二章 襲撃のカタストロフィ 4

 ほんの少しだけ、胸に痛みが走る。意識して感情を抑えて無理矢理沈静化する。

 軽度の発作に襲われていたのだと自覚した時には、既に状況は致命的だった。膝を付いた状態でアルコーンと相対してしまっている。


 相人にはアルコーンに対する有効な戦闘手段などない。生き残る術は、ただ逃げるだけだ。その可能性も極小。だというのに、こんな状態では、生き残る希望など万に一つもない。

 明白過ぎる死が直前に迫った状況で、相人は思考を切り替えた。


 自分は死ぬ。それは決定されている。逃れようのない死なら、その確定要素を利用する。アルコーンが自分を殺すのならば、少しでもアルコーンの動きの邪魔になる姿勢で殺される。その隙に、遥が逃げる可能性に賭ける。

 そもそも、ここで生き残るべきは自分ではなく、将来的に戦う力を得る遥だ。どちらにせよ分の悪い賭けだが、自分が生きる方に賭けるより、遥に賭けた方がまだ希望がある。


 アルコーンの足が前に出る。死が、こちらに走り出した。

 相人は、アルコーンに目線を合わせたまま、背後の遥に向かって叫ぶ。


「逃げろ遠浪!」


 その言葉を発した瞬間、アルコーンは相人を素通りした。


「は……?」


 想定外の行動に衝撃を受けつつも、相人は振り返る。アルコーンの目指す先には、遥がいた。アルコーンの標的は間違いなく遥だ。

 何故、と問う暇もない。遥は相人の叫びとは裏腹に、立ちすくんでしまっている。あんな凄惨な場面を目にした以上、当然の反応かもしれない。けれど、それでは遥は助からない。


「遠浪! 逃げるんだ! 遠浪!」


 相人が叫ぶが、遥に届いた様子はない。怯えた顔で、数歩後ずさっただけだった。


「嫌……何、来ないで……」


 遥の発した声は、恐怖と当惑に震え、いつもの快活な彼女のものとは明らかに違っていた。

 相人が叫び続けても、遥の様子は何も変わらない。その間にもアルコーンは遥に接近する。

 そして、アルコーンの魔手が、遥に向けて伸ばされた。


「嫌あああああああああああああああああああああああ!」


 遥の叫びが、彼女の首と共に断ち切られる寸前で、アルコーンの腕がピタリと止まった。


 相人の目には、その光景がしっかりと映っていた。

 地面から伸びた真っ黒で太い鎖が、アルコーンの真っ白な腕に絡み付いて動きを封じていた。それだけではない。遥に攻撃を加えようとしていた手だけでなく、もう片方の手も、両足も、四本の鎖で縛り付けられていた。


 四肢を封じられたアルコーンはもがくが、鎖の拘束からは、まるで抜け出せない。


「な、何これ……」


 危機一髪の状態だった遥が呟く。呆然とした表情で、アルコーンと鎖を眺めている。

 そして、数秒呆けていたかと思うと、


「……あは、は」


 遥の口元から、笑みが漏れていた。それは、相人には安堵の笑みとは違っているように感じられた。余程邪悪な……まるで楽しんでいるような笑み。


 アルコーンを縛っていた四本の鎖が、それ自体に命があるかのように、四肢に絡まったまま白い異形を宙に持ち上げた。


「はは! 何、何なのこれ! 自分の体みたい! あははっ! あたしの鎖! あたしの力!」


 遥は哄笑する。その様子は明らかに普通ではない。反応現象だ。相人はすぐに察した。


「この鎖は、お前をとっちめる鎖だ。お前を引き千切る力だ!」


 アルコーンの四肢に巻き付いた鎖が、それぞれ別方向にアルコーンの体を引っ張り始めた。

 痛覚があるのか、アルコーンはもがき始める。しかし、鎖は引く力を弱めない。


「伸びろ伸びろ! 伸びて裂かれろ! あたしにあんなことをしようとしたお前なんて!」


 そして、アルコーンの体に亀裂が入る。

 鎖は更に力を増し、次第に罅が増え、アルコーンの胴から一斉に四肢が引き離された。

 鎖に持ち上げられた四肢から離れた胴体が、ぼとりと地面に落ちる。


 遥の目から熱が消え、その表情は冷え切ったものになる。


「何だ、血も何も出ないんですね」


 まるで、つまらないとでも言いたげなもの言いだった。

 反応現象による豹変だと分かっていても、相人は圧倒されてしまう。


「遠……浪?」


 遥を呼ぶことができたのは、処刑が全て済んだ後だった。

 遥が、相人の方に顔を向ける。


「あ……。先輩」


 そこに相人がいることを忘れていたかのような、僅かな驚きを孕んだ声音だった。

 漸く相人は立ち上がり、遥の方に歩き出す。


「えっと、無事、みたいでよかったよ。無事だよな?」


 まずは遥を落ち着かせようと、笑顔を心がけて歩み寄る。しかし、遥は相人から距離を取るように後ずさり始めた。


「何で、先輩……あたし、こんななのに」


 遥は怯えているようにすら見えた。


「驚かないんですか? あたしでも驚いてるのに、怖くないんですか?」


 遥は縋るように問う。相人は、ここで答えを間違えてはならないと思った。


「そりゃあ、ちょっとはな。でも、お前が驚いてる程驚いてないし、お前が怖がってる程怖がっちゃいないよ。少しびっくりした、くらいかな」

「何なんですか。あの鎖。……ううん。あの、感覚。あたしがあたしじゃなくなる感じ……」


 遥が、自分の肩を抱いて震える。自らの存在を確かめるように。


「あんなの、あたしじゃない。あんな……あんなの! あたしが消えちゃう!」


 恐怖に叫ぶ遥の姿は、彼女の普段の姿とはかけ離れていた。見ていられない程だった。弱音を吐き出す遥の姿など、見たくはなかった。


 だから、相人は遥の体を抱き締めた。


「お前はここにいるよ。ちゃんといるから。安心してくれ、頼むからさ」


 遥が自分を抱き締めて己の存在を確かめずともいいように、相人がしっかりと触れる。


「先、輩……」

「大丈夫だ。お前は消えない。遠浪は遠浪だ。お前みたいに我の強い奴がそんな簡単に消える訳ないだろう」


 宥めるように背中をさすってやる。すると、相人の耳元で嗚咽が聞こえた。


「うう……あたし、うあああああ!」


遥の泣き声に、相人は痛ましさを感じずにはいられなかった。遥の泣いた姿など、今まで見たことがない。だから、相人は強く強く抱きしめた。

 相人は、怒りと後悔を感じた。遥を巻き込むことも本当は嫌だった。それでも、仕方ないことだと思っていた。だからって、こんな巻き込み方はないだろう。相人は、そうさせた原因と力なく、思慮も足りない己を恨まずにはいられなかった。


 そこから、遥が泣き止むまで、そう時間はかからなかった。

 落ち着くと、遥は相人から離れる。


「……すみません。みっともないところ見せちゃって」


 遥は照れくさそうに、顔を赤くした。よく見ると、目元も赤くなっている。


「いいよ。たまには遠浪の弱みも見せてもらわないと割に合わないからな」

「あ、人が本気で怖がってたのに、酷いです。鬼畜外道です」


 いつも通りの礼儀も何も気にしない遥の言いように相人は苦笑いする。その苦笑いには、安堵の意味も込められていた。流石にこんなに早く何ごともなかったかのようには振る舞えないらしく、遥の声は少し震えていたが、強がれるのなら、一まずは安心していいだろう。


 しかし、平穏も束の間。


「――ねえ、もういいかな。今度は僕も混ぜてよ」


 その声の源は――上空。まるで宗教画に描かれる天使のような純白の翼を広げた少年が二人を見下ろしていた。

 その白は、両翼のみに止まらない。その少年の肌も、絵具で塗られたかの如き純白だった。


「楽しめそうな人がいたから、下級は遠ざけたんだ。だって、僕が遊びたかったから」


 少年は、無邪気に笑う。本当に、無垢に。


「ねえ、名前を教えてよ。これから遊ぶんだから、僕達友達でしょう?」


 あまりに飾らない笑みが、逆に邪悪に感じるのは、見る者の目が汚れているからだろうか。否、状況が異常なのだ。


「僕の名前はタラリア。さあ、君の名前も教えてよ」


 宙に浮かぶ少年は、この血みどろの状況に何の感慨も抱いていない。


 相人が何か反応を返す前に、遥が一歩前に出た。


「生憎、あたしの名前は簡単に名乗る程安っぽくないんです。それに、あなたなんかと友達になるつもりはありません」


 遥に、自分を見失っている様子もない。一見すると怯えた様子もなさそうに見えた。


「遠浪、大丈夫なのか」

「あいつ、さっきの奴と同じなんでしょう? あたしは大丈夫です。先輩がちゃんと教えてくれましたから」


 不敵に言い放つ遥だったが、その手は僅かに震えていた。遥は怯えていない訳ではない。

 それでも真っ直ぐに前を見る遠浪を、相人は止める気にはなれなかった。今、遠浪は恐怖に向かい合おうとしている。


「うーん。困ったなあ。友達になってくれないなんて……」


 腕を組んで唸っていたいたタラリアは、すぐに何かに納得したかのように手を打って、


「まあ、仕方ないよね。それじゃあ、友達になってもらえるように、精一杯! 頑張らなくっちゃいけないよね!」


 無垢なる死が、羽を広げた。




 校内の各所にアルコーンが出没していた。既に大半の生徒や教師は廃人化、あるいは犠牲となった。そんな校舎の中を駆ける影があった。


 白蝋由羽である。彼は、相人からの昼食の誘いを断った後、廊下でアルコーンと遭遇していた。そして、すでに異形をやり過ごして走っていた。

 彼がアルコーンと遭遇しながらも無事な理由は一つ。彼はこの襲撃の以前から自らのイペアンスロポスとしての力を自覚していたのだ。


 気付いたのは、ほんの二、三日前のことだった。由羽は、脳から生成されるパトス粒子を二枚の薄い円盤のような刃物に変換し、それを自らの意志で自在に操作できる。アルコーンの体を斬り裂くのに十分な斬れ味を持ち、空中に固定することで刃物の腹の部分で攻撃を防御できる耐久力もある。刃物の操作精度は由羽自身との距離と比例しており、体から七メートルも離れると狙いが逸れ始め、十メートル以上先にはそもそも届かない。

 由羽は、この数日で自分の能力を大方把握していた。由羽が生き残れたのも、冷静に自らの力を振るえたから、という部分が大きい。


 何故由羽は走るのか。それは、怪物が跋扈する地獄から逃げる為ではない。


「くそ、あの誘いに乗っていれば……!」


 歯噛みして、時折襲い掛かるアルコーンを斬り裂きながら由羽は走る。


 由羽が走る理由、それは偏に彼の幼馴染である遥にある。

 由羽はアルコーンを目撃した瞬間、その危険性を理解した。そして、自分自身の心配よりも、まず遥の身を考えた。もし、目の前の怪物が遥の前に現れ、遥を襲ったら。そう考えたら、もう体は動いていた。


 校舎内は、血の匂いとアルコーンでいっぱいだった。立ちはだかるアルコーンを打倒する度に、由羽の不安は加速度的に増していく。


「邪魔をするな……!」


 感情を刃に乗せて斬り裂く。近付く白は次々に両断されていく。


 由羽にとって、遥は特別な存在だ。幼い頃から共に過ごし、ここまで来た。奔放な彼女に苦労することも多かったが、それも遥の魅力だと分かっていた。間違った行いは、少々厳しく注意してきたが、それも遥の為だ。由羽は、十年以上も遥のことを最優先に考えてきた。

 だから、由羽が相人を拒絶するのも、遥のことが大きく関係していた。遥が相人に懐いているから嫉妬している、ただそれだけの理由ではない。事実、中学時代は遥と同じように、由羽は相人と親しくしていた。


 最初のきっかけは相人が陸上部を辞めたことだ。相人が走れなくなったと聞き、由羽と遥は悲しんだ。特に遥の落ち込みようは顕著だった。次第に相人との距離は離れ、疎遠という程ではないが以前程の親しい間柄ではなくなった。その時は、心のどこかで憤りはあったものの、原因は病気なのだから相人に非はないのだと、由羽は自分を納得させた。

 次のきっかけは高校入学後のことだった。遥が、相人の入学したこの学校を志望したのは当然の流れといってもいいだろう。由羽が遥と同じ学校を志望したのも、また然り。

 問題は、相人の遥への接し方だった。入学した遥は相人に会いに行った。その時、相人は何ごともなかったかのように遥と接した。そして、今では以前と同じように、いや、もしかしたら以前よりも遥との距離を縮めている。


 嫉妬の感情がなかったといえば嘘になる。だが、由羽の頭には相人が一度遥を悲しませたことがこびりついている。確かにあれは仕方ないことだった。だが、遥を悲しませた人間が何の呵責もなく遥と親しくしている様子は、由羽に耐え難い苛立ちを抱かせた。その感情が、相人への拒絶という態度で表出していた。


 だから、今日も相人からの昼食の誘いを断った。だが、今思えばあの誘いには乗っておくべきだった。あの誘いに乗っていれば、遥の近くで、遥を守ることができたのだから。


「遥、待っててくれ……!」


 道中のアルコーンを蹴散らし、由羽は校舎から中庭に面した渡り廊下に出る。まず、遥の安否を確認しようと中庭に目を向けた由羽は、その光景を目の当たりにした。


 遥を相人が抱きしめている光景。遥が相人に縋り、相人が遥を受け止めている光景。


 白熱していた由羽の心が、冷水を浴びせられたように冷え固まり、そして、一瞬の間を置いて由羽の心は更に強く燃え上がる。遥の無事を喜ぶよりも先に、強い感情が浮き上がる。

 それは、怒り。由羽自身でも理解できない程の強い怒りが、間欠泉のように湧き上がる。

 今すぐ、相人の体を斬り刻んでやりたいと思う程の感情に包まれる。抑え難い感情だったが、理性ではそうすべきではないと理解していた。


 冷静な部分が感情を抑えようとしていると、上空に翼を広げた真っ白な少年が現れた。


 ――あの化け物共の同類か。


 相人や遥とのやり取りを聞いて、そう判断する。そして、怒りを抑えることは諦めた。

 由羽は、怒りの矛先を変えることにした。


「化け物め。斬り刻んでやる……!」


 相人に向かっていた殺意すら孕んだ視線は、そのまま白い少年に向けられていた。

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