四章 標的のトゥーレ 4

 一日の静養を終えて、伊織の搬送の日を迎え、相人達一行は伊織の病室にやってきていた。


 そんな中、相人には気がかりなことがあった。妙に空気が尖っているのだ。

 由羽はずっと無言を貫いている。遥だけでなく凛までどこか険悪な雰囲気を醸し出している。相人が寝室で安静にしていた間に何かあったらしい。

 しかし、ここで相人が何があったかを尋ねても、事態が好転するとは思えなかった。

 今は、伊織の移送に集中すべきだ。


 窓際に凛とハーミーズ、伊織のベッドを挟んで相人と遥、少し離れた位置に研究員がいた。由羽は気分が優れないと言って外の空気を吸いに行った。移送が始まる時間には戻ってくるだろう。由羽の監視に研究員が一人付いていった。


「では、桶孔クンの移送の手順を確認する。移送開始は今から十分後の午前十時」


 既に知らされていることではあるが、ハーミーズが最終確認を始めた。


「今回の移送はアルコーンによる妨害を考慮し、この病院の職員を巻き込まない為にワタシ達のみで行う。時間が来たら担架で桶孔クンを裏口に停めてある車に運ぶ。君達も護衛の為に同行して研究所に向かう。敵に場所を悟られないようあえて回り道をしていく。敵に遭遇したら倒すことよりも振り切ることを優先してくれ。質問は?」


 もう何度か確認したことだ。手を挙げる者はいなかった。

 移送先が研究所なのは、敵から隠す場所を増やして余計な手間をなくす為だ。


「今回の作戦は順調にすすめば何の問題もないが、襲撃があった場合逃げながらの戦いになる。また、尾行にも十分注意して――」


 ハーミーズが注意事項を口にしていた時だった。

 ハーミーズの後ろ、窓の外に相人は羽根がひらひらと舞い落ちるのを見付けた。鳥の羽にしては大きな、白い羽根。

 見覚えがあった。目を凝らせば、舞い散る羽根の向こう側に、翼を広げた真っ白な少年。


「アルコーンだ……! 窓の外!」


 気付いた瞬間、ここが病院であることも忘れて叫んでいた。


 相人の声に最初に反応したのは凛だった。一瞬のうちに振り返り、窓を開けたかと思うと、そこから飛び降りたのだ。補足しておくと、伊織の病室は三階である。


「天王寺さん!」


 思わず相人は窓際に駆け寄り、身を乗り出した。

 だが、結果的に言えば相人の心配は必要のないものだった。凛は地面に落下しなかった。墜落するよりも先に下に向けて砲撃を放ち、空に向かって飛び上がったのだ。

 相人は目線を下方から外し、空を仰ぎ見る。

 凛はタラリアへの攻撃の反動を利用して空中で方向転換し、屋上に着地したようだ。惜しむらくは、不可視の砲撃は外れたらしく、タラリアが無事であることか。


「……あのアルコーンは天王寺クンに任せてよさそうだね」


 相人が凛の反応の早さと能力の応用に絶句していると、ハーミーズが口を開いた。


「時間はまだだが、悠長なことは言っていられない。今すぐに桶孔クンの移送を開始する」


 ハーミーズがそう言い切るとほぼ同時、研究員が担架を伊織のベッドの横に持ってきた。


「あの、白蝋君は……」

「待っている暇はない。車の場所で合流しよう。携帯で連絡して……」


 ハーミーズの言葉が止まった。

 相人が怪訝に思うよりも先に、ハーミーズは携帯を取り出し、画面を見る。


「……そういう訳にもいかなくなったらしい」


 ハーミーズの声からは、相当の深刻さが感じられた。


「正門にアルコーンが現れた。白蝋クンが今対応している」

「そんな……」


 相人は学校で起きた悲劇を想起する。ここにアルコーンが大挙して押し寄せれば二の舞だ。


「だが、妙だな。白蝋クンの方に現れたのも人型一体。通常のアルコーンがいない……?」


 確かに妙だ。学校にやってきた分で通常のアルコーンが尽きたと考えるのは流石に楽観が過ぎる。だとすると……。


「考えてる暇はないでしょう。由羽も合流できないっていうなら、あたし達だけで行くしかないじゃないですか」


 考え込み始めていた相人とハーミーズに遥が冷や水を浴びせるように声をかけた。


「そうだな。急ごう。ただし、敵はこれで終わりとは考えにくい。十分注意するように」

「はい」

「分かってますよ」


 混乱の中、伊織の移送作戦は開始された。




 由羽は、ここに至ってもまだ心の整理を付けられずにいた。相人と同じ部屋にいることに耐えられなくなって病院の外まで逃げてきたが、それでも気持ちは落ち着かなかった。

 自分は相人を憎んでいた筈だ。それが反応現象によって増幅されたものだったとしても、根本にある感情は本物だ。だというのに、自分を庇った相人を斬り付けた時のあの感情は一体何だというのか。そんなことをずっと考えていた。


 だが、そんな時であろうと、敵はお構いなしに現れる。

 見たことのないアルコーンだったが、話には聞いている。由羽達が学校で戦っている間に伯難大学病院を襲ったアルコーンのうちの一体。西園愛でも刃のアルコーンでもない、全身を筋肉に覆われた大男。こうして目にすると凄まじい。二メートルは優に超えている。三メートルはないだろうが、目の前にいると自分の倍はあるのではないかと錯覚する程の威容だ。

 周囲の人間は反応現象で軒並み倒れている。一緒にいる研究員は既に避難している。


 こうなればこの大男で今の精神状態を解消してしまおう。由羽は空中に刃を二枚出現させた。刃が二枚だと思わせたところで、新たに手に入れた三枚目で止めを刺す。

 大男が悠然と歩み寄ってくる。間合いが四、五メートル程になったところで立ち止まった。


「その刃……イペアンスロポスか」


 何の感情も込められていない声だった。だが、その大きさも相まって、それが大男の威圧感を増していた。

 だとしても、由羽が圧倒されることはなかった。この距離は由羽の射程内だ。男の問いかけに答えることなく、由羽は二つの刃を放った。まずは様子見。大学病院では能力を見せなかったとのことだが、この攻撃への対応で敵の戦力と戦法を見極める。それが由羽の算段だ。


 しかし、その目論見は結実することはなかった。

 男は何の対応もしなかった。回避も。防御も。何らかの能力を発動させる気配も、肉体を変化させる素振りも見せなかった。ただ、そこにいるだけ。本当に一切の動作を起こすことなく、一切の傷を負うことなく、二枚の刃を弾き飛ばした。


「……何をした」


 信じがたかった。様子見とはいえ、殺意を込めて放った攻撃だ。それを、指一つ動かすことなく一蹴するなどありえない。由羽が認識できなかっただけで、何かしたに決まっている。


 男は答えない。


「何をした……ッ!」


 男の力とその沈黙に得体の知れない悪寒を感じた。もう様子見など言っている場合ではない。由羽の直感が、本能が、感情がそう言っていた。

 第三の刃も顕現し、全ての刃で男を取り囲んだ。


 それでも、男は眉一つ動かさない。


「……っ」


 その余裕が、由羽に焦燥をもたらした。――この程度、問題ではないとでも言うつもりか。


 由羽は、渾身の殺意を込めて、三枚の刃叩き込んだ。

 やはり男の体はその全てを弾き返す。しかし、由羽の攻撃はそれでは止まらない。一度弾かれればもう一度、再度弾かれればもう一度。幾度でも必殺である筈の刃を斬り付ける。

 弾かれ、斬り付け、乱舞する斬撃は都合百を超えた。砂煙を巻き上げ、内部を窺うことすら叶わない連撃は、傍から見れば一つの竜巻のようにも見えた。

 その竜巻の中心は、台風の目のような安全地帯ではない。全ての斬撃が集中する危険地帯だ。そこに身を晒している男は、どう見積もっても無事では済まない。


 だが、由羽の想定は脆くも崩れ去った。


「――これが貴様の力か」


 決して生命の存在を許さない嵐の中から、まるで調子の変わらない男の声が聞こえた。


 由羽はぞっとした。敵が無事であること、その力が全く窺い知れないことだけでなく、男が由羽の力を値踏みしていたことに脅威を抱いた。初撃を本領ではないと見極め、これだけの攻撃を受けながら、由羽の本気を冷静に見極めていたのだ。敵を測っているつもりが、逆に由羽の方が見定められていた。


 渦の中から、白い脚部が露出した。男が前進を始めたのだ。次第に、その体が砂煙の中から現れていく。白日に晒されたその全身には、傷と呼べるものは何一つ付いていなかった。


「お前、まさか……」


 口にする前から危惧はしていた。だが、ありえないと、あってはならないと否定していた。

 体を刃に変化させる。背に生えた翼で高速飛翔する。アルコーンの能力は強力なものだ。だが、能力があるということは、その能力さえ攻略してしまえばいいということだ。


 しかし、目の前の男にそれがないとすれば、なんの能力もなしに由羽の斬撃を耐え切ったのだとすれば、一体どうすればいいのだ?


「左様。私はハルパーやタラリアのような超常の力など持ち合わせていない欠陥品だ」


 自らを卑下するようなことを言う男だったが、由羽の耳には皮肉にしか聞こえなかった。


 男が距離を詰める。気付けば男と由羽の距離は男の拳が届くところまで詰まっていた。

 由羽は防御の為に三枚の刃を引き戻す。男が、拳を振り上げる。

 由羽は、前方に刃を三枚重ねて盾を作った。一枚でも高速飛翔の勢いを乗せたタラリアの一撃を耐えた盾を三つ重ねた。

 これが破られることはない。男がどれだけ硬い体を持っていようと、どれだけ堅固な拳を繰り出そうと、この守りを打ち破ることはできない。


 そして、男は拳を振り降ろす。


 瞬間、空間が割れた。凄まじい速度で放たれた拳は空気の壁を破り、轟音を周囲にまき散らす。拳が破ったのは空気の壁だけではない。その殺人的な速度と堅固な拳は、由羽の展開した盾に衝突した瞬間に、その全てを砕き割った。破られない筈の守りは、突破された。


 三枚の盾を犠牲に勢いは減衰したとはいえ、その膂力は人間に堪えられるものではない。

 由羽は大きく後方に吹き飛ばされた。病院の正面玄関の自動扉が開くよりも先に硝子を突き破り、ロビーに身を投げ出した。


「貴様、私に何をしたか問うていたな」


 倒れ伏す由羽に、男は言葉を投げかける。


「――何もしていない。この身に、特別なことなど何一つできはしない」

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