三章 再会のアガペー

三章 再会のアガペー 1

 死者百二十一名。反応現象の被害者千七百十三名。それ以外の負傷者八名。以上が昨日の襲撃による人的被害だ。学校は閉校を余儀なくされ、伯難大学病院も業務停止となった。多くの死者と、前後不覚者。表向きはその原因が不明ということになっている。反応現象によって倒れた者は市内の病院には収まりきらず、警察の捜査も上手く進んでいない。

 政府からの情報規制の結果だろう。事情を知る人物には及ばないよう、既に手が回っている。国民のパニックを防ぐ為、アルコーンについては秘匿されなければならない。


 今回の事件で研究室には危機と、ある種の恩恵が同時に訪れていた。


 恩恵とは、日本国上層部の意識の変化である。

 以前はアルコーンの出現が散発的で、対策の必要性を疑問視する声もあり、研究室の待遇は決してよいものではなかった。研究員の数は必要最低限。戦える人員も或子だけだった。

 だが、今回の事件でアルコーンの存在を知りながら対策が不要だと考えるものはいなくなった。これからは、設備も向上し、人員も増加されるだろう。


 とはいえ、即戦力として戦える人間の補充は難しい。イペアンスロポスは言わずもがな、戦闘可能なプロドティスも未成年の内に調整しなくてはならない。今すぐ戦える未成年など、そう簡単に確保できるものではない。その他の人員についてもパトス粒子が秘匿されている以上、そう簡単には用意できない。恩恵の結果としては、設備の充実に留まるだろう。


 対して、研究室を襲う危機は多岐に渡る。最も深刻なのは人材の不足だ。襲撃によって研究室の人員も犠牲になった。研究員は半数以下になってしまったし、それ以上に、戦闘可能なのが民間の協力者しかいないというのは非常に切迫した状況だ。


 これに関連して、非常にデリケートな問題がある。無理に解決することは可能かもしれないが、推し進めた結果、全てを失うことにもなりかねない。


 それは、民間協力者の精神的な問題と、その親族への対応である。

 実際にアルコーンの脅威を目の当たりにし、それでも戦うことができるのか、という懸念が一つ。そして、協力者と親密な関係を築いていた或子の死は、大きな衝撃を与えた筈だ。

 どちらも、国家権力を使って強要することはできる。しかし、そうした結果、感情を武器として戦うイペアンスロポスが十全に力を発揮できるかと言われれば、それは否だろう。これは、慎重な対応が必要な事案である。しかし、急がなければならない。これ程までに大規模な事件が起きた以上、アルコーンの存在を隠し通すにも限界が出てくる。


 また、拠点を移動する必要がある。これまでの拠点はもう使えない。敵の攻撃が本格化した以上、以前のままの対応では追い付かない。民間協力者の力もより必要になる。これまでより密に連携しなければならない。即ち、研究所への長期滞在が急務とされる。その為にも協力者の家庭の協力は必須だ。


 問題は他にもある。国に提出する山積みの報告書の作成に、やむを得ず破棄した研究資料の復元。そして、研究室に現れた、あのアルコーンは……。


 ハーミーズは憂鬱のあまり溜め息を吐いた。彼は、我ながら珍しいものだと自嘲して、未だ書き上げる気配のない報告書に意識を戻した。




 町並みが薄く赤みがかる黄昏時、相人はハーミーズに指定された集合場所に向かっていた。


 昨日、或子の死を知らされ、昂ぶった感情は相人の発作を誘発した。その後、目を覚ましたのは市内の病院の一室だった。そこで、相人はハーミーズから詳しい顛末と、今後の方針を聞かされた。今後は新たな拠点で生活することになる。暫くは家にも帰れなくなる。

 無論、拒否権はあった。寝泊まりすることにではなく、協力することにだ。アルコーンとの戦いは危険を伴う。死の可能性も大いにあり得る。だから、辞退したい者は構わない、と。


 相人は、少し考えてから、ハーミーズの提案を受け入れることにした。

 昨日までとは一変した世界への恐怖や戸惑いがなかったと言えば嘘になる。それでも、引き下がる訳にはいかなかった。

 伊織が倒れ、或子が命を賭して戦った。もう一度彼と語らう為、彼女の勇姿に報いる為、残された日常を守る為、戦う力がこの身になくとも、相人は逃げ出したくはなかった。


 相人は両親に全てを打ち明けた。戦う意思を伝えた時は案の定猛烈に反対された。

 それでも相人は怯まず、頭を下げ、懇願し続けた。それを約五時間続けると、絶対に生きて帰るという条件付きで、漸く聞き入れてくれた。


 その後すぐに集合場所に向かったのだが、家を出た時には既に集合時間を過ぎていた。

 電話で遅れる旨を伝え、相人は全力疾走していた。


「す、すみません! 遅れました……!」


 集合場所である、ビルの地下駐車場に到着した相人は、息も絶え絶えに謝罪をした。

 そこには既に何度か見覚えのあるワゴン車が二台と、その周囲に数人の人間が立っていた。


「先輩、遅い。あたしが引き留めてなかったら、もう出発してるところでしたよ」

「はあ……、はあ……、ありがとう、遠浪」


 遥がやれやれといった風に声をかける。隣にいる由羽は無言で一瞥するだけだった。


 一息ついてから、相人はずっと気になっていた人物に声をかける。


「天王寺さん……。大丈夫?」


 或子の死によって、最も衝撃を受けたのは間違いなく凛だ。死体を最初に発見したのは凛だし、何より二人は親友だったのだ。

 それでも、ここにいるということは戦う決意をしたということだ。


「……うん。全然平気とは言えない。でも、私も戦いたい。戦わなくちゃいけないと思ったの」


 凛の表情は暗かったが、それでもその暗さの中に確かな決意が見て取れた。


「お父さんとお母さんにもどうにか分かってもらえたし、何も心配いらないよ」

「もう、大丈夫みたいだね」


 今ここにいる中で最も強い覚悟を持っているのは凛かもしれない、と相人は思った。或子の死を乗り越え、ここに立っている凛の覚悟は相人が想像しきれるものではない。


 相人が凛の心境について考えていると、小さく凛が呟いた。


「――――」

「えっ?」


 何を言ったのかよく聞き取れなかったが、凛の言葉が僅かに相人の耳朶を叩いた瞬間、得体の知れない寒気が相人を襲った。

 思わず凛の顔を窺うが、何もおかしなところは見受けられない。


「さてこれで全員揃った。早速、新しい拠点に案内しよう」


 相人が今抱いた感情が何なのか結論を出す前に、ハーミーズが全員に声をかけた。

 ハーミーズは再度覚悟を問うようなことも、皆を鼓舞するようなこともせず、ただそれだけ言ってワゴン車に乗り込んだ。


 それぞれ、ハーミーズに続いて車に乗り込む。そこに最早言葉はなかった。覚悟は既に決まっている。士気も十分。この場に来ている時点で既にそれらを質すような言葉など不要だ。

 相人も直前の違和感を忘れ、何も言わずに乗り込んだ。エンジンがかかり、唸り声のような音が回転数の上昇を知らせる。


 そして、二台の車は各々の覚悟を乗せ、新天地に向けて走り出した。




 相人達が出発した、およそ二時間程前。まだ相人が両親を説得しようと頭を下げ続けていた時。凛もまた、両親の説得を試みていた。


 昨日の夜からこちら、ずっと塞ぎ込んでいたが、先刻になって漸く前を向くことができた。

 リビングの机に向かい合うように、凛の前に父と母が座っている。


「そんな、駄目よそんな……、危ないわ」

「お前の言う通りなら、命の危険だってあるじゃないか」


 ――ピシ。


 両親の反応は芳しくなかった。子を喜んで戦いに赴かせる親はいない。

 たとえ誰かが犠牲になるとしても、子を危険に晒したくない。あるいは、人としては是非を問われるかもしれない。しかし、少なくとも凛の両親は親としては間違っていなかった。


 ――ピシ、ピシ。


「……友達が殺されたの。私、このまま黙っているなんて耐えられない」

「凛……、辛いでしょうけど、あなたも同じように死んでしまうかもしれないのよ?」

「その友達には悪いが、お前が犠牲になるなんて馬鹿げてる」


 凛には分かっていた。両親は本当に自分のことを思って言ってくれている。


 ――ピシ。パキ、パキ。


 幼い頃からそばにいて、少しだけ過保護気味だったが、いつも自分の為を思ってくれる。


 ――パキパキ、ピキ、ピキピキピキ。


 それでも、その言葉は耐えられなかった。誰かの為の犠牲が馬鹿げているなんて、他者を守る為に戦った或子を否定する言葉なんて、凛に耐えられる筈もなかった。


 頭の中で、何かが砕ける音がした。

 ずっと、聞こえていた音だ。硝子に金槌を叩きつけて、蜘蛛の巣状に罅が入るような音。或子の死を目の当たりにした時から、ずっと聞こえていた音。

 凛自身が硝子板を叩き壊そうと、何度も何度も槌を振り下ろしている感覚だった。

 初めてアルコーンの脅威を目の当たりにしたあの日、あの廃屋で、自らの感情を抑えきれなくなった、あの恐ろしい瞬間聞こえた音。――硝子が完全に砕け散る音。


 凛は立ち上がる。


「どうしたの、凛?」


 その唐突な挙動に母が疑問を投げかける。

 凛は質問に答えずに、そのまま部屋の外に向けて歩き出した。


「おい、凛。まだ話は終わってないぞ。どこに行くんだ?」


 父の語気が強くなる。


「……私、行かなくちゃ」


 凛は足を止めない。ゆらゆらと、凛の髪がたなびいていた。


「駄目だと言っているだろう。凛! 話を聞きなさい!」

「どうしたっていうの? いつものあなたらしくないわよ!」


 ゆらゆら、ゆらゆらと凛の髪が揺らめく。

 重力を無視して、空から緩やかに落下しているかのように、毛先が宙に浮かぶ。


「な、何だ、それは……?」

「凛? 凛ってば!」


 両親が、凛を追いかけようと椅子から立ち上がる。


 それに反応して、凛が長い黒髪の隙間から一瞥した瞬間、先程まで話し合いに使われていた机が、凄まじい衝撃を受けて凛と反対方向の壁に叩きつけられた。

 漏れ出したパトス粒子だけで重力を歪める程の一撃を受けた机は、バラバラになって、ある部品は床に落下し、ある部品は壁に突き刺さった。


「……誰かの為に戦うことは間違ってなんかいない。それで犠牲になったとしても、馬鹿げたことなんかじゃない。あるちゃんの死を、無駄になんて絶対にさせるものか……!」


 怒りを孕んではいたものの、凛の叫びは慟哭と何ら変わらなかった。砕けた心は、涙すら激昂と共に吐き出した。


 豹変した凛を前に父も母も、一言も口にすることはできなかった。


「お父さん、お母さん。行ってきます」


 家を出る凛を止める声は、以降、一切聞こえなかった。


 かつて、暴走した時はすぐに沈静化し、砕けた物は修復された。それは、アルコーンによって増幅された感情に、凛自身が恐怖を抱き、自らの意思を以て引き返したからだ。

 だが、今凛は己の内から湧き出た激情に身を任せている。怒りに、悲しみに、憎しみに。アルコーンに勝つ為に、復讐する為に。アルコーンを打倒する為に、抹殺する為に。

 砕けた破片は、飛び散ったまま、拾い集められることすらなかった。


 そして、夕刻。ハーミーズに指定された集合場所に最後の一人、相人がやってきた。


「天王寺さん……。大丈夫なの?」

「……うん。全然平気とは言えない。でも、私も戦いたい。戦わなくちゃいけないと思ったの」


 もう悩まない。自分のことなど省みている暇はない。


「お父さんとお母さんにも、どうにか分かってもらえたし、何も心配いらないよ」


 両親であろうと、誰であろうと、もう止めることはできはしない。敵は必ず倒す。


「もう、大丈夫みたいだね」


 そして、必ず――、


「――絶対に、殺してやる……」


 誓いの言葉は、己の胸の中で静かに、暗く燃えていた。

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