一章 邂逅のフォボス 4

 倒れてしまう程の相人の激情に、凛は胸を痛めた。伊織は凛にとって大切な友人である以上に、相人にとっては小学校からの親友なのだ。相人の痛みは発作を差し引いても、凛の痛みでは比較することもできまい。治療の見込みのない廃人化など、事実上の死亡宣告だ。


「それでは気を取り直して、次はイペアンスロポスについて話すことにしよう。高濃度のパトス粒子は物質化やエネルギー化すると言ったね」


 エルメスは何ごともなかったかのように、説明を再開した。

 その態度には少々反感を覚えたが、ここで抗議する意味もない。


「イペアンスロポスとは、パトス粒子を発生させる脳の機能に異常のある人間のことだ」

「それって……」


 凛は、白い男が凛に対してイペアンスロポスと呼んでいたことを思い出す。凛がイペアンスロポスだとすれば、凛の脳に異常があるということになる。

 あの白い男と戦った時のことを思い出す。あの時の自分が自分でないような感覚。あれが脳の異常のせいだとしたら……。


「ああ、誤解を招く言い方だったか。イペアンスロポスは、高濃度のパトス粒子を生成できる機能を持つに過ぎない。情動に関しては常人と何ら変わりないよ」


 凛は胸を撫で下ろす。だが、だとしたらあの時憎悪に支配されたのは、一体何だったのか。

 未だ不安を胸に抱く凛の心持ちなど知らず、ハーミーズの説明は続く。


「イペアンスロポスが生成するパトス粒子の形態は個々人によって違う。物質を生み出す者、エネルギーや力場を発生させる者など、様々な発現の仕方をする。俗に言う超能力者さ」

「超能力者、ですか」


 超能力という言葉に、凛は合点が入った。無論、自分がそうだと言われて戸惑わないと言えば嘘になるが、今の心境は驚きよりも、自分の正体が分かった安心の方が大きかった。


「イペアンスロポスの優れた点はそれだけじゃない。アルコーンを視認した際の反応現象によって恐怖を感じず、自我を保つことができる」

「それで私は大丈夫だったんですね。じゃあ、涯島君も……イペアンスロポス、なんですか?」


 反応現象を受けて倒れてたのは伊織だけで、相人は凛と同じように意識を保っていた。


「恐らくはね。パトス粒子の生成量が常人と大きく違っている訳ではないようから、完全に覚醒してはいない、つまり超能力は使えないと思うがね」


 凛はその答えを聞いて、少し複雑な気分になる。こんな時に不謹慎かもしれないが、凛は自分と同じ人間が身近にいると思い、少し安心した。


「君達のように、イペアンスロポスはアルコーンを見ても廃人化しないが、反応現象が全くないという訳ではない。――アルコーンとの戦闘中、何か君自身に異変は起きなかったか?」


 凛は驚いて口に手を当てる。心当たりは、当然ある。


 感情が、自分でも恐ろしい速度で大きくなる感覚。それを止められない、止めようとも思わない思考。

 凛は、自分は大人しい人間だと思っていた。少なくとも、争いごとは好きではない。だというのに、殺意を抱いた。気の迷いなどでは片付けられない、本物の殺意。目の前の敵を殺さなくてはならないというあまりにも固過ぎる決意。正直、あの時の凛は異常だった。


「思い当たったようだね。君が経験したように、イペアンスロポスがアルコーンと相対すると、その時の感情が増幅される。元の感情の強さによっては、本人にも制御できない程に」


 本人にも制御できないのならば、あの時の凛のように重大な間違いを犯す可能性がある。あの時、或子が止めていなければ凛は白い男を追って、恐らくは殺されていただろう。そして、きっと伊織や或子、そして相人も殺されていた。

 凛は、うつむく。恐ろしかった。これは十分に脳の欠陥だ。


「厄介な奴らだ。アルコーンは、私達が把握しているだけで二年程前から時折姿を現しては、人間を襲ってきた。それも、この近辺でね。だから、この特別研究室が対策を始めたんだ」

「二年も前から……」


 凛は再度驚かずにはいられない。二年という歳月、そんな脅威に気付かないまま過ごしていたのだ。まるで薄氷のような平穏だった。それが今破られたのだ。

 凛が知らなかったのはある意味当然だ。アルコーンの性質上、目撃者は証言者足りえないのだから。


 そう考えると疑問が生じる。何故ハーミーズ達はアルコーンの存在を知ることができたのだろうか。

 アルコーンによる廃人化を免れるのは、ハーミーズの話によるとイペアンスロポスだけだ。普通に考えればこの研究室にいるイペアンスロポスが情報を持ち帰ったのだと思える。それが或子なのだろうか。或子は人間離れした身体能力を持っていた。


「あの、あるちゃ……百目鬼さんも、その……イペアン、スロポスなんですか?」

「いや。百目鬼クンだけでなく、ワタシ達研究室の構成員にイペアンスロポスは一人もいない」


 ハーミーズの返答は、凛の予想していたものと違っていた。その答えでは、矛盾が生じる。


「え……? じゃあ、どうしてアルコーンのことを知ることができたんですか?」

「イペアンスロポスを人為的に再現する技術があるのさ。パトス粒子を発生させる機能を調整することで、疑似的なイペアンスロポスにできる。そうやってアルコーンの反応現象を防ぐことが可能だ。その名はプロドティス。この研究室の人間は、全員がプロドティス化の手術を受けている」


 それで納得した。プロドティスという言葉もあのアルコーンの口から聞いた覚えがある。或子のあの身体能力はプロドティスとしての力だったのだ。


「すごいですね。ここにいる人全員が超能力者だなんて」


 凛が感想を漏らすと、ハーミーズが首を振る。


「全員が高濃度のパトス粒子を使える訳ではない。プロドティスが超能力を発揮できるのは、脳が成長しきっていない未成年の内に調整を受けた人間だけだ。それ以外は反応現象に耐性があるに過ぎない。それに、プロドティスは自分の肉体をパトス粒子で強化するだけ。イペアンスロポスのような多様性は、残念ながらない」


 ハーミーズの言葉は白い男と対峙した時の或子の様子を説明するには十分だった。だが、凛が気になったのはそんなことではない。


「未成年だけって、もしかして」

「ああ。この研究室で戦う力を持っているのは百目鬼クンただ一人だ」


 戦う力。その表現に、凛は実感する。ごく普通の女子高生だと思っていた親友は今まで戦い続けてきたのだ。或子は明らかにアルコーンとの戦闘に慣れている様子だった。


「……あるちゃん一人だけでずっと戦ってきたんですか?」


 アルコーンがどれだけいるのかは分からない。だが、白い男のような存在だ。たった一人を相手にするのも過酷だ。それを、二年間。

 たった一人で戦い続けてきたのなら、或子にとってどれ程の負担になっていたことだろう。それなのに、或子は何事もなかったかのように学校に来ていた。休日には凛と遊ぶこともあった。或子の苦労を、全く気付いてやることができなかった。


「ああ。彼女はよくやってくれた。だが、まあ君が想像している程ではないと思うよ? アルコーンの出現は非常に散発的だったし、君が遭遇した個体は規格外と考えるべきものだ」

「規格外?」


 アルコーンというものに初めて出会った凛からすればそもそもの規格というものが分からないのだが、ハーミーズの口ぶりでは、どうやらあの白い男は特殊なアルコーンらしかった。


「通常のアルコーンは言葉を発することはない。形だけは人間だが、顔も何もないマネキンのような姿で、何より、体を刃物に変化させるような特殊能力は持っていなかった」


 ハーミーズの語るアルコーンの特徴はあの男とはまるで噛み合っていない。だとしたら、そもそもあの男はアルコーンという括りに入れてしまっていいのだろうか。


「とりあえず、体表が白いという特徴と、アルコーン特有の反応現象のパターンから君が遭遇した個体はアルコーンとして分類する。人語を解するアルコーンなど前代未聞だがね」


 思わず、戦慄する。今までアルコーンと戦い続けてきた彼らすら知らない存在の出現。しかも、明らかに通常のアルコーンよりも強大な存在だ。嫌な感じがする。


「だがこれで分かったことがある。今まではこの近辺に出現すること以外全く出現パターンが読めなかった。そもそも奴らに目的があるのかも。あるいはただの自然現象なのかもしれないと思ったこともある。しかし、奴らにも意思や目的が存在することが判明した。ならばその目的から行動を予測して、奴らを根絶やしにすることも可能になる」


 僅かに、ハーミーズの口調に熱が込められ、早口になる。情などないように見えた男の、感情が少し見えたような気がした。

 それも当然か。何せ、相手はハーミーズが二年間相手取ってきた宿敵なのだから。


「さて、アルコーンとの戦闘が過酷になるのは、むしろこれからだ。人語を解するアルコーンの出現は、即ち今までとは異なる行動を開始したということだ。恐らく、これからは君が思う以上に――ワタシの想像すら越える激しい戦いになる」


 ハーミーズの目に、これまでで一番の真剣味が宿る。


「君達イペアンスロポスの協力が必要だ。力を貸してくれ」


 彼らは今まで世から隠れて戦ってきた。しかし、更なる脅威となる新種のアルコーンが出現し、唯一の戦闘員である或子が負傷した以上、他者の手を借りるというのは、当然の考えだった。


 凛は考える。もし自分が戦うことになったとして、その時はアルコーンとまた相対することになる。そうなれば、必然的に反応現象が起きる。あの、自分が自分でなくなる感覚だ。あの感覚と思い出すと、凛の体は勝手に震えだす。自分がいなくなるような、そんな恐怖。そして、自分を見失ったせいで誰かが傷付くことになるかもしれないという恐怖。


「手伝わせてください。私も、戦います」


 それでも、凛は頷いた。

 自分には力がある。アルコーンをこのまま放っておけば誰かが犠牲になる。自分が行動したせいで誰かが傷付く可能性があっても、行動しないせいで誰かが確実に倒れるのなら、指を咥えてはいられない。


 ハーミーズが凛に手を差し伸べる。


「ようこそ、パトス粒子変容体対策研究室へ」

「はい。よろしくお願いします」


 凛が、その手を取った。

 握手を交わし終え、手を離すと、ハーミーズが話題を変える。


「それでは、早速頼みたいことがある」

「頼みたいこと、ですか?」


 凛の返事に、ハーミーズは神妙に頷く。


「戦力の増強だよ。君達にはイペアンスロポスの勧誘をしてもらいたい。涯島クンには協力の意志を聞いてからになるがね」

「勧誘……って、超能力者、ですよね? そんな簡単に見付かるものなんですか?」


 超能力者とは平常とはかけ離れた存在だ。二年も活動しているのにイペアンスロポスが所属していないという事実からも、稀少であるという凛のイメージは間違っていない筈だ。


「確かにイペアンスロポスはどこにでもいるものじゃない」

「それじゃあ――」


 一体何をすればいいのか、と続けようとしたところで、ハーミーズが遮るように続けた。


「――だが、強力な能力者になり得る者ならば知っている」


 ハーミーズは不敵に笑っていた。


「国の方針で可能な限り一般人を巻き込めないことになっていたから、これまでは勧誘もできなかったが、アルコーンの活動が本格化するとなればそうも言っていられない。我々はこの時の為にイペアンスロポスになり得る者達をマークしてきた」


 流石は国家機関といったところか。凛には超能力者を探す方法など見当も付かないが、既に探し終えているらしい。

 しかし、であるならば、


「どうして私達に頼むんですか?」


 という凛の疑問が湧き出るのも当然と言えた。

 それに対して、ハーミーズは顔色一つ変えずに答える。


「君達の学校にいるからさ」

「……は?」


 あまりに想像を逸した答えに、凛は思わず間の抜けた声を上げる。


「信じられないかもしれないが、事実さ。国が後ろにいるからね。全国の学校、企業、自治体の健康診断に紛れてパトス粒子発生量を調べるテストを行った。結果、君達が通う学校にはイペアンスロポスが少なくとも数十人。戦えるものは君を除いて最低でも二人いることが分かった。涯島クンのような未覚醒も含めれば、百人を超えるかもしれないな」

「あ、え……?」


 まくし立てるような言葉に混乱する。理解が追い付かない。いや、常識が受け入れない。


「百目鬼クンが君の学校に転入したのも候補者の監視と、有事の際の対応の為だ。本来ならば勧誘も百目鬼クンの仕事なのだが、彼女は今動けない。そこで君達の出番という訳さ」


 割と驚愕の事実なんじゃないかという友人の転入の理由を聞いても、衝撃的な情報が多すぎてまともに驚くこともできない。

 或子のことについてはまた後日或子に聞くとして、今はもう一つの混乱の原因について疑問を解消しなくては、と凛は頭を無理矢理に回転させる。


「え、と。その、何で私達の学校にイペアンスロポスがそんなに……?」


 凛の質問に、ハーミーズは首を傾げた。その仕草が示すことは、つまり。


「不明だ。千人規模の高校でも、普通微弱な力を持つ者が一人いて奇跡的といったところだ。はっきり言ってこれは異常事態だ。普通なら原因を探るところだが、今は時間がない」


 そのハーミーズの発言に、何か大切なことを見落とすことになるのではないかと不安を抱いたが、分からないことに時間を費やしても仕方がないことも確かだ。

 この時は、凛もそれ以上深く考えることはしなかった。

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