一章 邂逅のフォボス 2

 それから、四人は伊織の案内で噂の廃屋にやってきた。


 外壁は色褪せ、周囲には雑草が伸びているが、その他は少し古いもののごく普通の二階建ての民家と言った様子だ。


「よし、行くぞ」


 合図と共に、伊織が引き戸になっている玄関に手をかけ、横に滑らせて開けた。建て付けが悪くなっているのか、ところどころでつかえたが、それ以上の問題はなく扉は開いた。


「調べたって、何かがあるとは思えないけどね」

「一番大切なのは気分なんだよ。分かってねえな」


 或子の不平に対し、伊織は得意げだ。


 廃屋の中は、掃除されていないせいか窓が曇っており、外より数段暗かった。前が見えない、という程ではないが少々不安になる暗さだ。電気も通ってはいないだろう。

 伊織が鞄から懐中電灯を取り出して土足のまま土間から上がった。


「そんな物まで用意してたのか」

「探検の必需品だぜ」


 相人が呆れて言うが、伊織はやはり得意げに返した。


 他の三人も伊織に見習って土足のまま上がる。その間に伊織は先に進んでいた。階段の横を通り抜けたので、まずは一階から探索するのだろう。


「まったく、勝手に先に進んで」

「まあまあ、落ち着いて」


 未だ機嫌が悪いらしい或子を凛が宥める。


 時々軋んで、不気味に音を出す床を踏んで進む。伊織が階段を抜けた先の左手奥の部屋に入った。相人達もそれに続く。

 部屋の中には家具も何もなく、妙に広い印象だった。何もない空間というのは得てしてそのように感じるものだ。埃が積もり、壁紙や床も一部剥がれている。


 伊織が懐中電灯の光を室内に走らせるが、変わった物は特に見付からなかったらしい。


「他の部屋も見てみるか」


 部屋の中を軽く一望しただけで次に向かう辺り、本当に気分を味わいたいだけなのだろう。相人も見渡してみるが、やはり何の変哲もない。死体でもあるのではないかと突拍子もない想像をかき立てられるが、古い木材や外の草の匂いはすれど死臭など漂ってこない。


 一階の部屋を全て調べ終えても、最初に入った部屋と同じく特筆すべき点はなかった。


「二階、行ってみるか」

「さっさと見て帰りましょう」


 伊織が先導して先に進む。或子は文句を言いつつ続き、後ろに凛、相人の順で階段を上る。

 二階にも、目ぼしいものは見付からない。そうこうしている内に、二階の探索も最後の一部屋を残すまでになっていた。五、六畳程度の広さの部屋で、廃れ具合は最初に見た部屋と大差ない。足を踏み入れたはいいが、この広さでは見渡すまでもなく何もないのが分かる。


「ほら、何もなかったでしょう」


 或子が息をつく。


「でも俺はまあまあ満足だぜ。廃墟なんて初めて来たしな」


 伊織は背筋を張るように伸びをした。


「まあ、いい経験にはなったかもね」


 凛が、苦笑いしつつも伊織に同意する。


「それじゃあ、帰ろうか」


 相人が言って、四人が振り返って部屋を出ようとした、その時だった。


 部屋と廊下を繋ぐ出入口。そこに、人影があった。


「――俺はどうやら運がいいらしい。そっちから来てくれるとは」


 長身の男だった。優に二メートルはあるか。屈まなければ天井に頭が届いてしまいそうな大男。その体はしなやかな筋肉で覆われており、筋骨隆々といった程ではないものの、逞しさを感じさせる。しかし、それでも相人の目には目の前の男は不健康そうに映った。

 何故なら、その男の肌は顔面から手足の先まで一欠片の例外もなく、白磁のように真っ白だったのだから。それは最早人間の、いや、生物の肉体の色ではなかった。


「あまり期待していなかったが、撒き餌に食い付いてくれるとは、僥倖僥倖」


 白い男は何が愉快なのか、不敵に笑う。相人はその男が発する異様な雰囲気と異常な外見に圧倒され、目を離せずにいた。


 しかし、そこで相人の意識を男から逸らす声があった。


「桶孔君? 桶孔君!? どうしたの!? ねえ!」


 凛が、伊織の肩を揺すって、懸命に名を呼んでいた。

 それに対し、伊織はまるで反応を返さない。体を揺さぶられても、声をかけられても、ただされるがままだ。瞳は虚空ばかりを見つめ、体中から激流のように汗が流れ出ている。


「伊織……? 何だ、どうしたんだよ」


 外部からの刺激に何一つ反応を返さない。これでは、まるで廃人ではないか。


「廃……人?」


 この廃屋に来るきっかけとなった噂話を思い出す。怪談じみた噂。そこまで連想しても、状況をまるで把握できない。伊織はどうなった。あの真っ白な男は何だ。


「反応現象……」


 相人の思考が男の肌の色のように白く塗り潰されそうになっていると、或子の口から聞き覚えのない単語が紡がれた。

 思わず或子に目線を向けると、彼女は相人達よりも前に出て白い男を睨み付けた。


「アルコーン……!」


 再度、謎の単語を口にしたかと思った途端、或子の姿が消えた。

 いや、或子は走っていた。常人から明らかに逸脱した速度で、白い男に向かって突進していたのだ。相人がそれを正しく認識するよりも先に、男が後方に吹き飛び、廊下の壁に激突する。老朽化していた壁は容易く破壊され、男は壁に埋まった。


 或子が男を殴り飛ばしたのだと分かったのは、男が吹き飛んだ後の或子が、拳を振りぬいた直後の構えをしていたからだ。


 一瞬のできごとに、頭が付いていかなかった。何だ、人間にあんなことができるのか?


「二人とも、早く逃げて! 桶孔は私が連れていくから、早く!」


 或子が必死の形相で叫ぶ。自分に向けて声をかけられて、呆けていた意識が元に戻る。それでも、体はすぐには動かなかった。それは凛も同様らしく、硬直してしまっている。


「……敵わないことは理解しているようだが、まだ甘い。逃げられるとでも思っているのか」


 相人と凛が動き出す前に、男が立ち上がった。


 相人は驚愕する。あれ程の一撃を受けて立ち上がれるなど、まともではない。尋常ならざる肌の色から何となく分かっていたことではあるが、やはり普通の人間ではない。

 相人は、或子に視線を向ける。或子も、普通ではない。今までずっと一緒に過ごしてきた友人なのに、或子のことがまるで分からなかった。


「お前、プロドティスか。そっちも同類……じゃねえな。未覚醒ってところか」


 男は相人と凛の方に目線を向けて言う。或子が歯噛みしている。


 相人は混乱する。先程から訳の分からない事態で、訳の分からない単語が飛び交っている。つい数十分前まで学校で過ごしていたことが遠い過去のように感じた。


「あ、あの……」


 隣で凛が声を震わせながら男に声をかけた。相人はその度胸に目を剥く。相人にはとてもこの状況に参加する気にはなれない。


「あなた、一体何なんですか……?」


 その質問は、相人の抱いていた幾つもの疑問のうちの一つと合致していた。

 男は凛の質問に口元を歪ませる。口が、薄く刃物のように引き伸ばされる。


「お前はすぐに死ぬ。答える必要はねえし、必要ないことは省く性分でな」


 それだけ答えて、男は凛の方に右手をかざす。直後、男の手が割れた。

 比喩でも何でもなく、男の右掌から肘に至るまで、縦方向に三分割されたのだ。

 相人が驚いている間に、男の手は更なる変態を遂げる。分割された腕が、それぞれ鋭い刃物の形に変化した。それは、まるで槍のような三本の右腕。


「凛……!」


 或子が慌てて白い男と凛の間に割って入る。瞬間、男の腕から変化した白い三叉槍が直線の軌道で、或子の体に突き刺さる。

 三本の内の二本は或子の両腕に突き刺さり、一本の槍は或子の腹部に侵入していた。


「ぐ……ぁはっ」


 或子が吐血する。その体から槍が引き抜かれ、元の右腕に戻る。槍に支えられていた或子の体は、力なく廃屋の床に倒れた。血が床の木材に染み込み、赤く染まる。


「あるちゃん……っ!」

「百目鬼さん!」


 凛と相人はうつ伏せに横たわる或子に駆け寄る。しかし、どうすることもできない。治療など技術的にも状況的にもできはしない。


 あの男は躊躇なく凛を殺そうとした。そして、凛を庇って或子が重傷を負った。

 未だにこの状況は理解できないが、あの男が危険な存在で、或子が自分達を助けようとしたことは理解できた。そして、それだけ分かれば十分だ。


「天王寺さん、僕が走ったら窓から飛び降りて」


 相人は涙声になりそうなのを必死で堪えて凛に指示した。


「涯島君……?」

「飛び降りたら、全力で走って。安全なところまで、絶対に止まらないように」


 相人は、自らを囮にして凛だけでも逃がそうと考えた。男に向かって相人が突撃して、相人が殺されている間に凛を逃がそうと考えていた。


 この作戦は苦肉の策だ。それ以外に手はないと思った故に仕方なく採る策だ。

 それは相人が犠牲になるから、ではない。伊織と或子を助けることができないからだ。

 今動けないこの二人を、あの恐ろしい白い男から逃がす方法など、相人には思い浮かばない。それが、相人には悔しくて仕方がなかった。自らの不甲斐なさに憤死しそうな程だった。

 せめて凛だけでも、或子が守った凛だけでも逃がさなければならない。それでも、逃げ切れるかどうかは怪しい。それでも賭けるしかなかった。


 ――だが。


「ぅ……ぐああ!」


 唐突に、胸に激痛が走った。もう慣れ親しんだと言っても過言ではない苦痛。心臓の発作だ。一歩たりとも動けなくなる程の苦痛に見舞われる。


「く……そ、こんな、時……に」


 心臓が真っ二つに割れそうな痛みに、胸を押さえて屈みこむ。息が荒くなって、汗が噴き出す。痛みと無念から、目から涙が零れる。


「拒絶反応か。昂ぶり過ぎたな」


 男が冷めた口調で言う。妙な言い回しが気になったが、相人はそれどころではなかった。


「ふん、動けんのなら好都合だ。どちらでも変わらんが、幾らかは殺しやすくなる」


 男の腕の形が変わる。今度は、先程の三本槍ではない。十数に枝分かれし、多種多様な刃物に変形した。真っ直ぐにこちらを向く槍もあれば、蛇のようにうねってこちらを狙う鎌もある。これでは、もし相人が動けたとしても意味はない。凛を庇おうと、相人が囮になろうと、目の前の白い刃達は二人を纏めて屠るだろう。


 凛が、相人を庇うように前に出る。相人は凛の瞳が男を力強く睨み付けているのを見た。


「これで目的は達成だ。――死ね」


 幾つもの刃が、凛と相人に襲い掛かる。視界が、真っ白な死に覆われる。

 逃げることなど叶わない。密室空間での、圧倒的物量の攻撃。そもそも体が動かない。


 既に死は確定した……かに思えた。


「やめて――ッ!」


 凛が叫んだ、その瞬間。目前まで迫っていた刃の群れが弾け飛んだ。槍も、鎌も、剣も、何もかも弾き飛ばされる。まるで見えない大砲でも放たれたかのようだった。


 男が目を剥いた。初めて見る、驚愕の表情だった。


「不可視の、しかも面攻撃だと……! 覚醒したのか!?」


 見えない力は白い男にも襲いかかる。幾つもの刃物ごと、白い男が後ろに押し退けられる。

 男は足に力を込め、後ろの壁にぶつかる直前に踏み止まった。

 廃屋がぎしぎしと音を立てる。今の衝撃に建物が悲鳴を上げていた。


「貴様……。邪魔をしやがって、忌々しいイペアンスロポスが……!」


 男が、凛を謎の言葉を使って罵る。すさまじい怒りの形相だった。

 だが、それ以上に、


「……私の友達に、手を出さないで!」


 相人は発作の痛みに耐えながら、凛の怒気に圧倒されていた。怒気、というよりも最早これは殺気と言うべきか。相人はこれ程荒々しい気配の凛を見たことはなかった。

 まるで別人ではないかと錯覚する程の威圧感に、恐怖すら覚える。


 男と凛は暫く睨み合う。数秒、しかし相人には何倍にも感じる時間だった。

 先に目線を外したのは白い男の方だった。


「……ちっ、こっちは時間がねえってのに」


 舌打ちして、男は踵を返した。どうやら退却するらしい。

 相人は訳が分からないながらも安堵する。これ以上誰も傷付けられることはない。


 しかし、凛の殺気はまるで衰えなかった。


「待ちなさい! 絶対、逃がさない……!」


 やはりおかしい、と相人は確信する。凛はこんなに荒々しい人間ではないし、冷静な判断ができる人間だ。だというのに、今のこの荒ぶりようは一体何だというのか。


「見逃してやるというのが分からねえのか? 身の丈に合わない力に酔ってんじゃねえぞ」


 それだけ言って、男は部屋から出て、歩き出した。


「逃がさないって言ってるでしょう!」


 凛がそれを追って走り出す。――それが、紙一重を分けた。

 凛が走り出す、その直前に凛がいた場所の下から白い槍が床を突き破って現れたのだ。


 相人は戦慄する。もし、凛が男を追っていなかったらどうなっていたか。あの白い男は撤退する素振りで、刃を相人達がいる部屋の直下まで伸ばし、凛の不意を突いたのだ。

 あの白い男には異常な体による圧倒的な戦闘力だけでなく、搦め手を使う狡猾さがある。冷静でない今の凛が追えば、確実に殺される。


 だというのに、凛は追撃をやめようとはしない。そして、相人は今凛を止められない。

 このままでは、凛が死ぬ。


「待って、凛」


 相人が悶えていると、凛を制止する声があった。傷付いて倒れた筈の或子だった。

 傷は深い筈だが、苦しそうではあるものの意識を保ったまま立っている。


「でも、あいつはあるちゃんを傷付けて、涯島君を殺そうとした! 桶孔君だってあいつのせいかもしれない!」

「今追っても、凛が殺されるだけ。凛が殺されたら私達も殺される」

「……っ!」


 目の色を変えて叫ぶ凛に、或子が冷静な言葉を浴びせる。凛は言葉を詰まらせる。


「とりあえずここを出ましょう。室内だと、いつさっきみたいな奇襲をされるか分からない」


 反論材料はなく、凛は或子の提案に従った。動けない相人と伊織を凛と或子が家の外まで運び出した。外に出るまでの間、先程のような攻撃はなく、廃屋の外に男が待ち構えているということもなかった。


 或子は、外に出て伊織を寝かせると、そのまま自分も倒れるように地面に寝転んだ。


「あるちゃん!」


 相人を地面に降ろした凛が或子に駆け寄る。


「大……丈夫。これくらいなら、死なないから」


 痛みに顔を歪ませながらも、或子は凛に笑いかける。


「何言ってるの! 早く救急車呼ばないと……」

「待って、それはちょっとまずいかな」


 携帯電話を取り出した凛を、或子が片手を出して制する。


「怪我の理由を聞かれても説明できない。私が迎えを呼ぶから、凛は涯島君の方をお願い」

「でも……」


 納得がいかないといった様子の凛だったが、或子が携帯電話を出して笑いかけると、それに反する気になれなかったのか、相人の方に戻ってくる。


「涯島君、大丈夫?」

「大丈夫……って、強がりを言えるくらいには大丈夫、かな」


 先程までは声も出せなかったが、会話ができるくらいには回復していた。それでも、体を動かすのはまだ難しそうだった。


「……ごめんね、みんなを死なせるところだった」


 相人が返事をすると、凛は俯いてしまう。


「私、頭に血が上っちゃって、何だか私が私じゃないみたいになって、気付いたら周りが見えなくなって……」


 あの時の凛は、確かに別人のようだった。あの男を殺すという感情だけが凛を支配しているようにすら思えた。

 だが、今の凛はいつもの凛だ。


「天王寺さんなら大丈夫だよ。これは強がりじゃないから、安心して」


 素直な気持ちを伝えると、凛の目元から透明の液体が頬を伝って相人の顔に落ちる。


 泣かせてしまった。そう思った相人は慌てて話題を変える。


「そ、そうだ、天王寺さん。さっきあの白い男を吹き飛ばしたのは、一体何をしたの? あれ、天王寺さんがやったんだよね」

「私にも分からないの。確かにあれは私がやった、と思うんだけど、あの時は夢中で……」


 凛は目元を拭い、口元を押さえて不安そうに答えた。


 或子の方に視線を向ける。何故だかは分からないが、彼女は何か知っている様子だった。

 或子は通話を終え、寝転んだままこちらを見る。


「そこも含めて、色々説明してくれる人のところに今から連れていってあげる。あの男や、桶孔に起きたことについてもね」


 困惑する相人と凛を落ち着かせるように、或子は言った。

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