一章 邂逅のフォボス

一章 邂逅のフォボス 1

 薬品の匂いの中で涯島はてしま相人あいとは目覚めた。

 もう見慣れてしまった白い天井。仕切り用のカーテン。今寝かされているのは、相人が通う高校の保健室のベッドだ。まだ少し痛む胸を押さえながら上体を起こす。


「涯島君、もう大丈夫なの?」

「うん。ありがとう、天王寺てんのうじさん」


 胸の辺りまで真っ直ぐに伸びた黒い髪が印象的な少女が、相人が横臥していたベッドの脇に座っていた。天王寺りん。相人のクラスメイトで、保健委員だ。発作を伴う持病持ちの相人にとっては、いつも助けてくれるありがたい存在だ。


「本当に大丈夫?」

「いつものことだから。付き合わせちゃってごめんね」


 相人は頭を下げる。凛は困ったような笑みを浮かべた。


「私こそいつものことだから」

「本当にありがとう、天王寺さんにはいつも世話になりっぱなしだな」


 礼を言いながら、相人はベットから立ち上がり、かけてあった上着に手をかける。


「結局あれって、どうなったの?」


 相人が凛に尋ねたのは、発作を起こして倒れるより前にしていたある約束のことだ。


「続行。あるちゃんは反対してたけど、桶孔おけあな君が、『俺一人でも行く』って聞かなくて」

「まあ、伊織ならそう言うよね……」


 発端は、ある噂話だった。

 出所は不明だが、とある廃屋に立ち寄った人間が廃人になって発見されたという、怪談じみた風聞。人食いの家だとか、白痴御殿だとか、そういう名前を付けられている話だ。


 そこに、相人の悪友である桶孔伊織いおりが目を付けた。どんな情報網を使ったのか、噂の舞台となった廃屋を特定して、そこに行ってみようなどと持ちかけてきたのだ。


「付き合わせちゃってごめんね。あいつ、こういうの首突っ込まずにはいられない質だから」

「ううん。私も全然興味ないって訳じゃないし、それに、あるちゃんもやる気出しちゃったし」


 あるちゃん、とは凛や伊織と同じく相人のクラスメイトであり、凛の親友である百目鬼どうめき或子あるこのことだ。

 彼女はこの探検に乗り気ではなかった。むしろ、伊織の行動を止めようとしていた。それが何故同行することになったのかというと、伊織が危険な行動をしないか見張る為、要するにお目付け役という訳だ。百目鬼或子という少女は、所謂委員長気質なのである。


「二人とも、昇降口で待ってるよ。多分今頃口喧嘩でもしてるんじゃないかな」

「あー……。相性悪いもんね、あの二人」


 あるいは、喧嘩する程仲がいいのかもしれないが。


 あまり二人を放っておくのもいただけない。相人は上着を着て、カーテンを開ける。養護教諭に挨拶をして、相人と凛は保健室を後にした。


「そういえば、涯島君は大丈夫なの? もしかしたら、お化けとか出るかもだよ?」

「え? 僕ってそれ系苦手だと思われてる?」

「あっ、いや、そうじゃなくて、ほら、心臓のことがあるじゃない」


 言われて、相人は凛の心配の理由に納得した。

 相人は心臓病を患っている。発症は三年前。


「大丈夫だよ。いや、発作が起きないって断言できる訳じゃないんだけど、ちょっとびっくりしたから発作が起きるとかはないから」


 実のところ、相人の心臓には何も異常はないのだ。――少なくとも、レントゲンやMRIでは何の疾患も発見できなかった。異常はない筈なのに時折心臓に激痛が走り、まともに動けなくなる。心因性と診断されることもあったが、相人にはそれ程の悩みは思い浮かばなかった。その為原因不明と判断され、激しい運動も禁止されている。

 実のところ、悩みはなくとも原因かもしれない何かには、心当たりはあるのだが。


「……あんなこと自分でも信じられないんだけど」

「涯島君?」

「いや、何でもない。大丈夫大丈夫」


 相人がした体験を話しても、理解してはもらえないだろう。

 三年前に、真っ白な少女を見た。発作が起きるようになったのは、丁度その時からだ。医者からも、ネガティブなイメージが生み出した夢や幻と言われた。


 こんなことを考えていると、本当に思考が後ろ向きになりそうだ。相人は首を軽く振る。


「あ、先輩じゃないですか。せーんぱーい! おーい!」


 と、前方から何やら賑やかな声。

 目を向けると、髪を金色に染め、左右に二つに分けて縛っている女子生徒が大袈裟に手を振っている。その傍らに、切れ長の目が特徴的な少年がつまらなそうな顔をして立っていた。


遠浪とおなみ。それに、白蝋はくろう君」


 遠浪はるかと白蝋由羽ゆう。相人の中学時代からの後輩である。


 相人が反応すると、遥が走り寄ってくる。


「何ですか先輩。彼女さんですか。高校では部活がない分、放課後デートですかあ?」

「あー。そういうんじゃないから。天王寺さん、ごめん。先行ってて」

「う、うん……」


 相人に促され、凛が一足先に昇降口に向かう。


「本当に違うからな。天王寺さんはクラスメイトで保健委員ってだけだから」

「知ってますよ。先輩彼女とかいなさそうだし」

「お前……」


 この歯に衣着せぬ物言いは、中学時代から変わっていない。


「これから練習か?」

「ええ、まあ。暇な先輩と違って、部活がありますから」


 そう言って、遥は腕を振って走るジェスチャーをする。

 遥と、その後ろから歩いてきている由羽は陸上部員だ。相人も以前は陸上部だったのだが、心臓のこともあり、中学二年生で引退を余儀なくされた。


「とか言って、さぼってないだろうな」

「――心配してもらわなくても大丈夫ですよ。遥のことは俺がちゃんと見てますから」


 答えたのは、遥ではなく追い付いてきた由羽だ。

 遥にはさぼり癖があり、中学時代は度々問題に上がったものだ。


「まだ白蝋君に世話になってるのか? いい加減、幼馴染だからって困らせるなよ」

「お構いなく。陸上部員じゃない涯島先輩には関係ありませんから」


 遥を窘めた筈の相人の台詞に返ってきたのは、由羽の冷たい回答だった。


「遥、行くぞ。練習、始まるぞ」

「ちょ、ちょっと! あーもう、分かったから。行きますよー。先輩、さようならー」


 由羽に引きずられるようにして、遥はその場を後にする。

 相人は曖昧な笑顔で手を振り、溜め息を吐く。


「何か、最近白蝋君に嫌われてる気がするなあ……」


 後輩の態度に、寂しさを感じてしまう相人だった。


 中学では同じ陸上部ということもあり、それなりに仲良くしていたのだが、高校に入ってからいきなり相人への態度が冷たくなった。挨拶しても返事はそっけなく、会話も味気ない。

 陸上部を辞めたことが原因だと考えたこともあったが、相人が退部したのは中学二年の頃で、もしそれが原因ならば中学時代から態度が変わっていなければ不自然なのだ。

 相人の入学と由羽達の入学までの間の一年で何か心境の変化でもあったのだろうか……。


「……って、僕もぼーっとしてる場合じゃなかった」


 寂寥感と共に過去を回顧していた自分を叱咤して、昇降口に向かう。

 大した距離ではない。実際、一分もかからず到着する。


「ごめん、お待たせ……」

「おせーぞ、涯島! お前が遅いから、百目鬼の小うるせー小言聞かされてうんざりだぜ」


 相人が言い終わる前に、前髪を上げた男子生徒が文句を投げつけた。彼が今回の発起人である桶孔伊織である。


「ちょっと、小言って、それはないんじゃない? 私は心配して言ってんのよ」


 そして、伊織に反論したショートカットの少女が百目鬼或子だ。


「おお、ご配慮ありがとう。ま、忠告を受け取った結果どうしようかは俺の自由だけどな」

「そういう言い方ないんじゃない? 私はあんたの為に言ってあげてるのに」

「何だよ、あげてるってのは」


 剣呑な雰囲気だ。この二人は放っておくとすぐこんな感じになる。大方、今日廃屋に向かうのを実行するか、延期、いっそ中止にするかで口論していたのだろう。


「とにかく、涯島も来たし、すぐ行くぞ。ったく、お前が倒れるからまた面倒な感じになったじゃねえか」


 あんまりと言えばあんまりな八つ当たりに、苦笑を禁じ得ない。


「第一な、何で当番でもない場所の掃除をするんだよ。お前の担当が終わったならそれでいいだろうが。そうやって無理すっから倒れるんだよ」

「いや、僕の発作はそういうのあんまり関係ないっていうか、早く帰らないとまずいって言ってたから……」


 伊織の矛先が完全に相人に向かった。

 確かに、相人は発作で倒れる前、頼まれて自分の担当とは別の体育館のモップがけをやっていたが、この話とはあまり関係ない気がする。


 しかし、追及の手は伊織だけに止まらなかった。


「そういうの、私も気になってた。人を手伝うのはいいことだけど、涯島君はちょっと行き過ぎっていうか、自己犠牲ってレベルだよ」


 或子が口を挟む。


「この前は、先生の手伝いでプリント運んでたし、昼休み返上で調理実習の準備もしてたよね。あと、道路に飛び出した猫も助けてた」


 或子が指を折り曲げる度、相人は何だか居たたまれない気分になる。


「私、涯島君が色んな部活の助っ人でマネージャーやってるって聞いたよ」


 そこに凛が爆弾を放り投げる。


「え、何それ?」

「マネージャーが足りない部活の大会に付いて行って、ドリンクとかタオルの用意とかしてるって、バスケ部の子が言ってたよ」

「ええー! 流石にそれは嘘でしょ?」


 女子二人が盛り上がる。……残念ながらそれは事実である。

 自分のしていることがここまで取り沙汰されると、どうにも落ち着かない。


「こいつは昔からそうなんだよ。ったく、人助けは自分に余裕のある奴がやることだろうに」


 伊織が呆れたように肩をすくめる。

 単なる皮肉に聞こえるが、これは伊織なりの忠告である。一応、気にしてはいるのだが、実際問題、その忠告を実践できているとは言い難い。


「ガキの頃からずっとこれだ。自分が損しようが、相手が誰だろうが構わず助けに行って、そんで大抵痛い目を見る」

「別にそんな、誰でもって訳じゃ……」

「いいや、誰でもだ。聞くがよ、小五の時、お前がいじめから助けた奴の名前憶えてるか? ちなみに言うと、お前はそいつを助けたせいでいじめられたんだからな」


 そういえば、そんなこともあった。あまりに酷いいじめだったので庇ったら、いじめっ子の癇に障ったらしく、相人もターゲットにされたのだ。


「え、えーと、いや、ほら、その人確かすぐ転校しちゃったからさ……」

「やっぱり憶えてねえんじゃねえか。名前も憶えてない奴の為にそこまでやっておいて、何が誰でもじゃないだよ」


 思わず相人は押し黙る。このままでは、女子の話題の矛先がまた相人に向かってしまう。


「その後、伊織だって僕のこと助けてくれたじゃないか」


 当時伊織は、さり気なくいじめっ子達が手を出しにくいような状況を作ったり、こっそり根回ししてクラス全体にいじめをやり辛い空気を作るなど、手を尽くしてくれたのだ。

 そのことを告げると、伊織は目線を逸らした。


「あんなもん、助けた内に入るかよ。結局卒業までいじめられっぱなしだったじゃねえか」

「そんなことないよ。伊織のお陰でかなり軽くなったんだから」

「……ちっ」


 ぶっきらぼうに言い捨てる伊織に感謝を込めた言葉を贈ると、舌打ちが返ってきた。……偽悪的なところのあるこの友人に素直な感謝は逆効果だった。


「たとえ、俺がお前を助けたのだとしても、それでも俺とお前じゃ全然違うだろうが」

「?」


 相人が首を傾げると、伊織はますます不機嫌な顔になった。


「お前はよく知らねえ奴を助けたけど……、友達を助けんのは当たり前だろうが」


 それだけ言うと、伊織は急に早足になって相人達を置いて前に行ってしまう。

 その背中に、今まで口を出さなかった或子が声を投げかける。


「何照れてんのよー! 友達の為に偉いじゃなーい!」

「……うるせえ」

「何だ、本当に照れてたんだ」


 ばつが悪そうに返す伊織が何だかおかしくて、相人は思わず笑いを漏らす。


 もの凄い勢いで引き返してきた伊織の飛び蹴りが脳天に直撃した。

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