四章 標的のトゥーレ
四章 標的のトゥーレ 1
相人を含めたイペアンスロポス四人が招集され、会議が開かれたのは、翌日の朝だった。朝食が終わってすぐの会議ということもあり、遥などはまだ目を擦っているような状態だ。
「朝早くから何ですか? あたし、見回り午後からなんでもう少し寝ていたいんですけど」
文句を言いつつ遥が欠伸をすると、ハーミーズは嘆かわしそうに肩をすくめる。
「夜に外で逢引などするから睡眠時間が足りなくなるのだよ」
「げほっ!」
ハーミーズの返しに反応したのは遥ではなく、相人だった。
「そんなんじゃないですから。情けない先輩を慰めてあげてただけです。――まあ、先輩の方はどう思ってたか知りませんけど」
「ぼ、僕だってそんな風に思ってないよ!」
反論しつつも、一瞬言葉を詰まらせた辺り、説得力は察せられるだろう。
相人が横目で他の面子の反応を窺うと、凛は呆れたような冷ややかな目をしており、由羽はまるで興味がなさそうにしていた。
「さて、雑談はこれくらいにして、本題に入ってもいいかな、涯島クン」
「……いいですけど、何で僕に聞くんですか」
そんな相人の質問には答えず、ハーミーズは続けた。
「スケジュールが決まったから報告しておこうと思ってね。ついでにお願いもあるんだ」
「これからの行動が決まったっていうことですか?」
ハーミーズの言葉に真っ先に反応したのは新たな展開を待ち望んでいたであろう凛だ。
「これからというより、次の、かな。そんなに長期的な話ではないよ。ほら、前に言っていた桶孔クンの転院が明後日に決まったんだよ」
伊織の病院を移すことが決まったのは昨日の夕方だ。それから一日も経っていない。転院の手続きというのはそんなに早くできるものなのだろうか。
「本当は明日にでも転院させたかったんだが、話を付けるのにちょっと苦労してね。お願いというのは、それに際して君達には桶孔クンの護衛をしてもらいたいんだ」
護衛、とは穏やかではない。何故伊織の身を守る必要があるのだろう。
そんな相人の疑問に答えるようにハーミーズは続けた。
「念の為ではあるがね。敵から見て、いつでも襲える人間が移動するとなれば、見失う前に襲おうと考える可能性もある」
「成程……」
理解できるし、合理的な考え方だった。しかし、一点だけ相人には疑問があった。
「あの、護衛だっていうなら、僕は抜きなんでしょうか」
他の三人はともかく、相人には戦闘能力はない。もし敵が来ても応戦することは叶わない。ならば、相人は護衛の任には不向きと判断せざるを得ない。
「おや、桶孔クンの転院に立ち会うのは嫌かい?」
「いえ、もちろん一緒に行けるのならそうしたいですけど……」
言葉を濁す相人とは裏腹に、ハーミーズは淀みなく返答する。
「ならそれでいいじゃないか。邪魔になる訳ではないし。君は行きたいんだろう?」
ハーミーズは作戦行動や研究を第一に考え、人の情というものには疎いように相人は感じていた。しかし、その認識は改めなければならないと悟った。
「ありがとうございます……!」
相人の感謝の言葉には特に反応せず、ハーミーズは話を進める。
「それじゃあ、当日の段取りから話していこうか」
それから十分程で会議は終了し、各自それぞれの任務や日常に戻っていった。
真っ直ぐに自室に戻った遥は、扉を閉めるとベッドに飛び込んだ。普段ならば眠気に誘われてそのまま二度寝に突入するところだが、今日は目を瞑ってみても中々寝付けない。暫く経って、惰眠を貪ることを諦めた遥はうつ伏せの体勢から仰向けになって溜め息を吐いた。
遥の目が冴えてしまったのは、会議室でのハーミーズの言葉が原因だった。
「逢引って、もう……」
相人達の手前強がってはみたものの、実のところ自分の心臓が耳元にあると錯覚する程に取り乱していた。他人に指摘されると昨夜の自分の大胆さが途端に恥ずかしく思える。
ああ、でも、そうか、あれは人からそういう風に言われるようなことなんだ。
「ああああああああ……」
遥は顔を両手で覆ってベッドの上を左右にごろごろと転がった。叫びだしたい気分だった。
少し目が回り始めたところで漸く遥は動きを止めた。布団は更に乱れ、服も皺が付いてしまった。結った髪もぼさぼさだ。これはちょっとまともな状態じゃない。少し落ち着こう。
ベッドの上で暫くぼう、としているうちに遥はもの思いに浸り始めた。少し、昔のこと。そもそも、遥が相人に惹かれるようになったきっかけ。中学一年生の夏休みまで記憶は遡る。
遥は現在と同じように陸上部に所属していた。種目も現在と同じで走り幅跳びだ。一年生ながらも優秀な記録を出していた遥は大会への出場が十分に狙える位置にいた。
遥はその日、陸上部の練習に出ていた。部員は基本的に強制参加だったので、当時共に陸上部だった相人や由羽も参加していた。強制とは言ったものの、練習の内容は最初のウォームアップを除いては殆ど自主練のような状態だった。
前日から、遥は由羽と喧嘩していた。その内容は遥のだらしない様子に由羽が注意して、それに反発して……というようないつもと変わらない他愛ないものだったが、何となく拗れてしまい、翌日であるその日になっても二人の間にはぎくしゃくしたものが漂っていた。
そんなストレスがあると、遥は他の何もかもを忘れたように幅跳びに没頭する。助走を付けて地面から跳んで遠くへ行く感覚がたまらなく好きだった。自分を縛る煩わしいこと全てから解き放たれるような気がしていた。
だが、その日は少々熱中し過ぎた。ストレスどころか休息も忘れた結果、真夏の熱気に当てられ、遥は何度目かの離陸を果たす寸前で倒れてしまった。
目を覚ましたのは数時間後の保健室のベッドの上だった。
遥が眠っている間、付き添ってくれた由羽から聞いた話によれば、遥が倒れてから保健室に連れてきてくれたのが相人だったという。
それだけならば、遥の中では親切な先輩に助けられた、というだけで終わっただろう。だが、それだけではなかった。
相人の種目は中距離走。その練習場所は遥の走り幅跳びとは一番離れた場所だったのだ。
相人は、中距離走の練習中、一番離れた位置から倒れた遥に気付き、誰よりも早く遥を助けにきたのだ。
無論、それだけで惚れてしまうようなことはなかったが、相人の底なしのお人よしを知るきっかけにはなった。
「……何恥ずかしいこと考えてんだろ」
頭を冷やす筈だったのに、余計に熱くなってしまった。
このままここにいたら何を考えるか分からない。遥は身だしなみを再び整えて外の空気を吸いに行くことにした。
町を見回る二人の間には沈黙だけがあった。それも、気まずい類の沈黙だ。
今回相人は由羽と共に見回りをしていた。相人にとってみれば針の筵のような状況だ。由羽に避けられているのは嫌という程思い知らされていた。それでも何とか関係を修復できないかと何度か話しかけたりもしたが、まともに取り合ってもらえなかった。とはいえ、それだけならばいつもと同じこと。いつもと違ったのは、見回りを終えた時のことだ。
山を越えた先にある研究所から町に見回りに来る関係上、研究員の出す車に送迎をしてもらうのだが、迎えが来た時、由羽がそれを断ったのだ。
「涯島先輩に話があるので」とのことだ。
そう言った由羽だったが、中々話を切り出すことなく、徒歩で研究所に向かった。
一体何の話があるのか、追随する相人が聞いても待つように言うだけで、一向に話は始まらなかった。その結果、相人は気まずさを感じながら歩き続けるしかなかった。
結局無言のまま、研究所手前の山道までやってきた。左右を木々に挟まれた歩道を歩く。
あと十分程で研究所に到着してしまう。このままでは何の為に歩いてきたのか分からない。由羽が何を考えているのか、相人は確かめなければならないと思った。
「えっと……、白蝋君。話って、まだできない、のかな?」
遠慮がちに、というより最早恐る恐る聞くと、由羽が漸く立ち止まった。
「そうですね。ここまで来ればそろそろいいかな。ここなら、誰かに見られる心配もない」
どうやら、口外されたくない類の話らしい。だから見回り中に話さず、わざわざ迎えを断ったのだ。相人と二人きりで、誰にも聞かれないように話がしたかったのだろう。
などという、相人の呑気な想像は一瞬の後に裏切られることになる。
由羽が振り返り――同時に相人に向けて刃を放った。
「!? ……っ」
首を狙って飛んできたそれを、反射的に横に飛び退くことでやり過ごす。避けられたのは殆ど偶然に近い。地面を転がり、立ち上がって由羽を見た。
体が取った咄嗟の反応とは裏腹に、頭では事態を全く理解できていなかった。
今のは、紛れもなく殺意の込められた、明らかな攻撃だった。
「部を辞めて暫く経つのに、案外いい反応しますね。何か運動してた訳でもないでしょうに」
冷淡にそう言った由羽の瞳は、今まで見てきたどんな時よりも冷ややかだった。
「白蝋君……何を」
「どうでもいいでしょう。大義名分はありますが、言って聞かせる必要はありませんから」
相人の問いに答えにならない返答をしたと同時、由羽の手元にもう一つの円盤が現れた。
瞬間、相人は右の雑木林へ走り出す。一秒前に相人が立っていた地点を最初の円盤が通り過ぎた。新たな円盤に気を取られ、足を止めていたら首と胴体は今生の別れを迎えていた。
相人は背後で由羽の舌打ちを聞きながら、遮蔽物の多い林の奥へと走る。
運動不足が祟ってか、少し走っただけで息が切れる。発作の時とは違った種類の心臓の高鳴りがうるさかった。同時に、心臓以上に脳が忙しなく働く。
一体、何が起きた。いや、事象自体は非常に単純なことだ。分からないのは、由羽の動機だ。明確な殺意。由羽からそれ程までに恨まれていたのか? しかし、何故こんな時に?
現時点では状況が突飛過ぎて今一現実感がない。ある意味では、強い感情を抱く暇もないこの状況は、発作に襲われずに済むという意味では不幸中の幸いと言えるかもしれない。
「よく避けますね。しかし、あんたが俺から逃げ切れると思っているんですか?」
今は木々に隠れながら逃げているので現役陸上部員の由羽相手にも何とか逃げ切れているが、由羽の言う通り、このままでは追い付かれるのは時間の問題だろう。それを避けるには、この困惑と焦燥が衝撃に変わる前に、頭を冷やして対処する必要がある。
ここから研究所までは約十分かかる。その程度なら何とか由羽の攻撃をやり過ごして研究所まで逃げればいいと思えるが、そう簡単にはいかない。十分で済むのは舗装した歩道を普通に歩いた場合だ。林に逃げ込んで、由羽から隠れながら逃げ切る自信はなかった。
電話で助けを呼ぼうにも、目印のない山の中で逃げ回っている状況では正確な位置を伝えるのは難しい。
相人は先程まで無駄な思考を続けていた脳の動きを次第に最適化させていく。そして、ここで生き残る僅かな可能性に行き着いた。
「分は悪いけど、やるしかない……!」
相人は、ポケットから携帯電話を取り出した。
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