩ってどうして無茶ばっかりするんですかね。――仕方ないから、付き合ってあげますよ」
今の凛の動きを見るに、瞬間的な速度なら巨体のアルコーンを上回っている。遥が一瞬時間を作れるので、巨体のアルコーンが凛を狙っても逃げ切れる。
もし、遥が狙われた場合は、凛が戦闘に介入した時と同じことが繰り返される。凛がすぐに追い付き、巨体のアルコーンを吹き飛ばせばいい。踏み止まられても、隙は生まれる。攻撃を凛に任せている分、遥も自衛行動が取りやすくなる。
周囲にいる通常のアルコーンの妨害が問題については、攻撃対象を邪魔をしてくる最低限の数に限定すれば、二人なら対処できない程の相手ではない。
難行ではあるが、か細くはあったが、漸く勝機らしきものが見えてきた気がする。
巨体のアルコーンは、そんな二人の言葉に対し、微塵の感情の揺れも見せずにこう返した。
「あまり我々を侮ってくれるなよ、人間」
男がそう漏らす気持ちは、分からなくはなかった。事実、この作戦はかなり無茶なものだ。遥の額からはまだ冷や汗は引いていなかった。
――遥は気付いていなかった。男の言葉は、そんな意味の言葉ではないということに。
「もう一度言おう。――我々をなめるな」
その言葉の意味を遥が考えるよりも先に、アルコーンが動き出した。巨体のアルコーンではなく、通常のアルコーンである。
アルコーン達は遥や凛に向かってくる訳ではなかった。むしろその逆。遥達に背を向けて、散会する。その姿は、一見退却しているように見えるが、そうではない。
「……っな」
遥は絶句した。その行動が的確に自分達を追い詰めるものだったから、ではない。
アルコーン達は、反応現象によって行動不能となった市民に向かって動いていた。
「こ――の……ッ!」
遥が反応するより先に、凛が怒号に近い声と共に飛び出していた。
一瞬でアルコーンの一体を吹き飛ばし、次のアルコーンに砲撃の反動で接近する。逡巡する間も考える間もない、反射に近い行動だった。
「――容易いな、人間」
巨体のアルコーンは凛のがむしゃらな行動を読み、移動先に拳を構えて割り込んだ。遥の反応は間に合わない。男の巨大な拳が振り抜かれ、凛の体がそれまでの移動方向とは真逆に飛ぶ。凛の体は宙を駆け、硬い地面を転がり、そのまま動かなくなった。
「あ……天王寺、先輩……」
空気が漏れ出したような遥の小さな声に対して、凛の返事はなかった。
巨体のアルコーンが遥に向かって歩を進める。高みから見下ろす冷たい目が近付いてくる。
雑魚としか見ていなかったアルコーン達が、一般人への攻撃を止めて一斉に遥に視線を向ける。遥を取り囲み、全方位から静かに視線を飛ばしてくる。
それは明確な、絶対的な命の危機。圧倒的で巨大な死と、散在する死。
巨体のアルコーンは何も語らない。ただ、遥の命脈を断ち切るカウントダウンを刻むように、その足を前に動かし続けていた。
助けは来ない。希望はない。今度こそ、これで遥の命運は終わる。
「――と……み!」
その時、音を発するものなど皆無な筈だというのに、あり得ない音が遥の耳朶を叩いた。
声だ。その声が、聞き慣れた誰かのもののような気がして、弱々しい笑みを浮かべ――、
「――遠浪!」
今度こそ、はっきりとその声を聞いた。
その声に、遥は顔を向ける。彼は送迎の車から降り、この戦場に現れた。
彼には戦う力も、敵を打ち倒す能力も、死に抗う武器もない。だというのに、
「……馬鹿」
遥の目尻からは、恐怖や悲しみとは別の涙が流れていた。
こんな極限状態だというのに、遥は安心していた。彼がこうして無事に立っていることに。そして理屈抜きに嬉しかった。自分の危機に彼がこうして駆け付けてくれたことに。
「助けに来た。もう安心しろ」
涯島相人がそこにいた。
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