一章 邂逅のフォボス 3

 三十分程待つと、三台のワゴン車が相人達を迎えに来た。或子と伊織は一台ずつに乗せられ、もう一台に身動きの取れない相人を寝かせ、その傍らに凛を乗せた。


 ワゴン車に乗っていたのは、複数人の白衣を着た男女だった。

 移動中、相人と凛が運転手と白衣の男に幾つか質問をしたが、詳しい説明はなかった。

 乗っていた時間は、車を待っていたのと同じ三十分くらいだろうか。待っていた時間と合わせて一時間もあったので、相人の発作も大方治まっていた。


 着いた場所は相人も聞いたことのある大学付属の病院だった。


 伯難大学病院。相人と凛は脳外科特別研究室と名付けられた部屋に連れてこられた。或子と伊織は治療用の施設に運ばれたらしい。白衣やスーツの男女はここのスタッフのようだ。

 そこは高校の教室二つ分程の広さで、内装は専門的な物らしい機材と、見たことのない何らかの物質のモデルらしき模型、他にも研究員ごとの机の上にパソコンや紙の資料がある。


 その部屋の最奥に、紙の資料を気怠げに読んでいる男がいた。他の研究員と同じように白衣を着ているが、一番大きな机を使っているのを見る限り、ここの責任者だろうか。三十代半ば過ぎの彫りの深い顔立ちの男だった。パーマ、というより癖毛と言った方がよさそうな無造作な黒髪と、眠たげな目からは頼りなさげな印象すらある。


「君達が連絡にあった二人か。名前は?」


 男は手元の資料から目を逸らすことなくそう言った。

 ここまで何の説明もなく連れてこられて、挙句のこの態度に相人も凛も戸惑いを隠せない。


「天王寺凛……です」

「涯島相人、です」


 二人とも複雑そうな顔で自分の名前を告げる。


「涯島……候補者の名簿にはない名前だな。成程、自覚がないという意味ではなく覚醒途中という意味での本当の未覚醒だったか」


 男は一人で納得して手にしていた資料を机に置いて、初めて相人達の方に目を向けた。


「では説明を始めようか。ああ、ワタシはハーミーズ・マーキュリーだ。ここの室長をしている」


 そして、まるで説明の片手間でするように自分の名前を名乗った。


「この部屋には脳外科特別研究室と書かれていたと思うが、その名称は我々が日本政府直属の組織になる以前のもので、少し古い。今はパトス粒子変容体対策研究室という」

「に、日本政府……!?」


 予想外の単語に、相人は驚きの声を上げる。目の前の男が言ったのは、相人達が巻き込まれていることには国が関わっているということなのだから。


「つまり我々は国家公務員という訳だ。その為に日本国籍も取らされたよ。我々の研究対象がパトス粒子。研究目的はアルコーン――君達が見た怪物に対抗することだ。パトス粒子について説明しよう」


 また耳慣れない単語が登場した。何が起こっているかは分からないが、専門用語なのか何なのか、こういった謎の言葉が相人の理解を更に難しくしているような気がしてならない。


「パトス粒子は、簡単に言えば生物の脳内で発生される、感情の元になる物質のことだ」

「えっと……、それって、アドレナリンとか、そういう物のことですか?」


 凛がおずおずと質問する。しかし、ハーミーズは首を横に振った。


「全く違うね。君はアドレナリンが脳で発生していると思っているのかい? そんなことも知らないとは、かなり噛み砕いて説明する必要があるようだ」


 ハーミーズの嫌味な言い方に凛がむっとしたような表情を作る。アドレナリンについては相人も知らなかったのであまりいい気分ではなかった。


「いいかい? アドレナリンは脳ではなく副腎髄質で発生し、感情というより、発生した感情を受けて体にそれに合わせた反応を促す物だ。パトス粒子は外部からの刺激や、その人物の精神構造などからその都度性質を変え、感情そのものを生み出す物質なのさ」


 ハーミーズの説明を聞いても相人には漠然としか理解できない。どうやら俗に言う脳内麻薬のような物とは別物のようだが。


「脳は複雑で、まだ分かっていないことも多い。パトス粒子が発見されるまでは感情のメカニズムも、はっきりとは分かっていなかった。それを解き明かしたパトス粒子も、未だ限られた人間にしか知られていない」

「どうして公表されないんですか?」


 凛は先程から物怖じせずに質問を続けているが、相人はいまいち興味を持てない。よく分からない難しい話より、伊織のことを聞きたかった。


「パトス粒子について公表するということは、アルコーンの存在が世間に広まる可能性が高まるということだ。そんな危険を冒す訳にはいかない」


 アルコーン。この単語も聞き慣れないものだが、或子の口から既に聞いていた。確か、あの白い男に向かって言っていた筈だ。

 相人の関心は一気に高まった。相人が一番気になっていたのは、そのことだった。


「あいつ、一体何なんですか。伊織はどうなったんですか?」

「パトス粒子は、もちろん通常ではあり得ないが、一定以上の濃度になると物質化、あるいはエネルギー化する。高濃度のパトス粒子によって形作られた生命――それがアルコーンだ」


 相人は催促の言葉を飲み込む。早く伊織のことを教えろと言いたかった。だが、話には順序がある。何も知らない自分が口を出すよりも黙って聞いていた方がいい。


「アルコーンは高濃度のパトス粒子によってしか傷付かないという性質があり、奴らにはあらゆる兵器が意味を成さない。忌々しいことに、恐らく人類にとって最大の天敵だ。……だが、何よりも恐ろしいのはそんなことじゃない」


 ハーミーズの表情が険しくなる。


「反応現象。パトス粒子にはそう呼ばれる現象を引き起こす性質がある。人間の脳は他者のパトス粒子に反応して、パトス粒子を発生させる。笑っている人の近くにいると気分が明るくなる、といったような他人の感情に影響を受けることは反応現象による部分も大きい」


 反応現象という単語には聞き覚えがあった。たしか、様子のおかしくなった伊織を見た或子が口走ったのだ。


「アルコーンは言うなればパトス粒子の塊。アルコーンを見た者の脳も反応現象を起こす。通常の反応現象ならどんな感情が引き出されるかは他者のパトス粒子の性質、つまりどんな感情かに依存するが、この場合はたった一つ、恐怖の感情のみが異常に増幅される」

「恐怖……」


 その言葉で、相人は三年前のことを思い出す。あれも、凄まじい恐怖だった。


「アルコーンの何より恐ろしいのは、その反応現象による感情の増幅値が大き過ぎる点だ。アルコーンを見た人間は、反応現象によって増幅された膨大な恐怖に自我を保っていられなくなり――廃人化する」


 廃人という言葉は、伊織の症状と合致していた。伊織の様子は呆けているとか、放心とか、そんな言葉では言い表せない異常性があった。そう、廃人という表現が相応しい。


「そんな、こと、嘘……伊織は、戻るんですか」


 相人の脳が現実を受け入れるのを拒否しかける。心臓の鼓動が高鳴った。

 けれど無闇に否定してもどうにもならない。だから、相人は問い質す。肯定以外の言葉など聞きたくないと、非難するかのように、縋るように。


 ハーミーズは憂鬱そうに溜め息を吐いた。


「……反応現象によって廃人化した人が回復した例は、今のところ確認されていない。そもそも、反応現象によってもたらされるのが恐怖だというのも、被害者の脳波からの推測に過ぎないレベルでね。お手上げ、というのが正直なところさ」


 その言葉が耳朶を叩いた瞬間、心音が速まるのがよく分かった。


 ハーミーズが言ったのは、つまりは伊織に完治の見込みはないということ。成程、これは確かに世間に公表できない。こんなことを知ってもパニックが起きるだけだ。

 もう二度と伊織の皮肉を聞くことはできないのだと、そう宣告されたのだ。慟哭は言葉になることすらなく、嗚咽に変わる。胸を押さえて崩れ落ちる。


「涯島君!?」


 駆け寄ってくる凛の声が聞こえる。


 発作だ。こんな短時間で連続して起こるなんて初めてのことだった。相人はあの白い男――アルコーンの言葉を思い出した。拒絶反応。昂ぶり過ぎた。前者の意味は分からないが、成程後者はこういうことか、と少し納得した。


「そういえば、持病持ちと報告されていたな。彼には後から話そう」

「と、とりあえず安静にしてあげないと」


 まだだ。まだ、話は終わっていない。伊織が元に戻らないなど、認めたくない。まだ正気に戻す方法が分からないのなら、自分が見付ける。その為に情報が要る。たとえ後から話を聞けたとしても、いても立ってもいられない。すぐに聞きたかった。


「彼を病室に運んでくれ。できるだけ安静にするように」


 ハーミーズが周囲の白衣に指示をする。相人の体は担架に乗せられ、運ばれる。

 聞いていたかった。けれど、相人の体はその意思を表明することすら許してはくれない。


 相人は、研究室から弾き出された。

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