五章 律動のカルディアー 5

 頬に血がかかる。相人の背から刃が生えている。


 今、凛はハルパーと戦っていた筈だ。ならば、何故目の前に相人がいるのだろう。簡単だ。危機に瀕した凛を相人が庇ったのだ。その結果、胸を貫かれた。

 刃が抜けたかと思うと、相人の体が繰り糸を失った人形のように仰向けに倒れた。


「きっ、貴様ァ……! 何を、何を考えていやがる!」


 苛立ちの声が聞こえた方向、ハルパーの方向を見る。凛が捨て身の砲撃を放った筈だが、ハルパーに傷はない。凛の攻撃を予期して回避したらしい。凛の捨て身は無為でしかなかった。


 自分勝手な言い分で相人に怒りをぶつけるハルパーに、凛は不思議と怒りが湧かなかった。

 全身に力が入らない。この脱力感に比べれば、怒りや殺意など些事である気すらしてくる。

 この感覚、感情はいつかどこかで憶えがあるような――。


「……天王、寺さ……ん」


 凛の足元に倒れ伏す相人が、抑えきれない苦悶と共に凛の名を呼んだ。


「ご、めん。これは……僕のわがまま、だ。天王寺さんに誰かを犠牲にしてほしくな、かった」


 途絶え途絶えに、掠れた声で語る相人の様子は、一目見ただけで致命傷だと分かった。このままなら、相人は息絶えるだろう。

 だというのに、自らが犠牲になろうとしているのに、相人は犠牲を否定した。そんなのはおかしい。矛盾している。成程、酷いわがままだ。


「……ずるい」


 何か言葉を発する気力もなかった筈だが、意識せずに凛の口から嗚咽と共に声が漏れた。


「ずるいよ……。そんなの、勝手だよ」

「うん……ごめん」


 無意識に表出する言葉に、相人は力なく笑って答える。


「ただ……このわがまま、だけは、聞いて……ほしい。今の……天王寺さんを見て、百目鬼さんや……死んだ人達が喜ぶ、かどうかは分からない……。だけど……」


 いつ力尽きるとも知れぬ状態で、相人は凛に語り続ける。


「僕は嫌だなあ……」


 相人は最後まで笑って、目を閉じた。眠りに就いたかのような、穏やかな沈黙だった。


 凛の意識は欠片を拾い集めていた。あの日、或子が死んでから、自ら砕いてしまった欠片を。憎しみによって砕かれた、凛の一番大切な感情の欠片を。

 こんなことになるまで忘れていた。自分の一番大切にしていた感情を。誰も死なせたくない。そんな当たり前の感情を。


 凛は、無意識に流れていた涙を拭う。そして、相人の首元に手を伸ばす。

 脈は……まだある。だが息をしていない。近くには医療施設どころか建造物一つない。冷静に考えれば間に合わない。相人の回復力を考慮しても恐らくは助からない。


 それでも、諦めることなどできる筈があろうか。

 学校では一人も助けられなかった。或子の時も間に合わなかった。だが――だからこそ。


「絶対、助けるから」


 決意の言葉と共に、凛は立ち上がる。同時に凛を襲ったハルパーの刃を砲撃で弾き飛ばす。


「こうなれば、せめて貴様は殺す……!」


 ハルパーは焦りとも怒りとも取れる表情で凛に攻撃をぶつける。

 先立った攻撃よりも早い速度、多い手数でそれぞれ異なる方向から攻め立てる刃を、しかし凛はその全てを難なく撃ち落とした。連射性能が上がっているのが分かる。それだけではない。砲撃の性能が、全て数段上昇している。


「何だ、それは。貴様には反応できない筈……!」


 ハルパーへの恨みがなくなった訳ではない。だが、今はそんなことを気にしている暇はない。

 雑念の取り払われた瞳で、動揺するハルパーを真っ直ぐ射抜く。


「――すぐに終わらせる。もうあなたに構っている暇はないの」

「ふっざけるな……! 俺の邪魔を、するな――ッ!」


 ハルパーの全身が刃に姿を変える。数百、いや、千を超す刃の群れが、進路上の鉄骨を切り裂きながら、全方位から凛に襲いかかる。


 ――一蹴。

 正に鎧袖一触。苦戦を強いられていた多方向からの攻撃を、一瞬で余さず撃ち払った。


 イペアンスロポスの能力は使用者の感情によって左右される。本当に一番大切にしていた感情を取り戻した凛ならば、たとえ刃の数が万を数えようとも、ものともしないだろう。


「が、ァぁぁあああああああああああアアアアアアアアアアアア――!」


 千の刃は咆哮と共に、一つに収斂していく。

 曰く、不死をも殺す刃。

 曰く、この世で最も硬い物質から生み出された刃。


 刃のアルコーンはその体全てを、神話世界において強大な怪物を屠った神の武器、鎌剣ハルパーへと変貌させた。ハルパーの全てを込められたその刃は、床から天井を突き破る程の巨大さを持ち、屋根を切り裂いて、上空から凛に向けて振り降ろされた。


 対するは、自らの能力を十全に解放した凛の不可視の砲撃。

 千の刃を打倒する砲撃を一つに束ね、撃ち放つ。不可視である筈のパトス粒子の塊は、限度を超えた高密度であるが故に空間を歪め、その姿を浮き彫りにする。


 渾身の一振りと、全霊の一撃がぶつかり合う。


 衝撃の余波が、廃工場全体を揺らす。純粋な力と力の邂逅。その終局。


「ひっ――」


 凛は何かに怯えたような声を聞いた。


 そして、勝敗は決着する。凛の砲撃によって上方に打ち上げられたハルパーは、再び人型に戻り、重力に従って、墜落した。

 白い男の体は、二度と動き出すことはなかった。


 凛は仇敵に背を向け、救うべき友の元へ歩み出す。


「――終わったよ、あるちゃん」


 救えなかった友へ言葉を贈りながら。

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