三章 再会のアガペー 3

 然程大きい町ではなくとも、昼時となれば駅前という場所は人が集まるものである。雑踏という程ではないものの、それなりの人数が行き交う中に、相人と凛はいた。


「ここはこれ以上見回る必要はないかな。次は、商店街の方だっけ」

「こんなことで、本当に大丈夫なのかな……」


 相人の呼びかけに、凛が僅かに焦りを感じさせる口調で呟いた。


「仕方ないよ。現状、これくらいしか僕達にできることは思い付かないし」


 相人が答えた『こんなこと』とは現在二人で行っているパトロールのことだった。


 昨日の会議の中でハーミーズに通達された行動指針の一つである。町を分担して見て回り、足でアルコーンを探す。アルコーンに関する情報が不足している以上、これ以上の方策は誰にも思い当たらなかった。

 今の相人と凛の持ち回りは敵の拠点の探索ではなく、活動中の敵の発見を目的としたパトロールだった。その為、ある程度人通りの多い駅前の通りを見回っていたのだ。


 成果としては、町の平和を確認できたといった程度。つまり、成果なし。始めて一日目となれば妥当なところではあるが、凛が不安を口にしたくなるのも分からなくはなかった。


「もちろん簡単なことじゃないのは分かってるけど、出るか分からない敵を探すより、拠点を叩くべきだよ」

「そっちだって、みんなで見回ってるじゃないか。研究員の人達も含めて総出で探してるんだ。きっと見付かるよ」


 前向きな意見で凛を励ますが、心中ではポジティブなことばかり考えている訳ではない。

 受動的な対策しか取れない現状に対して、凛の抱いているような不安がないと言えば嘘になるし、昨日のハーミーズの話に関しても個人的な懸念がある。とりわけ、今この時に限って言えば、相人が一番気になっているのは凛のことだった。

 最初に違和感を感じたのは地下駐車場に集まった時だ。それから昨日一日、そして今日、ずっと感じていた。彼女の様子は明らかに相人の知っているいつもの凛とは違っている。


「全員でそっちを探せばいいのに」

「こっちも重要だよ。アルコーンを倒すだけじゃなくて、町の人達を守らないと」

「それは、そうだけど……」


 相人の促した注意に、凛は不満げな態度を返した。

 相人が感じていたものは正にこれだ。以前の凛ならば、誰かを助けるということにはむしろ積極的だった。だというのに、今は敵を倒すことに囚われ、急いているように感じられる。

 この変化が気のせいなどではなく、原因が或子の死にあるのだとしたら、非常に危うい、と相人は考える。そうだとすれば、生半可なことでは凛は止まらない。他者を省みず、突き進む。他者を省みないということは、それは自らすらも省みないということだ。


 相人が一瞬思考に没頭していると、凛が足を速め、相人の前に立った。


「ねえ、涯島君。こういう考え方はできないかな」


 凛が、長い黒髪をはためかせて振り返りながら言った。


「――アルコーンを倒す為に必要な犠牲もあるんだ、って」


 思わず、足を止めた。


「天王寺さん、何を……」

「犠牲を出さないようにして、その結果倒せなかったら、今まで犠牲になった人達の犠牲が無駄になっちゃうんじゃないかな。だから、私達は誰かが死んでも、死んだ人達の命を無駄にしない為に敵を絶対に倒さなきゃいけない」


 危惧はしていた。だが、これは想像を遥かに超えている。相人の感じていた危うさを一段以上飛び越えている。相人の持つ凛に対する認識から外れ過ぎている。


 目の前にいる少女は、本当に天王寺凛なのか? そんな考えすら浮かんできた。


「なんて、冗談だよ。誰も死なない方がいいに決まってるじゃない。さあ、次に行きましょう」


 本来ならそんなこと冗談でも言うべきじゃないと、窘める場面だろう。だが、とてもじゃないが言えなかった。あの時、凛が別人にすら見えたあの瞬間、彼女の目はとても冗談を言っているとは思えない程に冷え切っていたのだから。


 相人は、恐怖すら抱いていた。廃屋で刃のアルコーンと相対した時よりも、学校でアルコーンの殺戮を目の当たりにした時よりも。

 天王寺凛という少女が別の何かに変わっていくことに、恐怖を抱いていた。


 全身の血流が、凄まじい速度で循環する。心臓が鼓動を打つ間隔が速まっているのだ。暴走する心臓によって発生した激痛に、うずくまる。視界が白く染まっていく。


 発作によるものだけではない震えと共に相人の意識はそこで失われた。




 目を覚ましたのは研究所の自分の部屋だった。凛が呼んだ研究員に運ばれたらしい。


 パトロールはやめた方がいいのではないかと言われたが、ただでさえ戦闘できないというのに、これ以上何もせずにはいられないと、続けさせてもらうことになった。

 凛のことは誰にも話さなかった。話していいことなのか分からなかった。一方で、相人一人で抱えるには荷の重い問題のようにも感じた。


 とにかく吐き出さなくては、と相人は伊織の見舞いついでに話を聞いてもらおうと、研究所を出て病院に向かった。たとえ意識がなくても伊織に話せば少しは楽になれる気がした。

 伊織は伯難大学病院が襲撃された後、市内の病院に移された。相人は研究員の運転する車に乗って伊織の入院している病院までやってきた。

 伊織の入院先が変わってから見舞いに来たのはこれで二度目だ。昨日、会議が終わった後も相人はここにやってきていた。襲撃があった日は流石に来れなかったが、できる限り毎日見舞いに来るつもりだった。


 夕焼けが窓から差し込む病室で、相人は伊織が横たわるベッドの横の椅子に座る。


「やあ、伊織。具合はどうだ?」


 返事はないと分かっていながら、相人は問いを投げた。ここに来た時はいつもそうしている。


「今日はさ、ちょっと聞いてもらいたいことがあるんだ。湿っぽいのは嫌いだろうけど、お前くらいにしか話せなくてさ」


 相人は今日の凛のことを話した。胸に泥のようにこびり付いた恐怖を吐き出すように。


「びっくりするよな。天王寺さんがあんなこと言うなんてさ。僕も情けないよなあ。何も言えなくなって気を失っちゃったんだから」


 少しずつ、言葉に熱が込もる。


「なあ、伊織。どうすればいいのかな。天王寺さんがああなった理由が百目鬼さんだったら、僕にできることってあるのかな……」


 暗い感情を見せてはいけないとは思っていた。伊織が陥っている恐怖を払う為には少しでも明るい感情をぶつけるべきだ。そう思っていても、相人は感情を抑えることができない。

 伊織は、相人が泣き言を漏らすことのできる唯一の親友だった。伊織に意識があったら、きっと相人を馬鹿にしつつも励ましてくれただろう。


 だが、この時、この場所にいたのは相人と伊織だけではなかった。


「――そんな女なんて、放っておけばいいじゃない」


 幼さの残る少女の声だった。


 突如として現れたその声の主は夕焼けを遮るように、窓の桟に腰かけていた。相人よりずっと小さい、秋口だというのに半袖の白いワンピースを着た少女。そして、その肌の色は、少女が身に纏っている着衣以上に純白だった。


 相人は、瞬間的に思い出す。自分は、この少女に会ったことがある。

 三年前の少女だ。三年前、夢か現かもはっきりしなかったあの少女だ。


 少女に成長した様子は見られなかった。三年前と同じ、小学生か中学生くらいの姿。しかし、三年前と変わっているところがある。少女の肌は、以前に出会った時は今のように人間離れした色はしていなかった。

 アルコーンの色だ。少女の姿をしたアルコーン。


「西園……愛」

「私の名前、憶えてくれていたのね。嬉しいわ、相人」


 西園愛は、相人の名前を呼んだ。

 何故西園愛が自分の名を知っている? 憶えてくれていただと? やはり自分は目の前の少女のことを知っているのか? そもそも、何故彼女がここにいる? アルコーンが現れた以上、逃げなくては。伊織や病院の人はどうすればいい。研究所に連絡しなくては。

 様々な思考が頭の中で渦巻き、相人を混乱させる。


「そんなに身構えなくていいじゃない。安心して。今日はあなたに会いに来ただけだもの。本当は来るべきじゃないのだけれど、我慢できなくて来てしまったの」


 にこやかに話す西園愛は、しかしどこか不気味な感じがした。当然あるべき感情が幾つも欠落しているような、そんな不気味さがある。


「私はあなたとお話がしたいの。それができないと私、そこの男の子を殺してしまうかもしれないわ。それとも、この病院の人達みんなとお話ししようかしら」


 身動きが取れなくなった。下手なことをすれば、伊織や無関係の人々が危険に晒される。


「分かってくれたのね。相人のそういうところも大好きよ」

「何の用だ」


 敵意を隠しきれず、相人は尋ねた。西園愛は相人の敵意に気付かなかったかのように、まるで態度を変えずに答える。


「だから、会いに来たのよ。お話がしたかったの。最愛の人に会いに来るのに、それ以上の理由が必要?」


 最愛の人……。そうだ。三年前も、目の前の少女は相人に言っていた。『愛している』と。相人にはその時より前に彼女に出会った記憶はない。だが、西園愛という名前を知っていた。これは、一体どういうことなのだろう。


「ねえ、何を話す? そうそう、あなたを困らせる女のことだったわね。放っておけばいいのよ。忘れてしまいなさい。そんなどうでもいい女の為にあなたが悩む必要なんてないのよ」


 西園愛は相人の話を聞いていたのか、凛を貶しつつ、相人に忠言を放った。


「天王寺さんは、どうでもいい人なんかじゃない」

「どうでもいいのよ。あなたと私以外に価値のある人間なんていないでしょう? だから、どうでもいいのよ」


 話が通じない。やはり、尋常な人間とは感性があまりにも異なっている。今まで相人は二体のアルコーンを見てきたが、どちらよりも人間とかけ離れた何かを感じた。


「お前は、どうしてここにいるんだ。何で僕がここにいると分かった」


 これ以上西園愛のペースに飲まれまいと、相人は多少無理矢理にでも話題を変えた。実際、気になっていたことでもあった。最悪の場合、研究所の場所が割れている可能性もある。


「待っていたのよ。タラリアがあなたの学校に行ったでしょう? 相人は優しいから、どうでもいい人達相手でもお見舞いに来るかもしれないと思ったの。その中に相人のお友達もいたのね。ここで待っていて正解だったわ」


 西園愛の態度は何も変わらなかったが、相人はその話が間違っていることに気が付いた。気付いてから、怒りが湧いてきた。


「伊織がこうなったのは廃屋で襲われたからじゃないか。お前らにとってはどうでもいい人間だから憶えてないとでも言いたいのか?」

「何ですって?」


 この時、初めて西園愛の表情が崩れた。驚きが前面に出ているが、怒りが滲んでいた。

 逆鱗に触れたか、と身構えたが、西園愛の表情はすぐに元の笑顔に戻る。


「廃屋と言ったの? ねえ、相人。その時のこと、教えてくれないかしら」


 奇妙な質問だ。目の前の少女がそれを知らない筈はない。伯難大学病院で刃のアルコーンと一緒にいるところが目撃されている以上、仲間であることは間違いないというのに。

 理由はよく分からない。よく分からないが、情報を無闇に渡すのは得策ではない。教える義理はないと、黙殺しようとした。


 しかし、そこで西園愛が窓際から離れて、伊織が眠るベッドに近寄った。


「お願い、相人。私に教えて?」


 そう言って、西園愛は伊織の顔を撫でた。白い指が、伊織の頬を滑る。とても優しい手つきだったが、相人には、少女の細い腕が、肉食獣の前足よりも凶悪に見えた。


「……分かった。話す」

「ありがとう。相人はやっぱり優しいわね」


 相人の掌が汗で滲む。ここで虚言を弄するのは簡単だ。だが、万が一見破られた場合、危険に晒されるのは伊織だ。ここは正直に話すしかない。


「学校が襲われた前日、少し離れた廃屋で襲われたんだ」


 相人はできる限り情報を渡さないように手短に話す。


「襲ってきたアルコーンについて教えてくれるかしら?」


 理由は分からないが、どうやら西園愛はその時のアルコーンが何者なのかを知りたかったらしい。どう活用すべきかは分からないが、ほんの少しでも情報を手に入れることができた。


「体を刃物に変えるアルコーンだよ。まだ何かあるか?」

「いいえ、それで十分よ。ありがとう、相人」


 西園愛は、伊織から手をどけて一歩下がった。


 相人は思わず安堵の溜め息を吐く。とりあえず、伊織の危機は去った。

 それでも、気を緩めたのは一瞬だ。目の前にアルコーンがいるということに変わりはない。それに、相人にはどうしても聞いておかなければならないことがある。


「次は、僕の質問に答えてくれ」

「ごめんなさい、相人。私、すぐに帰らなくちゃいけない用事ができてしまったの。本当に悪いと思っているわ。だから、手短にお願いできるかしら」


 相人は戦えない以上、向こうから退いてくれることは幸運である筈なのに、西園愛の返答に相人は焦った。突然現れておきながら、突然帰るとはどういうことだ。

 ともかく、質問は一つしかできないだろう。幾つか聞きたいことはあった。その中から一番を選ぶとするならば、ずっと疑問だったことがある。


「どうして、お前達は人間を襲うんだ?」


 彼女らと戦う者として、そして蹂躙される側の人間として、聞かずにはいられなかった。

 西園愛は、相人の問いに今まで見せた中で最も深い笑みと共に答えた。


「――あなたの為なのよ。何もかも、あなたの為のことなのよ。相人」


 その朗らかな笑みに、しかし邪悪なものしか感じ取ることができなかった。


「それじゃあ、さようなら。きっとまた迎えにくるわ」


 そう言い残して、西園愛は病室から姿を消した。

 静寂に取り残された相人の中で、白い少女の言葉が反響していた。

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