四章 標的のトゥーレ 5

 相人は病院の裏口にある車に乗り込む際に、空気が震える音を聞いた。


「白蝋君……大丈夫かな」

「今は彼を信じよう。ワタシ達は桶孔クンの移送だ」


 ハーミーズが足を止めた相人に声をかける。促され、相人は乗車した。

 運転席に研究員、助手席にハーミーズ、後部座席を倒して平面にして伊織を寝かせ、その左右に相人と遥が座る。研究員がエンジンキーを回し、車体が僅かに震える。アクセルが踏まれ、車体が動き出し、病院裏の車両出口に向かう。


 相人は横目で遥を見る。相人が目覚めてから、様子がおかしい。今も妙に気が立っている様子だ。警戒している、というだけでもなさそうだ。


「なあ、とおな……っ」


 確かめようと遥に声をかけようとしたが、その前に遥の顔色が変わったことに気が付いた。

 その視線の先。前方を相人も確認し、途端に絶句する。


 前進している車の前に、人が立っていた。その人物には見覚えがある。かなりの長身。しなやかな筋肉で覆われている。――そして、その全身は染め上げられたように白かった。


「刃のアルコーン……!」


 男は相人の呼びかけに応えるように、刃の如く口を歪めて酷薄な笑みを浮かべた。


「止まるな! 進め!」


 ハーミーズが運転する研究員に指示する。アルコーンはパトス粒子以外で傷付くことはないが、自動車と正面衝突すれば吹き飛ばすことくらいはできる。

 そんな相人の想定は、次の瞬間には両断される。


 男が右腕を水平に持ち上げる。そして、加速する車に向かってその右手を振るった。

 一瞬の浮遊感の後、胃を持ち上げられるような衝撃に襲われた。それからは、異様な乗り心地の悪さだった。相人達を乗せた車は確かに地面を走っていた。ただし、接地しているのは四つのタイヤではなく、車のフレームだ。

 男はその手を刃へと変え、走行中の車のタイヤを全て切り裂いたのだ。それによって、減速を余儀なくされた車は、片足を突き出した男によって難なく止められてしまう。


 唐突な走行状況の変化に、相人が吐き気を抑えていると、男は車のバンパーに乗り、再度腕を振るった。それによって天井が、位置はそのままに車体と切り離される。

 そして男は、フロントガラスの存在など気にも留めず、天井を蹴り飛ばした。その結果、砕けたガラスの破片が散弾の如く車内にまき散らされる。


 相人は、伊織に覆い被さってガラスから守る。背中に大きな破片が突き刺さった。


「ぐ……ぅ」


 呻き声が漏れる。だが、この程度の傷なら、相人に限って言えばすぐに治る。顔を上げて車内を確認すると、他の者も細かい切り傷などはあったが、大きな怪我はなさそうだった。


「――よう、また会えたなあ。嬉しいぜ、涯島相人……!」


 刃のアルコーンはより一層凶悪な笑みを浮かべ、相人の名を呼んだ。

 相人の名前を知っている。やはり、目的は相人なのか。そう思考している間に、男が相人に向けて手を伸ばす。


 しかし、その手は相人に届かない。


「今気が立ってるんです。先輩にちょっかい出すなら容赦しませんよ」


 男の四肢を四方から黒い鎖が襲い掛かり、その場に縛り付けたのだ。


「で、こいつどうします? 尋問とかするんですか? それとも殺した方がいいですか?」


 遥は冷酷とすら言える冷静さでハーミーズに指示を仰いだ。


「はっ、馬鹿かてめえは」


 嘲笑混じりの声でそう言ったのは、両手両足を縛り上げられている男だった。


「その様で何を――」


 瞬間、遥の表情が変わった。


 何故なら、拘束した男の右手が長剣へと姿を変え、遥の首を狙って伸ばされたからだ。

 剣が遥に届く寸前に、遥は咄嗟に五本目の鎖を足元から出現させ、長剣を弾く。それでも僅かに軌道を逸らすことしか叶わず、男の剣と化した手は遥の首を掠めた。

 傷口から血が噴き出る。遥は即座に傷に手を当てたが、それでも血は隙間から流れ出る。


「ほう。タラリアの話じゃ鎖は四本だったが、隠していたのか? いや、少しは成長したのか」

「……ちょっと油断しただけです。こんな狭い所じゃ戦いにくいですね」


 そう言って遥は車内から外に出た。このまま戦えば相人やハーミーズ達を巻き込んでしまうと考えたのだろう。


「……早く治療しないとまずい。あれは動脈が切れている」


 相人はハーミーズの呟きに戦慄する。そんな状態で戦おうというのか、遥は。


「これ以上変なことされても嫌ですし、このまま引き千切ってやりましょうか」


 傷を押さえつつも、毅然さを崩さない遥の言葉通り、男を拘束していた遥の鎖が動き出す。


「やはり頭が足りてないようだな」


 しかし、男の四肢を別々の方向に引っ張ろうと動いた鎖は男をすり抜け、何も絡め取っていない状態で虚空を引き千切った。

 遥が瞠目する。確かに鎖は男の両手両足を捕らえていた筈だ。


「まさか、鎖で縛れば動けないなんて、人間風情の常識で俺を語ってるんじゃねえだろうな」


 男の表情は心底退屈そうなものだった。


「固定観念を捨てて考えれば分かりそうなもんなんだが、俺は体を刃物に変えられる。つまり、薄くなれるってことだ。分かるか? 俺に拘束は無意味なんだよ」


 男は、両の腕を紙のように薄い刀に変化させて見せびらかすように遥に向けた。

 男の言う通り、気付いて然るべきだった。体の形を変えられるということは、つまり表面積を変えられるということだ。縛り付けようと、幾らでもすり抜けることができる。

 遥の能力と、刃のアルコーンでは相性が悪過ぎる。


「お前の敗因は何も相性だけじゃない。純粋な出力で負けてるんだよ」


 挑発ともとれるその発言に遥が反応する前に、男は自らの言葉の真偽を証明してみせた。

 刀となっていた両手が先端から枝分かれしていく。一本から二本――では止まらない。

 刃の形を保ったまま、まるで五本の指のように、両手合わせて十の凶器に分かれたのだ。ただし、数や枝分かれの根本こそ指を彷彿とさせるが、その長さは一本一本が遥の鎖に匹敵する。


「まずは十本。ほら、ご自慢なんだろう? 五本の鎖で対応してみろよ」


 遥が、僅かに後ずさる。


「それともまだ何本か隠し持ってるのか? それともまた成長するか? いいぜ。五本と言わず、十本でも二十本でも出せばいい。こっちもまだまだ増やせるからよ」


 男は凶悪な笑顔を浮かべる。


「お前、もう死んでいいぜ」


 十の死が遥に迫撃する。

 このままでは遥は死ぬ。数で劣る鎖を幾ら巧みに扱おうと、倍の数の刃を防ぎ切ることは不可能だ。しかし、相人を初め、この場の誰にも遥を守る程の力はない。


 ――だから、相人は決断した。


「待て――!」


 相人の叫びに、遥を蹂躙しようと迫っていた刃が止まる。


「てめえ……」


 それは相人が、人の肉すら引き裂けそうなガラスの破片を自らの首に向けていたからだ。


「やっぱり、お前は僕に死なれると困るんだな。何でなのかは知らないけど、お前達にとって僕には存在価値がある。違うか?」


 男の目的が相人なのは間違いない。そして、相人の生存が必要な可能性は十分にあった。

 相人は自らの命を賭け金として、その可能性に張った。


「これ以上遠浪に何かしてみろ。僕はこのまま喉にこいつを突き刺して自殺する。この体でも、流石にそれは致命傷になる筈だ」

「こいつの為に死ぬ気か? 人間ってのは理解できねえな」

「お前がそうさせないことくらい分かってるさ。頼むから、僕を死なせないでくれ」


 僅かな沈黙。それでも相人にはとても長く感じた。もし男の行動原理を読み間違えていたのなら、相人の行動には何の意味もない。


 数瞬の静寂の後、男は刀となっていた指を元に戻した。


「……。お前は連れて行くぞ。それも拒むようなら死なれるのと変わらねえ」


「ああ、好きにしろ。ただ、僕の隙を突いて僕以外の人に何かしたり、僕が自殺できないように気絶させようとしたりしたら分かってるよな」


 相人は首にガラスを突き付けたまま車から降り、男の元へ歩み寄る。


「ま、待ってください! 何で先輩が……」


 遥が縋るような目を相人に向ける。遥の気持ちは分かっているつもりだ。相人がもし遥の立場なら、きっと耐えられない。

 分かっていながら、相人は残酷な対応をする。


「遠浪、安心して待っててくれ」

「先……輩」


 遥は辛そうな顔をして、血を流し過ぎたのか、その場に崩れ落ちた。


「それじゃあ、後は頼みます」

「あ、ああ……」


 ハーミーズの返事を聞いて、相人は再度刃のアルコーンに向き直る。


「それじゃあ、連れていけよ」

「……ふん」


 目的を達した筈の男は、心底つまらなそうな顔で歩き出した。相人はその後を追随する。

 相人は命を賭けて、自ら敵の手中に落ちた。結果から言えば、酷い大敗北だった。




 全身余すところなく激痛に見舞われている。命がまだあって、意識を失っていないことが我がことながら信じ難い。盾も一応役には立ったらしい。由羽は他人事のように考えた。

 痛みから意識と感情を繋げるスイッチを切ってしまったのかもしれない。体も思うように動いてくれない。致命的な状態だったが、しかし由羽の意識はその深刻さを受け取らない。


 ああ、体が動かないな。由羽の実感としてはそんなものだった。


 体が動かないのなら、頭を動かそう。少し、考えてみたいこともあった。今なら得体の知れなかった相人への感情を、落ち着いて整理できるかもしれない。


 白蝋由羽は涯島相人を憎んでいた。これは間違いない。憎しみによって力が進化を遂げた以上、この感情は間違いなく由羽が抱いた本物の感情だ。

 では、何故相人を憎んだのか? それは嫉妬だ。由羽を差し置いて遥の心を奪った相人への嫉妬の念から生まれた感情だ。これも間違いない。

 だとすれば、憎んでいた筈の相人を攻撃した時に感じたあの感情は何なのだろう。相人の背中を斬り裂いた時感じた、自らの心も引き裂かれんばかりの衝撃は。

 庇われたから憎しみが薄れた? そうではない。そもそも、由羽は相人のそういうところが嫌いだった筈だ。だが、庇われたことが何かのきっかけになったと考えること自体は間違いではないだろう。相人の足の腱を斬った時は何の呵責も感じなかった。


 憎しみが薄れたのではないとすれば、庇われた瞬間に別の感情が生まれたのだ。それも罪悪感のようなその場限りの感情ではない。あそこまで根深い憎しみを乱す感情は、同じくらい根深い感情である筈だ。だとすれば、思い出したという表現が正しいだろう。

 由羽はあの時、相人に抱いていたもう一つの感情を思い出した。だが、その直後に憎しみに任せて相人を斬り裂いたことで、その感情は再び奥底に眠ってしまった。

 思い出さねばならない。由羽が相人に抱いた、憎しみとは違う、もう一つの本物の感情を。


 まずは、最初から。由羽が初めて相人を涯島相人個人として認識し、初めて相人へ感情を向けた瞬間を思い出していこう。

 太陽を恨めしく思う程に熱い夏の日だった。中学最初の夏休み、由羽は陸上部員として短距離走の練習をしていた。その日は、殆ど自主練習に近い状態だったのを憶えている。

 その日の前日、由羽は遥と言い争いをしていた。確か、練習にかこつけて宿題に手を付けていなかった遥を叱ったのをきっかけに、日を跨いでも尾を引くような言い合いに発展したのだ。だから、この日の由羽の気分はあまり優れているとは言えなかった。

 そんな状態で練習に臨んでいると、事件が起きた。由羽に、ではなく遥の身にだ。

 水分補給もまともにしないまま練習に没頭し、熱中症を起こして倒れてしまったのだ。


 遥に何かあればすぐに助ける。由羽はずっとそうしてきた。だが、この日はそうはいかなかった。由羽も炎天下の練習で疲れていたということもある。遥との間の確執から助けに向かうのを躊躇してしまったというのもある。とにかく、一瞬助けに向かうのが遅れた。


 だが、相人は違った。


 由羽は当時、相人のことを殆ど認識していなかった。そういえば、陸上部にこんな先輩いたな、といった程度の認識だった。

 そんなよく知りもしない先輩が、遥が倒れた位置から一番遠い場所で練習していた相人が、誰よりも、由羽よりも早く、真っ先に遥を助けに行ったのだ。


 その時だ。その時、由羽は相人に憧れた。

 自分よりも早く遥を助けたその姿に憧れた。そして、安心した。この人に任せておけば遥は安心だ――と。


 そうだ。初めはそうだった。その後抱いた嫉妬も、憎しみも、相人が一度遥の前から姿を消した失望感から生まれたものだ。本当は、由羽の本物の感情はそんなものではなかった。

 白蝋由羽は涯島相人に憧れている。

 これこそ疑いようのない、由羽が抱いた本当の、始まりの感情だったのだ。


「――は」


 思わず笑みが漏れる。どうしてこんなことを忘れていたのだろう。こんな大切なことを。

 だが、漸く思い出した。その感情が、由羽に力を与えた。痛みに侵された体に力が入る。この思いがあれば立ち上がれる。もう一度戦える。


「……まったく、勝てない訳だ。自分の本当の心も分かってないなんてな」


 自嘲するように呟く。

 イペアンスロポスの力が感情に左右されるのなら、今の由羽は間違いなく今までで最強だ。


「――行くぞ化け物。本気を見せてやる」




 キビシス。それが男が創造主から授かった名だ。


 キビシスは常に冷静な男だ。どのような時であろうと平常心を保ったままことに対処する。彼らがパトス粒子、転じて感情が物質化した存在という事実から考えると、そういった揺れることのない感情がキビシスの堅固な体を構成する要因かもしれない。

 ともかく、キビシスは常に慌てることのない男だ。


 だから、己の拳で吹き飛んだ少年が立ち上がったことに対してもさして驚きはなかった。


「本気、と言ったか。成程。今までは全力ではなかったということか」


 無論、敵の言葉がはったりや強がりの類である可能性もある。しかし、キビシスは軽々にその言葉を嘲笑わない。この身に傷を入れることが叶うとは思えないが、警戒は怠らない。

 怠らず、少年を観察する。そして気付いたことがある。少年の周囲に三枚の円盤が浮いている。砕いた筈だが、三枚とも傷一つ見当たらない。先程の三枚とは別物なのか、先程の三枚を修復したのかは分からないが、少年の戦力が減退しているということはないらしい。


 しかし、それが何だというのか。その程度何も脅威ではない。

 故に、キビシスはまだ何かあると踏んでいた。事実、


「この程度だと思うなよ」


 少年がそう発すると同時、空中に新たな円盤が現れた。一つ増えた、などという次元ではない。二つや三つでもまだ足りない。円盤の総数は九。


 直後、九の円盤がキビシスに襲い掛かる。


 巻き上がる竜巻の大きさは変わらない。ただし、その密度は三倍だ。しかも、ただ数が増えただけではない。一つ一つの勢いも硬度も切れ味も比較にならない程に向上している。

 たとえ戦車の装甲であろうと削り取って、彫刻作品を作り出すことも可能だろう。


 ――ただし、だからといって、それがキビシスに通用するということにはなり得ない。


 キビシスは冷静に、油断なく、警戒した上で、防御は必要ないと判断した。

 ただ前に歩く。死の嵐をまるで暖簾でも潜るように無造作に前に出る。

 どれだけ刃が増えようと、どれだけ切れ味が増そうと、どれだけ破壊力が向上しようと、キビシスにとっては同じこと。ただ、先程の光景が繰り返されるだけだ。


「まだだ!」


 しかし、先程と違う点もあった。この時点で呆けて防御に回っていた少年の目には、まだ闘志が灯っていた。

 量と質だけ上げても同じ攻撃方法では意味がないと悟ったのか、少年は円盤の嵐を止める。そして、九枚の円盤は一か所に集められた。


 その場所は、キビシスの頭上。


「ちくちくと刺しても意味がないことは分かった。なら――」


 集合した円盤はキビシスの真上の中空で更にその中心に向けて集まっていく。お互いがぶつかろうとお構いなしに。

 すると、そこに変化が起こる。それぞれ独立した存在であった九の円盤が、一つの巨大な円盤に姿を変えたのだ。


 単純に一つの円盤の九倍の大きさでは止まらない。直径は三メートルを越すだろうか。キビシスの巨躯よりも更に巨大なそれは、正に威容という他ないだろう。


「――全部纏めて、くれてやる!」


 絶叫と共に、少年の渾身の感情が上空からキビシスに落ちる。


 空を裂き、地に迫り、激突の衝撃は筆舌に尽くしがたく、それは兵器とすら形容できた。

 空気を割る轟音。地面を砕く爆音。ガラスが悉く飛び散る破砕音。

 キビシスが拳を放った時以上の衝撃が巻き起こる。その惨状は、空襲もかくやと思わせる。


「これが、俺の本気だ! これが俺の本物の感情だ……!」


 凄まじい威力だ。正に必殺。これを受けて無事で済む生物など存在しないだろう。


 ――キビシスという規格外を除いては、だが。


「成程、これが全力というわけか」


 何ら変わらず、防御すらせずに無傷を保ったキビシスはあるがままに現実を受け取る。

 少年にこれ以上の攻撃手段は存在しない。キビシスに傷一つ負わせることはできない。


「……ま、だだ」


 目を見開き、驚愕を露わにしながらも、少年はまだキビシスを見据えていた。敵わぬと知ってもまだ闘志を失っていない。勇敢なことだ。

 だが、現実は個人の感情など残酷なまでに簡単に押し潰す。どう足掻こうと、少年の敗北は確定している。


 体中の損耗のせいか、少年が膝を付く。それでも、少年は目線をキビシスから外さない。

 何が彼をそこまで駆り立てるのか、キビシスには分からなかった。最早哀れとすら思えた。


 今回のキビシスの役割は敵の戦力を引き付け、時間を稼ぐことだったが、止めを刺してしまおう。止めておく戦力自体を消してしまえば、時間稼ぎの必要性もなくなる。相手に反撃の意思がある以上、多少は手間取るかもしれないが、難易度としてはまるで問題はない。


 キビシスが足を一歩踏み出した時、眼前に白い羽根が一枚舞い落ちた。

 見上げると、上空でキビシスと同じように時間稼ぎの役を担っていたタラリアが病院から離れるように飛翔していた。


 ――ハルパーが目的を達したか。


 タラリアがこの場から離れるということは、目的遂行の役を負っていたハルパーがそれを果たしたということだろう。つまり、キビシスの役目も終わったということだ。

 キビシスは考える。すぐさま撤退すべきか、目の前の少年を殺してから撤退すべきか。


 思考時間は一瞬に満たなかった。その結果、キビシスが選んだのは前者だ。

 少年を殺すのは容易いが、反撃を考慮すればある程度時間はかかるだろう。そうなれば、その間にタラリアと戦っていたイペアンスロポスが加勢に現れ、退くには更に時間がかかる。

 そうやって時間を消費すればする程に、キビシス達の行いが主に察知された後、対処する時間が減る。それは避けなければならない。キビシスにとって、イペアンスロポスなどよりも、主である西園愛の方が余程脅威なのだ。


 そうと決めると、キビシスはその場で踵を返す。


「……何の、つもりだ」

「目的は達した。それだけのこと」


 キビシスは平然とそう言い残し、淡々とした足取りで戦場と化した病院から去った。

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