四章 標的のトゥーレ 2
二度の奇襲を躱され、由羽は苛立ちを感じ始めていたが、未だ冷静さを忘れてはいない。
相人は木々に身を隠しながら逃げることにしたようだが、その程度の小細工では由羽の手からは逃れられない。ここは相人が逃げ込んだ林という場を利用する。由羽は相人がそうしているように、身を隠しながら追跡を開始した。
相人からすれば身を隠す相手の位置が分からなければ、隠れるのは難しくなる筈だ。また、見えない相手に襲われるというのはかなりのストレスになる。ただ追いかけて自分の位置を教えるより、隠れながら追った方が相人からすればやりづらい、由羽はそう判断した。
そもそも、円盤の射程内に相人を捕捉すれば由羽の勝ちなのだ。慌てる必要はない。
相人にこちらの動きを察知されないよう、注意深く歩いていると、太腿の辺りに振動を感じた。ポケットに手を入れて携帯を取り出すと、どうやら着信らしい。今は電話に出ている場合ではないと切ろうとした時、発信者の名前を見て由羽は動きを止めた。
涯島相人。液晶には由羽が今追いかけている相手の名前が表示されていた。
由羽は出るべきか出ないべきか一瞬思案してから、応答した。何か考えがあるのかもしれないが、今は相人をできるだけ早く捕捉したい。罠だとしても情報は欲しい局面だった。
「命乞いですか? だったら顔を見せてするものだと思いますけどね」
声を外に漏らして相人にこちらの位置を教えないように口元に手を当てて話す。
相人も同じようにしているのか、くぐもった声が返ってきた。
『白蝋君、教えてくれ。何でこんなことをするんだ。僕には君に狙われる心当たりがない』
相人の質問は考えてみれば真っ当なものだ。相人からすれば状況把握がしたいというのは当然だろう。情報が欲しいのは相手も同じということか。
答えてやる義理はない。そう思って、由羽は適当にあしらおうとしたが、気が変わった。むしろ教えてやった方がいいかもしれない。
「西園愛が言ってたんでしょう? 全て先輩の為だって。先輩には自覚はないみたいですけど、敵の目的が先輩なら、先輩が死ねば敵の目的を挫けるかもしれない。そもそも、戦力にならないんだし、死んだ方が貢献できるんじゃないですか?」
相人には自己犠牲に走るきらいがある。流石にこの言葉で命を差し出すということはないだろうが、迷いや動揺が生まれる筈だ。そうなった方が殺しやすい。由羽はそう考えていた。
『……そんな、確証もないのに死ぬことなんてできないよ』
やはりだ。言葉に詰まった。それに、今の口ぶりだと確証が得られれば自らの犠牲も厭わないとでも言っているようだ。事実、そうなのだろう。目論み通りではあったが、由羽の中で苛立ちが更に募る。由羽は相人のそういうところも嫌いだった。遥が相人のこういうところに惹かれたのだと知っているから。
『敵の目的も分からないのにとりあえず死ぬなんて、そんなの受け入れられない。考え直してほしい。それに、僕が死んだら、みんなにも僕にしたような説明をするのかい?』
相人はどうやら説得に入ったようだ。これがこの電話の目的かと由羽は悟った。だが、それは無意味だ。由羽が相人を狙う本当の理由を、相人は知り得ないのだから。
「正直に話したら当然反発はあるでしょうね。でも、これならどうです? 『刃のアルコーンに見回り中に遭遇した。俺は何とか逃げ切ったが先輩は殺されてしまった』なんていうのは。俺の能力なら刃のアルコーンの仕業に見せかけることはできるんじゃないですかね」
目撃者はいない。警察も介入できない。幾つか細工の必要はあるだろうが、騙すのは不可能なことではない。
『……無茶だよ。みんながそれを信じても、刃のアルコーンに会った時、話が合わなくなる』
「味方の話と敵の話、どっちが信用できます?」
滑稽だ、と由羽は自嘲する。本来味方である筈の相人の命を、敵の言葉を信じて狙っている自分の台詞ではない。しかし、それでも相人への殺意は微塵も薄れることはなかったが。
相人の説得は無駄に終わる。由羽は意識を電話から周囲に向ける。木々の間隔が広がってきた。開けたところに出るのか、木が少なくなっているのだ。それはつまり、相人が身を隠す場所が減っているということだ。
『やめるんだ。分かっているのか? 君は人殺しになるんだぞ。命惜しさに言ってるのは否定しないけど、君にとっても絶対にいいことじゃない』
電話越しにまだ何か言っているが、由羽は完全に相人の姿を捉えることに集中し始めた。
見えた。射程外ではあるが、この木の量なら障害物を殆ど気にすることなく接近できる。
まだ相人は電話に意識を向けている。説得できると信じているのだ。由羽にとっては幸いだった。由羽は、声を出さず、走り出した。
相人が振り向いたが、もう遅い。既に射程内だ。
「死んでもらいますよ、先輩」
宣告の後に通話を打ち切って、刃を相人に飛ばした。
一つ目は木を盾にして避けたようだが、二つ目は右足に命中した。切断するには至らなかったものの、あの様子だと腱を斬った。射程ぎりぎりだったので精密な動作ができなかった為に致命傷は与えられなかったが、機動力は潰した。次は十分接近して確実に仕留める。
相人は足を引きずって逃げていくが、最早由羽から逃げ切る術はない。
相人を追いかけると、木々が晴れ、目の前に砂利と小川が現れた。
「よりによって、ここに逃げ込みますか」
ここは、昨日相人と遥が話していた場所だ。隠れて見ていた由羽にも見覚えはあった。由羽にとってすれば不愉快な場所だ。
相人は、足の痛みのせいで身動きが取れないらしく、足を押さえてうずくまっている。
「白蝋君……」
「何を言っても無駄ですよ。情にほだされることはないですし、論理で止まることだってありませんから」
相人を見下ろして、由羽は殺意を昂ぶらせる。殺す。今、ここで。この男を。自分の手で。
パトス粒子が殺意という感情を、由羽のイペアンスロポスとしての力の具現である二枚の円盤に伝達する。動力を受け取った凶器は、主の怨敵に向けて殺到する。
十分に接近した。相人と由羽の距離は三メートルも離れていない。この距離なら、たとえ相人の足が万全だったとしても、二枚の円盤の同時攻撃を躱すことは叶わない。相人の力ではどうしようと、結末は絶命以外あり得ない。
――だから、相人の命を救ったのは、彼自身ではなかった。
無論、由羽が相人を殺す寸前に思い止まったなどということではない。この場にいるのは、相人と由羽の二人。この二人ではないとすれば、答えは新たに現れた第三者だ。
「――あんた、一体何やってんのよ……!」
由羽の飛ばした円盤は、側方から伸びてきた黒い鎖に弾き飛ばされた。由羽は恐る恐る、鎖の伸びてきた方向に目を向ける。
「はる、か……?」
そこに現れ、相人を守ったのは由羽のよく知った幼馴染だった。
唐突な登場に虚を突かれ、思わず硬直した。
「間に、合った……」
相人がそんな言葉を口にしたのを、由羽は衝撃を受けながらも聞き漏らさなかった。
「どういう、ことだ」
上辺だけの敬語も忘れて由羽は問い質した。
「電話、したんだ。白蝋君にかける前に。山の中じゃ合流は難しいけど、昨日来たこの場所なら、遠浪にも分かると思って……」
「……成程、俺を説得しようとしたのは、遥が間に合わなかった時の保険だった訳ですか」
警戒はしていたつもりだったが、どこかで相人のことを舐めていたようだ。正直、そこまで頭が回るとは思っていなかった。
「逆よ。先輩は、あんたを説得できなかった時の保険にあたしを呼んだの」
苦虫を噛み潰すような心持ちの由羽に、遥が抗議するように言った。
遥の言葉に由羽は眉をしかめる。確かに、順番で言えばそうなるかもしれないが、成功率から言えば遥を呼ぶ方に主眼を置いていると考えるべきだろう。
「先輩はあたしに、すぐに来てくれとしか言わなかった。それも一人でって。あんたの名前は出さなかったし、襲われてるとすら言わなかった。何でだか分かる?」
遥の声は震えていた。この震え方は、怒りだ。
「あんたの名前を出したら、説得できた時あんたを庇えなくなるから。襲われてると言ったら、あたしが他の人に報告する可能性があったから。先輩は、襲われてるっていうのに、あんたを守ろうとしてたのよ……!」
そういうことか。遥の言葉に、由羽は素直に納得できた。遥が一人でここに来ていることからも、本当のことだろう。――反吐が出る。
「言われた通り来てみれば、何なのよこれ。由羽、ちゃんと説明してくれるんでしょうね」
こうなってしまえば、もう相人を襲ったこと自体を誤魔化すことはできない。
由羽は顎に手を当てて、念の為に用意していた台詞を言葉にした。
「同意を得られないと思ったから、誰にも気付かれないようにしたかったんだが、仕方がない。これは敵の目的を壊す為に必要なことなんだ。敵の目的は先輩なんだから……」
「――嘘でしょう、それ」
不意に遥に指摘され、由羽の思考は一瞬完全に停止した。
「何年あんたの幼馴染やってると思ってるのよ。気付いてないと思うけど、あんたがあたしを誤魔化そうとする時、いっつも顎に手を当ててるのよ」
それは、由羽が遥相手にしていたのと同じだ。幼馴染故に分かること。由羽は自分だけが遥を見ていたと思っていたが、遥も由羽を見ていたのだ。
そのことを嬉しいとは思わない。そもそも見られていなかったのではなく、見ていた上で選ばれなかったということなのだから。
「おい、遠浪。どういうことだ? 白蝋君が嘘を吐いてるって……?」
相人が遥に疑問を投げる。
「他に白蝋君に僕を狙う理由なんてないじゃないか。そりゃあ、何となく避けられてる感じはしたけど、それだけで……」
「どこまでも鈍感だな、あんたは……!」
気付けば、激情を口にしていた。遥に聞かれているということも忘れ、感情をぶちまけた。
「ああそうさ。敵の目的だとか、あんたに言ったことは全部ただの建前だ! 俺はあんたを殺してやりたかった! ずっと、ずっと、ずっと……! 誤魔化してたっていうなら、今までがそうだ。今まで俺は、あんたへの憎しみを誤魔化して、自分を騙してきた……!」
一度言葉にした後はもう止まらない。
「人類の為? 敵の目的を打ち砕く為? そんなものは欺瞞だ。ただ憎かった。俺から遥を奪ったあんたが。その癖、遥の好意にも俺の悪意にも気付かなかったあんたが……!」
由羽の思いの箍が外れる。もう何も堰き止めるものはなかった。自分を抑えようという気持ちが湧いてこない。――感情が、暴走する。
「俺の憎悪の為に死ね、涯島相人――!」
由羽の激情の具現がその矛先を相人へと定め、宙を駆ける。
しかし、それは標的に届く前に鎖に阻まれ、火花を散らした。
「そんなことさせる訳ないでしょうが、この馬鹿……!」
遥だ。最も憎い男を殺す為には最も愛する女を越えなければならない。たとえそうすることで遥から忌み嫌われようと、今はこの感情に身を委ねることしか由羽の頭にはない。
由羽は円盤が弾かれたのにも構わず、前に向かって走り出した。遥の手の内は分かっている。遥の鎖の射程は自分の円盤よりも長く、手数も多い。単純な殺傷能力ならば由羽の方が上かもしれないが、鎖の性質上、汎用性は間違いなく遥の方に分がある。
ならば、取るべき戦術は速攻だ。遥がその力の本領を発揮する前に近付いて決着を付ける。射程から考えても距離を取るのは愚策だ。
遥を傷付けるのは本意ではない。円盤を遥に飛ばすと見せかけて、背後の相人を狙う。
そう由羽が目論んだ次の瞬間には、由羽の体には黒い鎖が巻き付いていた。だが、構わない。既に相人は射程内にいる。二つの円盤さえ自由ならば身動きの取れない、何の能力も持たない者を殺すには十分に過ぎる。
「――遅いってのぉ!」
円盤が遥の横を通り過ぎた瞬間、地面から伸びた二本の鎖が二枚の円盤に絡み付いた。
「あんたの考えることくらい、お見通しなのよ」
完全に身動きを封じられた。体を縛られ、攻撃の手段を奪われた。
だが、まだだ。まだ諦めることはできない。この激情は、この憎しみは手段を失っただけで消えることなど断じてない。イペアンスロポスの力が感情の力だというなら、今この瞬間の由羽の感情の力がこんなものである筈がない。
由羽は相人を睨み付ける。憎しみを込めて、殺意を込めて。確実に殺すという決意を以て。
パトス粒子は由羽の感情に応えた。この瞬間由羽の思いを受けて、能力が進化した。
二枚の円盤の内一枚の輪郭がぶれる。否。それは一枚の刃ではない。一枚の刃から、三枚目の刃が生み出されたのだ。
三枚目の円盤は、鎖に縛られていない。そして、遥を通り過ぎた地点で生まれた故に、遥の死角にいる。今なら、確実に相人を仕留めることができる――!
――だが、遥は振り返り、四本目の鎖で由羽の刃を縛り付けた。
「な、に……?」
由羽の臨界を超えた感情は、あっけなく封じ込められた。
「あんたの表情を見れば、まだ諦めてないことは分かった。目線を見ればどこを狙っているのかは分かるわ」
「なっ、何故だ! イペアンスロポスの力の源が感情なら、俺の憎悪が敗れる筈がない……!」
激情した由羽の能力よりも平常時の遥の能力が上だとしたら、感情の力など嘘っぱちだ。それとも、そもそもの素質から違うとでも言うのか。
「あんた、何か勘違いしてるみたいだから教えてあげる」
忸怩たる思いで叫ぶ由羽に対して、遥は冷めた視線を送っていた。その視線に、次第に力が込められていく。遥の拳が握られ、込めた力のあまり震え始める。
「あたしだってとっくにぶち切れてんのよ――!」
新たな鎖が地面を突き破り、縛り付けられた由羽の眼前に現れた。
由羽を縛る鎖、三つの円盤を縛る鎖。本来、遥の鎖はこの四本だけだ。ならば、目の前の五本目の鎖は、激情によって生み出された能力の進化の結果だ。
「な、に……?」
由羽は、目の前の光景に思わず眉をひそめた。
遥の感情は由羽と同じように、あるいはそれを凌駕する形で臨界を突破していたのだ。であるのならば、感情の爆発によって強化されていた由羽の円盤を難なく捕らえてみせたことにも得心がいく。だから、由羽が困惑したのは、そんなことではなかった。
遥は腕を振り上げ、それに合わせて、鎖も鎌首をもたげた蛇のように起き上がった。
由羽が困惑した、その理由は、
「くたば……」
「――待て! 遠浪!」
由羽に命を狙われていた筈の相人が、由羽の危機に立ち上がったからだ。
相人は由羽に腱を斬られた足を引きずりながら、遥の鎖と由羽の間に立ち塞がった。
「……先輩」
振り降ろされようとしていた遥の腕が止まる。
「ちょっと、それはないんじゃないですか? おかしいですよ、先輩。自分を殺そうとした奴を庇うなんて、普通の人間のすることじゃないです」
「後輩同士の争いを止められないんじゃ、人間以前に先輩失格だ」
よく理屈の分からない相人の反論に、遥が呆気に取られたように口を開ける。
遥の行動が最も筋が通っている。相人の言動は由羽以上におかしいとすら思える。
「そもそも、先輩も関わってるんですけど……」
「だから余計に止める。白蝋君に狙われた僕なら白蝋君を許す権利がある筈だ」
分からない。この男は一体何を言っているんだ。自分は、一体何をしていたんだ。
由羽の頭の中が混沌に放り出された。身を焦がす程の憎悪を力ずくで抑えられ、その悔しさを発散する間もなく、この相人の行動だ。既に由羽の感情の許容を超えていた。
「遠浪、白蝋君を離してやってくれ。一度話し合う必要があるだろう」
「はあ!? 正気ですか!? 今解放したら何しでかすか……」
「ほら白蝋君、呆然としてるし今なら大丈夫だよ。多分暫くすれば冷静に話せると思う」
そもそも、自分は何故この男を襲ったのだろう。もちろん、恨んでいたからだ。では、何故恨んでいたのだろう。遥が奪われてしまうから? 本当にそうか?
由羽の感情は沈静化していたが、冷や水をかけられたように唐突に得た冷静さは、相人達が期待しているものとは別次元に働いていた。
自らの感情の中にある矛盾……いや、矛盾と呼ぶ程には違っていない。そう、ずれと呼ぶべきだ。ずれに気付いてしまった由羽の思考は、更に混迷に向かった。
自分で、自分の感情が理解できなかった。
「頼むよ、遠浪」
「うう……、はあ。分かりましたよ。確かに、今は無害そうです」
由羽の体と円盤に巻き付いた鎖が解かれ、それとほぼ同時に由羽の感情の低減に伴って円盤がその姿を消失した。
体の支えを失った由羽は地面に膝を付ける。
「大丈夫? ……って、僕に支えられても嬉しくない、かな」
混乱の源である相人に手を差し伸べられ、由羽の混迷は極みに到達した。
何だ。一体、目の前の男はどうしてそんなことができる。分からない。俺は何故こんなことをした。この違和感は一体何なんだ。分からない。分からない。分からない――。
気付けば、一度消えた筈の円盤が由羽の眼前にあった。
「――あ」
由羽が声にならない声を発した時、相人は無言でその場に倒れていた。胸から血を流し、円盤は赤く染まっている。
――俺が、やった……?
先程まで血眼になってやろうとしていたことだというのに、まるで実感が湧かなかった。
「由羽、あんたまだ……! って、由羽?」
遥が何かを言っているが、もうそれすら聞き取れない。
顔に付いた血を手で拭き取る。手に付いた赤が、由羽の視線から離れなかった。
感情が、由羽の意思と乖離して、暴走していた――。
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