二章 襲撃のカタストロフィ 5

 歩き続けた。まだ守るべき人がいると信じて、屍と自我を手放した者が積み重なる校舎の中を歩き続けた。


 凛は一つ階を上がり、四階に来ていた。


 元いた三階も一通り見回ったが、残っていた動くものは白い異形だけだった。三階のアルコーンを全て始末して四階に上がったが、四階の状況も、三階と大した違いはない。

 床にも、壁にも、天井にも赤い染みや飛沫痕が幾つもあった。死体の状況は様々だった。思い出すのも目に映すのも吐き気がするような死体ばかりだ。


 それでも、凛は希望を捨てない。縋っていなければ心を保てないという後ろ向きな理由もあったが、根拠も薄弱ながらも確かにあった。

 厳密に数えた訳ではないが、倒れた人と死んだ人を合わせても、生徒や教師の総数には数が合わないように思えた。アルコーンが襲ってきたのは昼休みだ。であれば、全ての人間が教室にいた訳ではない。他の場所にいて難を逃れた人や、あるいはアルコーンの目を盗んで逃げた人がいるのかもしれない。


 そう考えると、四階に生存者がいる可能性は低い。早めに場所を移そうと凛は考えた。

 屋上で籠城しているということも考えられる。凛は屋上に向かうことに決めた。


 方針を決めたところで、凛の視界に、白い影が入り込んだ。数は五。向こうも凛に気付いたらしく、まっさらな顔を向けてくる。


 凛の脳裏に惨劇の光景が浮かぶ。激情が、湧き上がる。

 凛を標的と定め、駆け出したアルコーンが、一瞬で不可視の砲撃によって蹴散らされる。


 その中で一体、位置の関係で他のアルコーンが盾となって生きながらえたアルコーンがいた。それでも、両足が明後日の方向に向いて、立つこともままならない状態ではあったが。

 凛が、アルコーンに向けて、一歩足を踏み出す。

 アルコーンは凛に手を伸ばした。動けない状態でもなお人を殺めようとその凶腕を伸ばす。


「……何で」


 腕が凛に届く前に、アルコーンは上から押し潰された。


 凛はそのまま歩き続ける。


「何で、こんな生き物がいるのよ……」


 困憊と諦念、そして怒りが凛にそう呟かせた。




 遥の周囲、四つの地点から、地面を突き破るように現れた黒い鎖が天に昇る。


 迫りくる鎖に対し、タラリアは一度だけその翼を羽ばたかせた。直後、タラリアの体は凄まじい勢いで更なる高みへと上昇する。

 タラリアを追う鎖は、校舎の三階に届こうかという位置で止まる。空を舞う少年を捕らえることは叶わない。タラリアは上空を悠々と飛翔する。


「次は僕の番でいいよね」


 空高く舞い上がったタラリアは、翼を羽ばたかせ、自由落下以上の速度で急降下する。四本の鎖の丁度中間の空間を通り、遥に向かって一直線に。


 急上昇からの急降下に、遥の反応が僅かに遅れた。それでも遥はタラリアを捕らえようと、鎖を操作する。しかし、タラリアは遥の鎖を巧みに避ける。


「ちょろちょろとっ……!」


 遥は苛立ち紛れに吐き捨てる。

 遥は明らかに焦っている。しかし、焦っていてはいなされるだけだ。


「残念だなあ。これで終わりなんて」


 遥の鎖を全て紙一重で躱し、本当に悲しそうな声音で、タラリアが拳を振るった。

 アルコーンの身体能力は人間を遥かに凌駕している。アルコーンの攻撃をまともに受ければ、普通の人間なら一撃で致命傷だ。その膂力に上空からの急降下によって生まれた運動エネルギーが加算されれば、遥の華奢な肉体は原型すら留めないだろう。


 それでも、遥は笑みを浮かべた。


「――そうですか? あたしは嬉しいですよ」


 タラリアの拳が遥の体を蹂躙するその直前、遥の掌から、黒い鎖が現れた。


「っ――!」


 瞬間、タラリアは翼を羽ばたかせ、遥から距離を取る。先程と同じような急制動。ただし、今度は攻撃の為ではなく、退避の為の行動だ。

 遥はタラリアを逃がすまいと、鎖を伸ばし、タラリアを追い駆ける。


「は、はははは! 面白い! こうでなくっちゃ!」


 一直線に空に向かって飛ぶタラリアのスピードは驚異的だった。鎖とタラリアの距離はみるみるうちに離れ、遂にはタラリアは鎖の射程外に逃げ延びた。


「その鎖、体からも出せるんだね。それに、君は頭がいいみたいだ」


 タラリアは遥を褒め称える。敵への賞賛は、すなわち余裕の表れだ。


「さっきの焦りようは演技だったんだね。掌から鎖が出てくるまで気付かなかったよ。四本のうちの一本を回収して防御に使ったんだね」

「前言撤回です。あれで終わらなかったから、嬉しくありません」


 遥がタラリアを睨み付ける。


 相人はこの数瞬の攻防に圧倒された。だが、それ以上に恐ろしいのは、タラリアの浮かべた笑みだ。あの笑みは、どこまでも無垢だ。邪気の一片も感じられない。


「ねえ、次は何を見せてくれるの? まだ遊びは始まったばかりだよね?」


 タラリアは、笑みを浮かべたまま、遊びを再開する。

 先程と同じように羽ばたき、急降下した。風を切る音が聞こえる程の速度。だが――、


「ワンパターンなんですよ、あなた!」


 遥は先程と違い、鎖でタラリアを追うような真似はせず、四本の鎖を自分の前面に盾のように展開し、防御姿勢を取る。タラリアはそのまま一直線に突き進んでくる。まさか、鎖を突き破るつもりか、と相人が予想した時だった。


 鎖の直前まで迫ったタラリアが、翼を羽ばたかせたかと思うと、方向転換して遥の背後に回ったのだ。鎖の防御のない、無防備な背後に。


「遠浪っ!」


 遥も慌てて振り返り、鎖を動かそうとするが、明らかに間に合わない。

 羽根を纏う純白が、無邪気な狂笑と共に凶手を伸ばす。


 ――瞬間。攻撃の為に遥に迫っていたタラリアの右腕が、地面に落ちた。


「……え?」


 呆けた声を出したのは相人だ。タラリアはそんな間抜けな反応よりも速く、急上昇してその場を離れた。

 状況が飲み込めない。遥はタラリアの動きに対応できていなかった。そもそも、遥のイペアンスロポスとしての能力は鎖だ。鎖をどう使っても一瞬で腕を落とすことなどできはしない。


「――まったく、遥はいつもどこか抜けてて危なっかしい」


 声は、相人の背後から聞こえた。

 聞き慣れた声に、相人は、振り向く。彼は渡り廊下に立っていた。


「遅かったじゃない、由羽」


 白蝋由羽。相人の後輩で、遥の幼馴染だ。


「チャンスを待ってた。お前はそそかっしいから、相手が油断する瞬間が絶対来ると思ってな」

「いっつも余計なおせっかいばっかり。まあ、でも、ありがとう」


 二人は軽口を叩き合う。


 由羽の周囲に円盤が滞空していた。恐らく、あれが由羽のイペアンスロポスとしての力なのだろう。彼もまた、覚醒したということか。


「白蝋君。ありがとう。君が来てくれなかったら、遠浪が危なかった」

「別に涯島先輩にお礼を言ってもらう必要はありません。遥からもう聞きましたから」


 相変わらず相人には冷たい返事を返す由羽に、こんな時でも相人は少し傷付いてしまう。


「ははっ! やった! 君も僕と遊んでくれるのかい? 友達が増えた! 嬉しいなあ」


 敵に増援が来たというのに、タラリアは歓喜の声を上げた。やはり、この少年は異常だ。あの廃屋のアルコーンの方がその脅威が分かりやすい分、相手をしやすかったかもしれない。

 タラリアの不気味なまでの純粋さに、相人は怯みつつあったが、由羽は違った。


「お前と遊んでやるつもりはない。さっさとくたばれ化け物……!」

「それじゃあ、ゲームだね。さっさと終わらせたいなら、頑張ってね?」


 タラリアは、相人の体が思わず強張る程の怒りが込められた言葉をさらりと受け流し、三度目の急降下を慣行した。由羽は言葉を返さず円盤を飛ばす。タラリアは翼で宙を叩いて躱すが、円盤はその後を追う。


「二対一のゲームってことは分かってるんですよね!」


 降下しながら円盤を躱すタラリアに、遥の鎖が迫る。防御の為に一本手元に残しているようだが、それでも、タラリアを狙うのは円盤と、鎖三本の計四つ。しかしそれらの波状攻撃を、タラリアは難なく避け続けている。

 そして、四つの障害を潜り抜け、タラリアが由羽に迫る。


「楽しかったよ! それじゃあ、おしまいだね!」


 タラリアが左腕を振り上げ、降下の勢いのまま由羽に叩き付けた。


「――お前が、終わりだ」


 攻撃を受けた筈の由羽の声が聞こえた。

 相人は目を凝らす。由羽とタラリアの拳の間に、円盤が割り込んでいた。攻撃の勢いに罅が入っているが、確かに防御していた。

 だが、由羽の円盤はタラリアを攻撃していた。タラリアに避けられた円盤は未だ宙にある。


 そこから導き出されるのは、由羽は二枚の円盤を操作する能力を持つという事実。この場に現れた時から、円盤は一つだと錯覚させていたのだ。


 攻撃を防御されたタラリアは、翼を羽ばたかせ、上空に逃げようとする。


「もう、逃がす訳ないでしょう――!」


 タラリアが地に背を向けた瞬間、攻撃を防御した円盤から真っ黒な鎖が飛び出した。

 タラリアは上昇を続けようとするが、遥の鎖は千載一遇の勝機を逃さなかった。逃げるタラリアに追随し、その右足首に絡み付いたのだ。


「う……ああ!」


 飛翔を邪魔されたタラリアは呻き声を上げる。もう空に逃げることは許されない。


「これで、終わりだ――!」


 身動きが封じられたタラリアに、三本の鎖と一枚の円盤が殺到する。タラリアに、これを避ける術はない。……そう、相人は確信していた。


 それらの攻撃が当たる直前、タラリアは縛られているにも関わらず、上昇した。


 何が起きたのか、その瞬間には理解が及ばなかったが、答えはすぐに提示された。

 タラリアの右足がくるぶしの先からなくなっており、足首から先は地面に落ちていた。力任せに引き千切ったような断面だった。攻撃を受ける寸前、タラリアは力任せに、足が千切れるのも構わず飛翔したのだ。


「うわあ、すごいなあ。僕どきどきしたよ。ねえ、もっともっと一緒に遊んでよ」


 自らの体の一部を切り捨ててなお、タラリアは無邪気に笑う。


 今のは間違いなく決まったと思った。由羽の能力を誤認させることで正面から不意を突いた一連の攻撃は、間違いなくタラリアの想定を上回っていた筈だ。

 それでも、届かない。右手足の切断に漕ぎ付けたのも、不意を打ってこそだ。二度の搦め手で仕留められなかった。これでもまだ打つ手は果たしてあるのか。


 相人は、遥と由羽の表情を窺う。遥は笑顔を浮かべ、由羽はポーカーフェイスを保っている。しかし、二人とも冷や汗を流し、焦燥を隠そうとしているのが見て取れた。


「本当に君達は最高の友達だよ。だから、簡単に壊れないでくれるよね」


 白い残酷は、空高く飛び上がった。




 結論から言って、屋上に生存者はいなかった。

 屋上で籠城している人がいるという凛の予想は当たっていたが、凛が屋上に到着した時には既に扉は破られ、アルコーンが死体を蹂躙していた。


 また間に合わなかった。屋上のアルコーンを全て殲滅してから、凛は一人立ち尽くす。


 どうすればよかった。どうすれば守れた。結局、誰一人守り切れていない。全て、凛の手からすり抜けていく。

 まだだ。まだ、校舎の外なら、生存者がいるかもしれない。そんな希望で心を無理矢理奮い立たせ、また歩き出そうとした。だが、足は動かない。


 凛の心は限界に近かった。幾ら希望を求めようと、足が動いてくれなかった。


「動いてよ……」


 その事実に気付いた途端、足から力が抜ける。凛はその場に崩れ落ちた。


「まだ、助けなきゃいけない人がいるのに……」


 また間に合わないかもしれない。そう思ってしまう。そうなれば、もう動けなかった。


 凛の目に、涙が溜まったとき、滲んだ視界の端に白い翼が映り込んだ。

 白。人の肌にはあり得ない程の純白。アルコーンの色。


 凛の反応は、既に思考を超越して、反射レベルに高められていた。無力感と絶望感は、敵を見定めた瞬間、膨大な憎悪に変換されたのだ。


 そして、憎悪は目には見えぬ形で怨敵を滅ぼそうと具現化する。

 不可視の砲撃が放たれる。それは、間違いなく今までの最大出力だった。


 しかし、それが仇になった。砲撃が空を裂く音が不可視の利点を相殺したのだ。

 無論、非常に僅かな音に過ぎない。完全に意識外の攻撃ということも考慮すれば、本来避けることなど不可能だ。しかし、羽根の生えたアルコーンはそれを避けて見せた。

 常軌を逸した反応速度と、敏捷性だった。


 しかし完全な回避には至らない。一撃で屠ることは叶わなかったが、左の翼を撃ち抜いた。


「ぐ、あ。痛、いよ……」


 アルコーンが呻き声を上げ、凛に目を向ける。


「君も……僕と遊んでくれるの……?」


 その言葉に、凛の脳細胞が焼き切れた。

 これだけの惨劇を見下ろして、これを遊びと、児戯に過ぎぬと、嘲笑うのか。


 凛は言葉を返さない。最早凛の全能は上空の怪物を滅殺することにのみ向いていた。


 不可視の砲弾が再射出される。


「ごめんね。もう帰らなきゃいけないみたいだ」


 しかし、凛の攻撃は空を撃つだけだった。アルコーンは、不利を悟ったのか残った右翼で飛び去った。


 待て。逃げるな。この地獄を贖え。お前の屍を私が彼らに手向けてやる。

 声にすらならない叫びと共に届かぬ砲撃を乱射する。このままでは収まらない。このまま敵を逃がせば、もっと犠牲者が出る。


 凛の怒りと無念も空しく、白い少年は最後に一言残して飛び去った。


「もう遊べないのは残念だけど――僕の役目は果たしたよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る