四章 標的のトゥーレ 3
研究所の地下の実験室の一つ、第四研究室は臨床実験用の部屋だ。その主な用途は人体からデータを収集することにある。遥達も日々、脳波などのデータを取られている。しかしそれだけでなく、プロドティス化の手術もできるよう一通り外科的な設備も整っていた。
遥は倒れた相人を第四研究室に運んだ。そこで、ハーミーズがオペを担当することになった。プロドティス化手術の為に医師免許を持ち、外科の心得がある為だった。
相人の傷は深かったが、対処不能な程ではなく、この場にも十分な設備があることから、病院に搬送するのはハーミーズが処置した後ということになった。
遥は手術の間、夕方の見回りも凛に任せて第四研究室の前で待機していた。その近くには由羽が俯いてしゃがみ込んでいた。遥の報告で由羽の所業は明るみになり、由羽も貴重な戦力である為に処分は保留となったが、数人の研究員が警戒の目で由羽を監視していた。
午後六時になって、見回りから帰ってきた凛が実験室の前で待ち続ける遥にペットボトルに入った炭酸飲料を差し入れに来た。
「大丈夫だよ。ハーミーズさんも問題ないって言ってたでしょう」
「……ありがとうございます」
遥は凛からそれを受け取ると蓋を開けて一口分だけ喉を潤わせた。
「すみません、天王寺先輩。見回り代わってもらって」
「ううん。私も心配だけど、遠浪さんの方が涯島君とは付き合い長いし、遠浪さんの方が心配してるのは分かるから」
今の遥には凛の気遣いは素直に嬉しかった。由羽の凶行、相人の負傷、こんな状況下では他人のごく普通の善意がいつも以上に沁みた。近頃の凛も普通とは言えない状態ではあったが、アルコーンが関わっていない今では不穏な空気は鳴りを潜めている。
「大丈夫だっていうのは分かってるんですけど、何か離れられられなくて。後輩をこんなに心配させるなんて世話の焼ける先輩ですよ、まったく」
無理に茶化した遥に対して、凛が微笑む。それはどこか作られたような笑みだった。遥が無理していることは伝わっているのだろう。
それから少し凛と話したが、凛は一言も由羽については言及しなかった。遥もその気持ちはよく分かった。今、由羽にどう触れればいいのか、幼馴染の遥にも分からない。
凛が来てから三十分程経った頃だろうか、実験室の扉が開かれ、中から珍しく清潔な白衣を身に着け、手術帽を被り、マスクで口を覆ったハーミーズが現れた。
「あのっ、先輩は……?」
駆け寄る遥に対し、ハーミーズは気怠げにマスクを外す。
「手術は成功した。今はまだ意識はないが、暫くすれば目を覚ますだろう」
「よかった……」
しかし、胸を撫で下ろす遥の様子とは裏腹に、ハーミーズの顔には曇りが伺えた。
「君達に話がある。本来、本人に真っ先に伝えるべきだが、どちらにしろ話さなければならないことだ。ワタシは着替えてくるから、会議室で待っていてくれ」
そう言うと、凛と遥の間を通り過ぎ、顔を伏せている由羽の前に立った。
「白蝋クン。君にも聞いてもらうよ」
名を呼ばれて、由羽は顔を上げて目だけで返答した。
ハーミーズは無言の由羽にそれ以上頓着せず、自分の研究室に引っ込んだ。
遥は不吉な何かを感じずにはいられなかった。
会議室に移動して待っていると、それ程時間を空けずにハーミーズが入室した。
何故かわざわざ皺だらけの白衣に着替えたハーミーズは、ホワイトボードの前の席に座る。
「先輩の体に何かあったんですか? もしかして、心臓に問題が……?」
相人は心臓病を患っている。負傷が原因で悪化したのではないかと遥は危惧していた。
「確かに、ワタシが話そうとしたのは、心臓の異常についてだ。だが、特別悪化したということはないから、そこは安心してくれて構わない」
安心しろと言っておきながら、ハーミーズの表情は暗い。普段飄々としているだけに、ハーミーズの深刻そうな顔は遥を不安にさせた。
「涯島クンの発作は原因不明と聞いていたが、胸部を切開した結果、原因が判明したよ」
「酷い病気なんですか?」
悪化したという訳でもないのにここまで深刻そうに語る以上、凛の質問は当然と言えた。
しかし、ハーミーズは今度ははっきりと首を横に振った。
「彼の発作は病によるものではない」
ハーミーズの発言に、遥は混乱せずにはいられなかった。凛だって動揺している。特に反応がないのは、抜け殻のようになっている由羽だけで、研究員すら眉を顰めている。
ハーミーズの物言いはは明らかに矛盾している。
「――彼の心臓は白かった。厳密には、心臓の八割近くが白く変色していた。人体にはあり得ない程の白にね。レントゲンでは色までは見えないから今までは発覚しなかったんだろう」
「え……」
思わず、遥の口から声が漏れる。その特徴は、まるで……。
「彼の心臓のパトス粒子を計測したところ、僅かながら検出したよ。本来、脳から生成される筈のパトス粒子を心臓からね」
「ちょ、ちょっと待ってください……!」
「以前彼の脳から放出されるパトス粒子を計測した際、一般人と何ら変わりなかった。それでもアルコーンを見ても恐怖の反応現象が表れなかったことから、彼を未覚醒のイペアンスロポスと思っていたが、そうではなかった」
遥の声を聞かず、ハーミーズは続ける。
遥の頭の中で様々な要素が渦巻き、一つの結論を示していた。三年前、西園愛に何かをされた。そこから、心臓の発作を起こすようになった。発作は感情が高ぶった時に起きる。相人の心臓は白かった。アルコーンは白い。西園愛はアルコーンである。
「涯島クンはイペアンスロポスではない。――彼は、心臓にアルコーンを移植されている」
そう考えると、納得できることがある、とハーミーズが言った。
「ワタシはずっと疑問だった。何故、君達の学校にイペアンスロポスが集中しているのかと。あくまで仮説だが、少し分かった気がするよ。彼と長い間共にいた、つまり僅かながらといえ、反応現象に晒され続けた影響でパトス粒子を発生する器官に異常が生じ、イペアンスロポスとして覚醒したと考えられる。他に例がない以上、確実なことは言えないがね」
無論、それでも伊織のように覚醒まで至れなかった者もいたのだが。
「彼の心臓とアルコーンは完全に融合して切り離すことはできなくなっていた。それ程に異物と結合した以上、拒絶反応は免れなかっただろう。恐らく、それが発作の原因だ」
淡々とハーミーズは話しているが、その表情はずっと暗いままだ。
それは、遥にとっても、歓迎できる類の事実ではなかった。そして、恐らく相人自身にも。
「そして、白蝋クンの暴走も、涯島クンの心臓のアルコーンに一部原因があるかもしれない」
由羽の名が挙がったが、それでも由羽は反応を示さない。
「君達も分かっているだろう。アルコーンを見た人間には反応現象が表れる。たとえそれがイペアンスロポスだったとしてもだ」
つまり、ハーミーズが言おうとしているのは、由羽が抱いていた相人への感情が増幅された結果として、今回の事件は起きたということだ。
しかし、遥には到底納得できなかった。
「そんなのおかしいです。だって、先輩を見て倒れた人なんて今までいませんでした。そんなことがあったら、まともな生活が送れる訳ないじゃないですか」
この世をイペアンスロポスとそうでない人間で分けた場合、圧倒的に後者の方が多数派だ。事実、学校が襲撃された時の被害の殆どは反応現象によって再起不能になった場合だった。
だが、もし相人がアルコーンと同じように反応現象を起こすとしたら、アルコーンが攻め込まずとも、それに近い悲劇が起きていたのだ。
「ああ、だから可能性の話でしかない。それでも、自我を塗り潰す程の強烈な反応現象とまではいかずとも、募っていた感情の最後の堰を切るくらいの働きはしてもおかしくはない。それに、さっきも言ったが、君達がイペアンスロポスに覚醒した理由が涯島クンにある可能性が高い以上、反応現象はあったと考えた方が自然なんだ」
遥の反論を、ハーミーズは合理的な説明で打ち砕く。遥は次の言葉を見付けられなかった。
遥が反応するよりも先に由羽が立ち上がり、そのまま何も言わず、会議室を出ていった。
白蝋の突然の行動に、虚を突かれたようにハーミーズは目を瞬かせた。
「ワタシ、何かまずいこと言ったかな……?」
何も分かっていない様子のハーミーズに、遥は盛大に溜め息を吐いた。
「由羽にはきつい話だったんじゃないんですか? 由羽からすれば、先輩に埋め込まれたアルコーンに踊らされたってことになる訳ですし、それに……」
由羽の気に障ったのは、その点だろうが、遥の頭にきたのは、
「――先輩は、由羽にそんなことをさせてしまったって、自分を責めるでしょうから」
落ちた太陽がまた昇り、翌日の朝になった。相人の命に別状はないと聞いてはいたものの、眠れずにいた遥は、相人が目を覚ましたと聞いて、真っ先に相人の部屋に向かった。
相人は病衣を身に纏い、上体を起こしてベッドに座っていた。
「ああ、遠浪」
相人は遥に気付くと、いつもと変わらぬ笑顔で迎え入れた。いつもと何も変わらない筈なのに、遥の目にはどうしようもなく痛々しく映った。
「……ああ、じゃないですよ。人に心配かけておいてお気楽なんですから」
それでも、遥は相人と同じようにいつも通りであろうと努めた。
「ハーミーズさんが、本当なら一週間くらいは寝てなきゃいけない傷だけど、今日一日寝ていれば動けるくらいには回復するだろうってさ。アルコーンの影響で怪我の治りが早いらしいんだ。はは、こんな大怪我したの初めてだからそんなの気付かなかったよ」
茶化したような口調で語る相人は、笑顔を絶やすことはなかった。
「だから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。伊織の移送にも同行できるんだ。大したことないんだって」
遥も、相人に倣って暗い感情を見せないよう、呆れたような苦笑を浮かべようとした。
だが、駄目だった。笑みなど浮かべられない。何も言葉を口にすることはできなかった。
「怪我だけじゃなくてさ、この体だって、そりゃあ聞いた時はショックだったけどさ、今までと何か変わった訳じゃないし、むしろ怪我の治りが早いから便利だなーってくらいで」
間を持たす為か、遥に気を遣ってか、相人は話し続けた。
「もちろん敵が何の為にこんなことをしたのか分からない以上楽観してもいられないんだけど、無闇に暗くなっても仕方ないしさ。今は僕のことより伊織の移送のことを考えなきゃな」
聞いているうちに、遥は次第に腹が立ってきた。
相人は泣いてもいい。弱音を吐いてもいい。いや、そうするべきなのだ。だというのに、本来慰められる側である筈の相人が激励しているというのは、一体何だ。
遥は、自分に気を遣う相人にも、相人を追い詰めた敵や由羽にも、そして相人に気を遣わせている自分にも無性に腹が立った。
「僕に何かができるって訳じゃないけどさ、ていうかむしろ足手纏いかもしれないけど、それでも力になるから。な、頑張ろうよ」
相人の困ったような笑みが、どこまでも遥を苛立たせた。
「いい加減にしてくださいっ!」
研究所に来てから日が浅い故に殺風景な部屋は、遥の声がよく響いた。
「大丈夫? 大したことない? 便利? 僕のことより? 足手纏い? そんなのおかしいじゃないですか。そんな訳ない、それでいい訳ないじゃないですか……!」
「遠浪……」
遥の叫びに、相人は不意を打たれたように呆然とした表情を見せた。
「何で、何で、何でっ、何であなたは、どうしてそこまで自分を蔑ろにするんですか! どうして自分を大切にしてくれないんですか……っ!」
許せなかった。相人の自己犠牲は異常だ。常に自分を責めて、無理をして、何でもないと笑顔で誤魔化して。
遥には相人のそういうところが我慢できなかった。だから叫んだのだ。だから怒ったのだ。
だというのに、相人は、
「ごめんな、遠浪」
そんな風に本当に申し訳なさそうに謝るのだった。
「――っ」
遥は踵を返し、部屋から飛び出した。
パトス粒子変容体対策研究所は夕食の時間を迎えていた。
食堂にハーミーズと凛、遥、由羽、数人の研究員が集まっていた。普段は戦闘に貢献できないならせめて、と相人が食事当番を買って出ていたのだが、本日の夕食は、家事に慣れていない研究員が作ったものだ。その所為かどことなく拙さ、というより雑さを感じさせた。
その相人の夕食は部屋に研究員が持っていった為、この場に彼はいない。
暫く食卓には沈黙が漂っていた。相人に手を下した張本人である由羽がいる為の気まずさもあったが、相人を見舞ってからの遥の様子も暗い雰囲気を助長していた。
「いや、しかし涯島クンは本当に料理上手だったんだね。家でよく手伝っていたというし、立派なものだよ、うん」
重い空気に耐え切れず、ハーミーズが苦し紛れに発した言葉は黙殺されてしまった。
最近ワタシはこんな役割ばかりだ、とハーミーズは嘆く。潤滑油的存在だった相人が不在である為に、自分にお鉢が回ってきた。そもそも、ハーミーズは空気が読めない人間だ。空気を読まない人間と思われがちだが、読もうとしないのは読む力がない故の一種の諦めだ。
ハーミーズは合理的な人間だ。自分にできないことは他人に任せる。ハーミーズは三人の中で一番普段と態度の変わらない凛に目線を送る。何とかしてくれないか、と。
凛は視線で呆れを示す。情けない大人だと思われたのかもしれない。ハーミーズは自分が情けない大人であることは自覚して受け入れていたので、それについては何も感じない。
そんなところが空気を読めない原因なのだろうが、今回はそれが奏功し、凛の方が折れた。
「遠浪さん、今朝涯島君の部屋で何かあった?」
「……何もありませんよ」
遥の反応は実にそっけないものだった。しかし、それだけで退く程に凛は軟弱ではなかった。
「そんなの嘘だって見てれば分かるよ。遠浪さんの様子、明らかにあれから変だもん」
ハーミーズの予想以上に凛は踏み込んだ言い方をする。遠慮していては仕方ないと思ったのかもしれない。
それが遥の本音を引き出すというという試みならば、確かに上手くいった。しかし、場の空気をよくするという試みならば、致命的なまでに失敗だ。
「何もないって言ってるじゃないですか……! 何もないから、あんな目にあったのに、先輩は何も変わらないから苛ついてるんですよ! 本当は追い詰められている筈なのに……!」
食卓を両手で思い切り叩いて遥は立ち上がる。完全に逆上していた。
「由羽や西園愛だけじゃない! あなたのせいでもあるんですよ、天王寺先輩……!」
「……私?」
突然自分に話が及んで凛は眉を顰めた。
「そうですよ。あなたがいつまでも死んだ人にこだわってるから、先輩はそんなことにも心を配らなきゃならない!」
ハーミーズは、嵐を予感した。そこは、凛にとって、最も繊細で凶暴な部分だ。
「そうだ、あなたがそんなことだからいけないんだ! 死んでしまった人よりも、今生きてる人の方が大切に決まってるでしょう……!」
「――随分饒舌になったわね。さっきみたいに黙らせてあげる」
凛が先程までより一段低い声と共に遥を睨み付けたと同時、風のない室内だというのに凛の長髪が揺れ始め、先端から少しずつ浮き上がる。
強過ぎる感情の発露によって抑えきれなくなったパトス粒子が漏れ出し、力場を形成しているのだ。
「あるちゃんの死は絶対に意味のあるものだった。それを軽く見るような言葉は許さない」
「やる気ですか。いいですよ。あたしもどこかで発散しないとおかしくなりそうでしたから」
二人の視線が交差する。双方、相手を呪殺しかねない程の眼光だった。
「ま、待つんだ二人とも! どうしてそうなる! 君達が戦うなんて涯島クンも百目鬼クンも喜ぶ筈ないだろう!」
二人の心の中心にある者の名前を出したことで、鋭利な視線が僅かに丸みを帯びた。
「二人が戦って消耗したら誰がアルコーンと戦う? キミ達がぶつかればこの研究所だってただでは済まない。そんなこと誰が望むんだ」
ハーミーズの言葉を受けて我を失っていたことに気付いたのか、二人ともばつが悪そうに相手から視線を逸らした。
「二人とも、一度頭を冷やした方がいい」
ハーミーズがそうやって凛と遥を宥めていると、蚊帳の外にいた由羽が立ち上がった。
何ごとかとそちらに目をやると、由羽は空になった食器を流しに置いて退室した。
思わずハーミーズは溜め息を吐く。全く足並みが揃っていない。
研究しているだけだった時には経験したことのない心労から、ハーミーズは項垂れることしかできなかった。
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