三章 再会のアガペー 4

 その日の会議で相人は伊織の病室で起きたことを、西園愛との会話の全てを報告した。


 突然の事態にその場の誰もが困惑を示していた。西園愛の言葉も意味深だったが、それ以上に問題になったのは、彼女が病院にやってきたことそのものだった。

 ハーミーズから今後暫く伊織の見舞いを禁止された。次に敵が病院にやってきた時、相人が襲われる危険があるからだろう。伊織の危険も考慮し、近日中の転院が決まった。


 会議が閉じ、夕食を食べ終えてから相人は研究所の外に出た。少し、一人になりたかった。

 夜はまだ浅いものの、夏も終わり、研究所を置いて他に明りのない山奥は、数歩先もぼんやりとしか見えない程に暗かった。夜風もあと一か月早ければ心地よかっただろうが、秋分を過ぎた今となっては肌寒さを感じる程だ。


 研究所から数分歩いたところにある小川にやってきた。水面が朧げな月光を反射して、心なしか周囲よりも明るく感じられた。相人は、上流付近特有の大きな石に腰をかけた。


 相人は思い出していた。いや、ずっと頭から離れなかった。西園愛が最後に残した言葉が。

 相人の為とはどういうことだろう。アルコーンが人を襲い、多くの人を廃人にし、殺したのは全て相人に原因があるというのか。或子が死んだのも、相人がその発端なのか。

 あの笑みは異様なものを内包していたが、内にあるのが嘘だはどうしても思えなかった。


 そもそも、何故西園愛は相人のことを知っていたのだろうか。相人が彼女の名前に聞き覚えがあるということも、まるで理由が分からない。三年前も西園愛は相人の名を呼んでいた。二人は三年前よりも前に出会ったことがあるということなのだろうか。


 三年前のことも謎に包まれている。あの時、西園愛は何の為に相人に接触したのだろう。

 あの時のあの感覚――思い返すのも悍ましいあの恐怖は、今思えば反応現象だった。反応現象で廃人化した人間が回復した例はない。だが、相人があの恐怖を感じたのはあの一瞬だけだ。そして、あの時から心臓に原因不明の病を患うようになった。

 間違いなく、何かされた。この心臓は、一体何になっている?


 三年前から敵は相人に接触していた。全て、相人の為。そう言った西園愛の言葉が現実味を帯びてくるような気がした。

 ほんの少し、胸が痛んだ。鼓動の速度が上がっていくのを感じた。息を整え、感情を落ち着けようと努めたが、心臓の動きはどんどん早くなる。痛みも酷くなっていく。

 少し横になって休んだ方がいい、そう考えるより先に体が地面に倒れ込みそうになる。


「せーんぱい。一杯どうです?」


 相人の耳が聞き慣れた声を拾うと同時、頬に冷たい物が押し付けられた。外部からの刺激で、相人はふと我に返る。胸の痛みはまだ残っているが、意識を失う程ではなくなった。

 振り返ると、缶ジュースを両手に持った遥が片方の缶を相人に差し出していた。


「秘密の研究所なのに自販機あるんですよ。知ってました? こんなところでもちゃんと補充されてるんですねえ」


 相人は遥から缶ジュースを受け取り、プルタブを開ける。


「ありがとう、遠浪。お前は丁度いいタイミングで来てくれるな」

「そんなに喉渇いてたんですか?」


 遥はもう片方の缶を開けて口を付けた。

 相人も遥に倣ってジュースを飲む。この時には、既に胸の痛みは殆どなくなっていた。


「くうー、風呂上りに外で飲むってのも中々爽快ですねえ」

「お前、風呂入ってたのか」


 発作の直後だったせいで気付かなかったが、言われて見てみれば、確かに服装が変わって、髪が濡れている。


「髪乾かさないで外に出ると風邪引くぞ」

「大丈夫ですよ。あたし、学校の成績悪い方ですし」

「お前の場合、馬鹿なんじゃなくて、単純にさぼってるだけだろう」

「平気ですって。先輩と違って丈夫ですから」


 遥は再度缶の中身を飲み始めた。相人の忠告を聞くつもりはないらしい。


「で、先輩は何を悩んじゃってるんです?」

「え……?」


 突然の言葉に、相人はまともに反応できなかった。


「何びっくりしてるんですか。そりゃあ分かりますよ。あんな話の後で一人で外に出るなんて、分かりやす過ぎです」


 相人は渡された缶ジュースに目を落とす。これは、そういう意図の差し入れか。


「もう大丈夫だよ。ちょっと色々あって混乱してたから頭を冷やしたかったんだ。遠浪のお陰で大分落ち着いたよ」


 本当は、まだ心の整理はできていない。しかし、遥に心配はかけられない。そう思った相人の言葉に、遥は、はあー、と大きな呆れの溜め息で返した。


「ほんっとに、先輩は駄目ですね。駄目過ぎてちょっと腹が立ってきました」

「な、何だよそれ」


 中傷を受けて反発する。今のどこに相人を批判するようなところがあったというのか。


「中学からの付き合いなんだから、先輩が悩んでることくらい見え見えなんですよ。なのに、すぐ先輩は一人で抱え込む。他人の為には動く癖に、自分のこととなると人に頼るって発想がなくなるんですから、まったく」


 完全に見透かされていた。相人の今の考えも、涯島相人という人間の思考パターンも。


「ほら、聞いてあげますから、観念して喋っちゃってください」


 遥は相人の隣に座った。相人が目を逸らすと、遥は相人の顔を覗き込んでくる。


 どうやら、話すしかないらしい。仕方がないので、相人は決心して打ち明けることにした。

 相人を襲う悩み。西園愛に言われた言葉。


「……あの言葉が本当なら、もしかしたら僕が全部の原因なのかもしれない」


 全てを話すうちに、また感情が高ぶってくる。言葉にして、自らの体に対する懐疑が深まった。自分の体が全ての元凶ではないかと考えると寒気がする。


「なあんだ。そんなことですか。全然悩む必要なんてないじゃないですか」


 遥は、相人の苦悩を簡単に一蹴した。


「お、おい、流石にその反応はないんじゃないか?」


 同情してほしいとまでは言わないが、もう少し神妙に返してくれてもいいのではないかと、相人の口から文句が出てくる。


「だって、あんまりにも思った通り、無駄なことで悩んでるんですもん。本当に分かりやすい人ですね。先輩は」

「で、でも、僕のせいで、大勢の人が犠牲になってるかもしれないんだぞ」

「そう考えるのがおかしいんですって」


 遥は指摘する。


「普通、自分の体に得体の知れないものが入ってるかもしれないっていう気持ち悪さに悩むもんです。でも先輩はそんなことよりも、自分を責める。そんなのおかしいじゃないですか」

「そりゃあ、そういうことも考えたけど……」

「普通はそれを一番に考えるんです」


 強い語調で返されて、相人は思わず言葉を飲んだ。


「先輩のせいな訳ないじゃないですか。そんなの、その西園とかいう奴が勝手に先輩の体に何かして、勝手に先輩の為だとか言ってるだけじゃないですか。こんなの、先輩の責任なんて話になる方がどうかしてる。どう考えても、西園愛が悪いに決まってるじゃないですか」

「……でも」


 遥の言っていることは正しい。どう考えても、相人には責任の一端もない。

 それでも、相人は考えてしまう。西園愛がそう考えさせるに至ったのは、やはり相人がその根本なのではないのか、と。


 相人が俯いていると、遥は体の正面を相人に向けて両腕で相人の体を包み込んだ。


「と……っ、遠浪!? 何してるんだ、いきなり!」


 思わず取り乱すが、遥は相人を抱き締めたまま離さない。

 遥の体が相人の体に密着して、体温が伝わってくる。遥の心臓の鼓動が伝わってくる程の距離に、相人の心拍数が増加していく。


「遠浪……。や、やめ」

「嫌です。先輩もあたしに同じことしたんだから、我慢してください」


 何を言っているのか、と相人の混乱度合は更に増す。

 相人は散らかった思考回路でどうにか考えて、そして学校で遥が初めて能力を発現させた時のことを思い出した。


「あたし、あの時すごく怖かったんです。自分が自分じゃないみたいで。――でも、先輩が抱き締めてくれたから、今もこうしてここにいられる」


 相人は、今の自分とあの時の遥は同じだと分かった。自分自身が見えなくなって、自分自身に恐怖している。

 そして、自分は何も変わってなどいないと言ってくれる人がいる。


「ありがとう、遠浪」


 相人は緩やかに遥を体から離れさせた。


「もう大丈夫だ。遠浪のお陰だよ」


 強がりではなく、心からの言葉だった。

 遥は安心したのか、ほっとしたように笑った。


「まったく、世話を焼かせるんですから。ま、お互い様ですけどね」


 これで相人の心の問題にはけりが付いた。自分を責めている暇はない。相人はアルコーンを倒す為にできることをする。そこは最初から何も変わっていなかった。


 他者の力を借りることで、人間は立ち上がれる。相人はまた前を向いた。




 一部始終を、由羽はその目と耳で捉えていた。


 風呂から上がった遥が、自動販売機で缶ジュースを二つ買って外に出たので、由羽は気付かれないようにその後を付けた。

 遥が何をするつもりなのかは分かっていた。晩飯の後に外に出た相人が戻っていないことに気が付いたのだろう。遥のその行動だけでも、由羽の癇に障るには十分だった。


 遥に続いて外に出ると、案の定遥は川辺で座り込んでいた相人の元へ向かった。

 そこから相人が悩みを打ち明け、遥がそれを聞くという流れになった。そして、その中で、遥は相人を抱き締めた。由羽の頭に学校の中庭のことが思い起こされる。

 あの時は相人が遥を抱き締め、今度は遥が相人を抱き締めた。しかし、由羽にはこの二つの意味は根本から違っているのだと分かっていた。行為者が相人と遥では、抱いた感情がまるで違う。相人の行為が優しさや思いやりによるものだとするならば、遥のそれは……。


 由羽は、二人に聞こえてしまうのではないかと錯覚する程に強く歯ぎしりをした。


 ああ、そうだ。遥の抱いている感情は相人とはまるで違う。むしろ由羽が遥に抱いている感情に近い。そして、その感情は、遥から由羽には向けられていない。

 分かっていた。以前から、言ってしまえば中学の頃から、由羽は気付いていた。だが、それを気付こうとしなかった。気付いてしまえば、自分が相人に抱いているどす黒い感情の正体にも気付いてしまう。自分が、そんな低俗な感情を抱く人間だと信じたくなかった。


 だが、ここ数日で嫌でも思い知らされた。由羽が相人に抱いているのは、自分と遥を一度捨て、もう一度都合よく戻ってきたことに対する怒りなどではない。そんなもの、由羽が自分の感情を正当化する為に作り上げたお為ごかしに過ぎない。

 由羽の中で燻り続けた感情は酸素を得た業火のように、凄まじい勢いで燃え盛った。


 由羽は考える。相人は、今日敵に接触された。その時、相人が聞いたという言葉。そこから考えると、理由は分からないが敵の目的は相人である可能性が高い。そして、その場で手出ししなかったことから、少なくとも相人の命を奪うことでは目的は達成できない。むしろ相人の死は敵にとって歓迎すべきことではないだろう。そして、相人にイペアンスロポスとしての能力は備わっていない。すなわち、相人に戦闘能力はない。


 相人の死は、敵に打撃を与え得るが、こちらの損害は決して大きいものではない。


 由羽は、また自らの感情を正当化する術を見出した。

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