雪の五条、天狗と剣鬼相見える

アレセイア

短編:五条大橋の決闘

 降りしきる雪の中、その男は静かにその橋の上で仁王立ちしていた。

 純白が積み重なった木の橋。その半分ぐらいありそうな、巨漢が腕組みしていた。漆黒の僧衣に身を包み、真っ白い頭巾で大きな頭をすっぽりと隠している。

 だが、それでもその真っ赤な瞳に秘められた、凄まじい眼力は隠しきれない。

 何かに飢えた野獣のように、貪欲に煌めく瞳が、何かを求めるかのようにはるか彼方を見つめ続けていた。

 不意に、その瞳が細められ、口の端がわずかに吊り上る。

 その視線の先――橋に至るその道。雪に紛れるようにして、徐々に人影が橋に近づきつつある。やがて、近づくにつれて、その姿ははっきりとしてくる。

 着物姿の小柄な男だった。頭にかぶった傘で風貌は分からないが、まだ若そうだ。

 視界が悪くなるほど降り注ぐ雪の中、その青年は滑るように軽い足取りで道を歩いていく。足を阻む雪も感じさせないほど、洗練された身体捌き。

 どこか凛とした雰囲気をまといながら、彼はやがて橋に差しかかり、視線を上げた。

 目の前に立ちはだかる巨漢を認め、口を開く。

「そこの僧坊、通してもらっても良いだろうか?」

 澄んだ声だった。穏やかだが、よく通る声に、巨漢の僧坊は口を開く。

「おう、通しても良かろう。だが、その代り、その腰に帯びた太刀を寄越せ」

 地を轟かせるような、低い声だった。それと共に、貪欲な視線が突き刺すように青年に放たれる。真紅の瞳を見つめ返し、青年は傘をわずかに持ち上げた。

 目鼻立ちがすっきりと整った顔が明らかになる。優しげな目つきを細め、青年は苦笑いを浮かべた。

「刀狩か。物騒な僧兵も、いたものだな。だが、この太刀は渡せんな」

「ほう、出し惜しむか。余程、良い太刀なのだろう。ごまかしても無駄だ。この弁慶坊の勘が告げておる。貴様の刀は、良い刀だ」

 弁慶というらしい、その巨漢は真紅の瞳を貪欲にぎらつかせ、舌なめずりをする。

 視線の先には、青年の腰にぶら下がる太刀。質素な鞘だが――その中身は底知れない気配を放っている。それを感じ取り、弁慶は飢えた狼のように目を輝かせた。

「俺はこれまで、九九九本の武器を奪ってきた。そして、貴様の刀が千本目――何かしらの縁を感じざるを得んなぁ……さあ、大人しく寄越せ。寄越さねば、力づくで奪うぞ」

「やれやれ、乱暴な奴だ――ならば、こちらも力づくで押し通らねばなるまい」

 貧乏くじを、引いてしまったな。

 うんざりとした口調で苦笑い交じりにそう呟き――青年は、目を細める。

 優しげな瞳が剣呑に細められ、鋭い殺気が入り交じる。それに呼応するように、弁慶は背中に背負った一本の大太刀を引き抜いた。

 巨漢に相応しいほど、巨大で幅広い、大剣といっても差し支えのない太刀だ。

 それを悠然と片手で構える弁慶。それを目前とし、静かに青年は腰の太刀を抜き放つ。

「では、相手仕ろう。我が名は牛若――いや」

 一息。悪戯っぽい笑みを浮かべて、彼は高らかに言い放つ。

「京八流皆伝、源義経――いざ、参る!」

 瞬間、彼は地を蹴った。足元の雪が蹴散らし、義経は瞬く間に弁慶の間合いに飛び込んでいた。それに弁慶は瞠目しながらも、すでに反応している。

 大太刀を振り被り、飛び込んだ義経めがけて、轟音と共に一気に振り下ろす。

 義経はそれを防ぐように、頭上に太刀を掲げる。だが、それごと叩き割る勢いで大太刀は振り下ろされ――刃の上を、滑った。

「――ッ!」

 受け止めると見せかけ、斜めに傾けられた太刀。その上を滑り、弁慶はわずかに体勢を崩す。その隙を突くように、義経は刃を返し、上段から太刀を振り下ろす。

 だが、弁慶は強引にその場で足を踏ん張ると、流れた刃を強引に振り上げる。

 刃と刃が激しくぶつかり合い、火花が散る。一瞬の拮抗――だが、弁慶の剛力が上回る。

「おおおおおおおっ!」

 大音声と共に、大太刀が振り抜かれる。義経はそれに弾き飛ばされ――だが、勢いを上手く利用し、ひらりと雪積もる橋の欄干に着地した。

 頭を覆う傘をかなぐり捨て、弾けるような笑みを向けた。

「凄まじい剛力だな。弁慶」

「貴様こそ――並みの腕ではあるまい」

 わずか一瞬の駆け引き。だが、それだけで双方、互いの実力を理解する。

 互いを認め合いながら――だが、一歩も退くことはない。二人は視線を交錯させ、互いに隙を伺う。不意に、義経が口角を吊り上げ、手を突き出した。

 そして、指先で手招きする――かかってこい、とばかりに。

 瞬間、弾かれたように両者は動いていた。

 踏み込んだのは、弁慶。大太刀の間合いを生かし、腕を伸ばしながら風の唸りと共に刃を薙ぎ払う。義経は膝をたわめ、欄干から落ちるようにして刃を躱す。

 そして、着地ざま、膝を伸ばし、弾かれたように弁慶の懐に飛び込む。

 右脇に構えた太刀で、鋭く斬り上げる。その斬撃を、弁慶は一歩退くことで躱しながら、薙いだ大太刀を振り上げ、最上段に構えて踏み込む。

 その眼前に、迫る刃の先端。

「な――ッ!」

 斬り上げた太刀。それを振り抜いたと見せかけ、相手の進路上に切っ先を移していた。

 弁慶は咄嗟に身を捩ってその刃を躱す――だが、大きく体勢を崩した。その大きな身体に向け、義経は刃を瞬時に返すと、上段から鋭く刃を振り下ろした。

 避けられない。弁慶は一瞬の判断と共に、左腕を振り上げた。

 その腕が、刃を受け止める――金属の、籠手だ。

 火花が散る。予期せぬ感触に、義経は目を見開いた。そのまま、強引に弁慶は腕を振り抜き、義経を弾き飛ばす。

 だが、彼はまたひらりと中空で体勢を立て直すと、雪の中に着地。そして、雪を蹴って、弁慶に肉迫した。構え直そうとする弁慶に向け、鋭い刺突が放たれる。

 胴体めがけ放たれた刃。弁慶は大太刀の刀身で受け止め、それを跳ね返すべく力を込める。

 刃同士の衝突。衝撃――だが、軽い。軽すぎる。

 弁慶の背筋が凍りつく。半ば反射的に、地を蹴り飛ばす。

 その鼻先を掠めるように、刃が走った。

「――勘がいい奴だ」

 舌打ち混じり、だが、楽しそうな声で義経は横薙ぎの残心のまま、破顔する。対する弁慶は一拍遅れて冷や汗を流し、荒い呼吸のまま、義経を見返す。

(あの刺突は囮、か……!)

 突き刺すと見せかけた刺突は、その大太刀に触れるや否や、跳ねるように義経の刃が翻り、横一閃に刃が放たれたのだ。

 剛力で相手を打ち倒す刃ではない。相手の力を受け流し、隙を伺って仕留めてくるような、抜け目のない剣術を義経は使ってくる。翻弄される。

「恐るべし、だな。義経。いや、京八流、といったか」

「恐れ入ってくれたのなら、道を空けてくれれば助かるのだがね」

「いや――そうは、行くまい。尚のこと、その太刀、欲しくなったわ」

 弁慶は歯を剥きだしにして、威嚇するように笑みを浮かべる。そして、邪魔苦しいとばかりに頭を覆う頭巾をむしり取った。その頭にあるものを見て、義経は目を見開く。

「――角……! そうか、その剛力……弁慶は、鬼なのか!」

「如何にも……! 鬼の糧は、強者との闘争なり!」

 天を突くほどに猛々しい二本の角。それを誇示するように見せつけ、弁慶は凄絶に笑う。

 義経もまた、それで理解する――この男が、この橋でずっと立ったまま、通る人々の刀を奪い取っていたのか。それは。

「強者を求めていた、ってわけか……なるほど」

「応とも! ようやっと千人目……千人目で、手応えのある男と見えたわ」

 荒ぶる気迫と共に、弁慶は唸り声を上げる。その真紅の瞳は、真っ直ぐに義経を見つめている。対する彼は静かに笑みを浮かべ――だが、同じく気迫を湛えて告げる。

「天狗の師匠、鬼一法眼から伺っていた。いつか、鬼の猛者と相見えるだろう、と。それがきっと今に違いあるまい。弁慶――私も、キミに会えて光栄だとも」

「ならば――貴様の全力を、俺に見せてみろ! 俺を、越えてみろ!」

 獰猛な咆吼が、大気を震わせる。気が付けば、弁慶の周りが熱気で雪が溶けつつある。

 気迫に応じるように、湯気さえ立ち込める空間。義経は涼しげな笑みさえ湛え、だが、瞳には隠しきれない気迫を込めて、太刀を構える。

 二人の気迫がぶつかり合う。凄まじい熱気に、雪は二人を避けるように舞い散る。

 そのひとひらが、弁慶の視界をわずかに隠す――刹那、義経は動いた。雪を弾き、地を蹴る高速の突き。それを丸ごと薙ぎ払うように、弁慶は大太刀を横一閃。突きを弾き飛ばす。

 そのまま、左の拳を固め、体勢を崩した義経に突き放つ。

 豪速の拳。それを義経は払われた勢いを利用し、体勢を崩しながら躱す。そして、頬を掠めた腕を左手で掴み、懐に身を投じる。正拳突きの勢いを肩に載せ、そのまま投げ飛ばす。

 変則的な一本背負い。巨体が嘘のように、豪快な弧を描いて宙に舞う。

 弁慶は膝をついて橋を揺るがしながら着地。その着地際の隙を狩るように、義経はすでに肉迫していた。横一閃に胴を薙ぎ払う。

 辛くも体勢を立て直した弁慶は、大太刀を合わせるように振るう。

 不完全な剛力――だが、力はつり合い、両者の刃がぶつかり合う。鍔迫り合い。

 それを嫌ったのは義経だった。刃の交錯を支点に、右へと廻るように移動。同時に、弁慶の力を受け流す。こすれ合った刃が、澄んだ音を響かせる。

 その余韻が消える前に、義経は刃を翻す。弁慶の側面を突くように、左脇に流した太刀を鋭く斬り上げる。それを、弁慶は身を引きながら左拳の籠手で受ける。

 だが、その衝撃は軽い。元より捌かれるのを前提とした軽い斬撃だ。

 跳ねた太刀は踊るように、右片手の中段に移行。地を蹴り、またしても鋭い刺突。

 弁慶は一歩引きながら寝かせた大太刀で受け止め、その刺突を上方に跳ね上げる。そして、浮いた彼の身体に拳を振るう――。

 だが、義経の身体はひらりと上空に舞っていた。突きの勢い、跳ね上げの力を利用し、自身の身体を前方へと投げ飛ばしていた。弁慶の肩を掴み、強引に背後へ着地すると、その無防備な背に刃を突き立てようとし――。

 瞬時に、飛び退く。その鼻先を掠め、弁慶の振り返りざまの肘打ちが空振っていた。

「さすが天狗の弟子ッ! 見事な軽業よ!」

「弁慶こそ、この動きを看破したッ!」

 互いの賞賛は息も切れ切れ。だが、両者は止まることなく次の動きに入っている。

 弁慶は右肩で担ぐように大太刀を振り被り、義経に迫る。左手は空けている。避けられても追撃を放てるように。

 それに対し、義経は地を蹴る。そして、真っ向から振り下ろされる太刀を受け止めた。

 火花が散り、鍔競り合う――弁慶の剛力を、義経はしっかりと受け止めていた。

 弁慶の剛力は十分な間合い、振り下ろす刃に力を込める距離があってこそ十全の力を発揮する。だから、その間合いを潰し、握り手に近い部分に刃をぶつければ。

 尋常な鍔迫り合いが、成り立つ。

 ここでの真っ向勝負に、弁慶は目を見開く。その隙を義経は逃さない。雪を吹き飛ばす勢いで地を蹴る。腿、腰、背筋、腕、手首――全ての筋肉を一瞬で連動。

 その一瞬は、確かに一瞬。

 されど、その一瞬に弁慶の膂力を義経は上回った。

 弾かれるように弁慶が後ずさる。そこで生み出された間合いの中で、義経は構える。

 振り抜いた太刀を上段に構え、低く腰を落とす。気迫が刀身に集中し、陽炎が立ち上る。

(必殺の構え――ッ!)

 弁慶は看破。だが、崩された体勢では、避けることができない。文字通り、必殺の状況。

 ならば、と弁慶はその場で足を踏み鳴らす。全身の筋肉を総動員し、自身の身体を制御する。弾き飛ばされたこの体勢――大太刀が、上段になっている体勢ならば。

(一撃――返すことができるわッ!)

 肚が決まった。その瞬間、弁慶の全身から気迫が溢れる。雪さえも融けろとばかりに吹き荒れる気迫のまま、満身の力を込め、弁慶は踏み込む。

 それだけで足元の橋は悲鳴を上げ、亀裂が一瞬にして橋桁にまで迸る。その勢いを殺さず弁慶は勢いよく太刀を構え直す。後先考えず、全ての筋肉に満身の力を込めて。

 腕が飛ぼうが、足がもげようが関係ない――この一瞬に、全てを込めるのだ。

 義経は応じるように太刀を構え、滑るように踏み出す。無駄のない動きで、弁慶に向かって力強く一歩。それを見据え、弁慶は地を砕くように踏みしめた。

 飛び込んでくる義経めがけ、満身の力で太刀を振るう。構えた太刀ごと、全て吹き飛ばす勢いを込め、斬撃が迸る。


 正真正銘、全力の一撃。


 それが、空を千切るほどの轟音と、地を消し飛ばす衝撃と共に放たれ――。


「絶技――」

 その澄んだ言葉が、耳朶を打った。衝撃が、肩口から鳩尾に駆け抜ける。弁慶は目を見開き、ゆっくりと後ろを振り返った。

 そこには、太刀を振り下ろしながら駆け抜けた、一人の青年の姿がある。

 残心。そしてゆっくりと彼は太刀を振りながら、弁慶を振り返って告げる。

「――疾風一刀」

 瞬間、焼けるような激痛が迸る。斬られた。それを理解すると共に、弁慶はその場で膝をついた。負けた、だというのに、何故か清々しい。

 傷口を抑えながら、弁慶は目の前の勝者を見上げる。

 義経は真っ直ぐに弁慶の元に歩くと、その喉元に刃を突きつけ。

 そして、手首を返し、ひらりと中空で持ち替え、彼は刃を摘まむようにして持った。

 すなわち、柄が弁慶に向けられている。

「――な……これは……?」

「くれてやる。欲しかったのだろう?」

 義経は尚も淡い笑顔を浮かべていた。呆けたように弁慶はそれを見返し、その柄をゆっくりと握る。瞬間、ぐらりと義経の身体が、傾いた。

「――え」

 どさり、と雪の中に伏す彼の身体。気が付けば、彼の立っていた場所の雪は、夥しいほどの血を吸い上げ、どす黒く染まっていた。

 その赤い血の中央で、彼は倒れ伏している。

 慌てて弁慶はその肩を掴んで身体を起こし――絶句した。

 その肩口から左脇腹に、深々と刻まれた太刀傷がある。周辺の肉がごっそりと消し飛ぶほど、凄まじい勢いで斬り払われた傷だ。

(まさか――これは、俺の一撃……?)

「俺の斬撃――捌いたんじゃ……?」

「あの剛剣……捌けるはず、ないだろ……受け止め、たんだよ……」

 義経は絞り出すような声で呟き、今も消え入りそうな笑みを浮かべた。

「絶技、疾風一刀――限りなく、自身の身体を加速させ……ぶつける天狗の技だよ……だが、いくら加速しようとも……そこにある刃を……避けることは、できない。だから――いくらかマシなところで……受け止めたつもりだったが……さすがに……痛ぇ……」

 弁慶は義経の言葉を反芻し――数秒後、目を大きく見開く。全てを、理解してしまった。

 あの交錯の一瞬、義経は弁慶の斬撃を防がずに、全力で弁慶の間合いに飛び込んだのだ。斬撃は円軌道であり、切っ先こそ一番その威力が出る。

 それに捉えられる前に、彼は全力で身を投じ、その円軌道の中心――すなわち、根本付近の刃、つまり一番、斬撃の鈍い部分に身を晒したのだ。

 結果的に全てを滅する斬撃を受け止め、即死のところを、致命傷で済ませた。

 そして、太刀を振り切り、無防備になった弁慶に向かって、勢いのまま斬撃を繰り出した。

(――なんて、無茶苦茶な……!?)

 だが、即死は避けたとはいえ……十分な致命傷だ。このままでは、死に至る。

 弁慶は慌てて僧衣を引き裂き、その布で傷口を抑える。殺し合ったはずの相手。それなのに、死なせたくない、と思ってしまった。

 義経はおかしそうに身を揺すり、小さく笑う。

「手当するのか? おかしいやつ」

「少し黙れ……血が流れ過ぎると、死ぬぞ」

 弁慶は僧衣で傷口を抑えこみながら、軽く舌打ちする。

 鬼の剛力で放たれた斬撃。不完全とはいえ、肉を消し飛ばし、骨を覗かせるほどの威力はある――真っ当な手段で手当てしても、助からない。

 だが、鬼の血を引く彼ならば。

「貴様、天狗の師がいるといったな――妖術の心得は、あるのか」

「少しは――だが、傷を塞ぐにも、力が足りない……」

「いや、十分だ。妖力に耐性があると分かればいい」

 そう言いながら弁慶は自分の手首を噛み切る。そして、滴り落ちる血を義経の傷に垂らす。

 その血が、義経の傷に触れた瞬間、何かが焼けるような、水の爆ぜる音が響いた。

「ぐっ……!?」

 苦悶に義経は顔を歪める。傷口を抉るような、痛みが走っているのだろう。

 だが、弁慶は血を流し続ける。そうしながら、片手では印を結び、真言を静かに唱えている。その内心では、苦笑いを湛えながら。

(不思議なものだ――寺ではあれだけ嫌っていた真言術を使う羽目になるとは)

 真言、それはこの世の全てを封じた言葉だ。これを操ることができれば、妖術に似た超常的な力を扱うことができる。僧兵は、それを頼りに戦い続けていた。

 弁慶はそれが不服で仕方がなかった。力があれば、何でもできる。真言など必要ない。そういって経典を足蹴にし、寺を追いだされた。そして、自分の力を試すかのように、方々でこの剛力を振るい続けていたのだが――。

 ちらり、と目の前で倒れる男を見る。小柄で端正な顔つきをした男。

 不思議な男だ。そう思いながら、真言を区切り、弁慶は義経に問いかける。

「……貴様、義経といったか」

「あ、ああ……」

「この命つなぎとめたのなら――頼みがある」

「私にできることなら……くっ……構わないが……」

「言うたな。よし」

 弁慶はにやりと口角を吊り上げると、血を傷に流し込み、そして真言を唱え直す。

 この男のためならば、全てを賭けられる。

 真っ直ぐにぶつかってきて、受け止めるように力を受け流し、命のやり取りをしているにも関わらず、楽しげに笑ってみせるこの男。

 この不退転の鬼に対し、何度も後ずさりさせた実力の男。

 全力を出した攻撃に、避けることなく全力で応じ、死にかけている男。

 そんな――義経だからこそ。

(俺は、この男に、全てを賭けたい――)

 その決意と共に、真言を締めくくる。瞬間、傷口に光が込められていく。徐々に義経の苦悶が引いていき、代わりに驚愕の色合いが表情に広がっていく。

 その顔つきを見ながら、弁慶はその傍に跪き――頭を静かに垂れた。

「義経様、俺を家臣にして下され。この武蔵坊弁慶、誠心誠意お仕え申し上げる」

 義経はそれを静かに見つめていたが、静かに笑みを浮かべる。涼しげな、端正な笑みで。

 仕方ないな、と小さく呟いて、彼はその言葉を受け入れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雪の五条、天狗と剣鬼相見える アレセイア @Aletheia5616

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説