第36話 おとなのお仕事
「ありがとうございました」
結局、遅めのランチを食べ終わる頃にやってきた常連のお兄様、お姉様につかまって、お酒なんて進められて、気がついたらスーパーは閉まっていた。まぁ、近所で一人呑みっていうのも『大人の休日』に入るかな?なんて滅茶苦茶な屁理屈をこねながらお散歩気分でのんびり歩く。とっくに暗くなった空には、いびつな月が浮かんでいる。徹と行った遊園地。帰りに見上げたのもこんな月だったなぁ。あの頃は、徹との再会にひたすら戸惑っていた。戸惑いながらも、徹が私を嫌っていなかったことが、嬉しかった。そう、嬉しかったんだよなぁ、私。
一年たってわかったことは、『どうしたいのか』じゃなくて『どう思ったか』。情けないけど、一年前はそれすらわからなかったってことだよね。『どうしたいのか』がわかる頃には私の周り、誰も居ないかも……。
「疲れたぁ」
ベッドに倒れ込もうとして、シーツを取り込んでいない事に気が付いた。夜風にさらされたシーツは可哀そうなくらいにしっとりとしている。一回乾いたんだろうに、もったいないことしたなぁ。洗い替えもなければ乾燥機もないので、とりあえずタオルケットを敷いて、夏掛けをだした。そろそろ夏掛けでもいいかと思っていたし、このまま変えちゃおう。
布団を夏掛けに変える事すら、自分の意志以外のきっかけがないとできない自分が情けない。だからこそ、どんな小さくてもきっかけを与えられたときは素直に従いたい。
『どうしたいのか』明確な関係はまだわからないけど、徹と話せて楽しかった。私と徹の距離が近づくことを喜んでくれる人がいる事が、嬉しい。この気持ちは、大事にしたい。
きっかけは、人からもらった。それを大切に、今度は自分で動く番。わかっては、いるんだけど。携帯は、一年前から変えていない。徹の番号もアドレスも、メールのやり取りすらも残っている。いつでも連絡できたのに、出来なかった。いや、しなかった。
「情けな……」
自嘲の笑いがこみあげるのに、情けなくなくなるための行動はできない。どうしてなんだろう。
「おはよ」
今週のお茶当番の愛衣が給湯室から戻ってきた。いつ来客があってもいいように、という名目でうちの部署のコーヒーメーカーは常に満たされている。来客なんて、急にあることはほぼないのに。
「おはよ、お茶当番なんて、来客来た時だけにしてほしいよね。結局部署内のお茶は全部私たちがいれるって、今時ないよね」
自分が当番なわけでもないのにブツブツと言い出せば、愛衣にまぁまぁ、となだめられた。
「自分の仕事がすごく忙しいわけでもないから平気だよ。私も飲むから、ついでついで」
「……えらいなぁ」
本当、こういうことを笑って言えるのって偉いと思う。私は怒りっぽいせいか、どうにも笑って流すことができない。
「えらくないよ、気にならないのは暇だから。由夏は忙しいから」
確かに、私が担当している業務は朝が一番忙しい。営業時間外に来ている問い合わせへの対応は必須。朝はメールチェックと対応で、十時を回る頃までは皆無言でパソコンに向かっている。そんな中、回ってくるお茶当番に毎度どれだけイラついてるか、のんびりとした管理職が気づくはずもない。
「自分の仕事に一生懸命になれるのは、素敵だと思うよ」
誉めてくれたんだろう愛衣の言葉が、胸に刺さった。入社してから去年まで、愛衣とは同じ部署だったのに、去年の人手不足から業務が別れ、人員を補充された後にも一緒になることはなくなった。私は比較的忙しい営業事務、愛衣は余裕のある一般事務。もちろん、適材適所というヤツだろう。せっかちな私は業務手早くをこなしていくのが好き。穏やかな愛衣は、周りをよく見れる。手早く業務をこなすよりもみんなのサポートをすることがうまい。それはとても大変な仕事なのに、自分の功績とはならないため会社からは評価されにくい。最近は、自分でも大した仕事じゃないと思い始めているようで、時折、自分を卑下するような言葉を耳にする。数字にはならなくても大切な仕事だということは、サポートしてもらっている人達もわかっている。でも、自分に自信がないときの慰め方を、私は知らない。私だったら、触れてほしくないだろうと思ってしまうから、なにも言えなくなる。
徹は、どんな気持ちで私を見ていたんだろう。
渡されたコーヒーを笑顔で受け取り、パソコンを起動する。気の利いた事言えなくてごめんね、の言葉すら出てこない。
週末にたまったメールの数は、尋常ではない。必死で読み解き、手配、返信をしていく。私がメールの処理にかかっているうちに、愛衣の仕事は営業のフォロー。資料作成のための資料を探すことから伝票の入力、整理。雑用みたいな仕事も含めて、複数の担当者から頼まれている事を丁寧に片付けていく姿は、尊敬なんだけどなぁ。
もっと自信を持ってくれたらいいのにと思う。
「人には、そういう事思うんだねぇ」
呆れたような千夏さんの声。まぁ、言われるかなとは思ったんだけど。
週末恒例の女子会。今夜は愛衣が学生時代の友人に会うとかで千夏さんと二人。どうする?と言われたときに、これ幸いと個室プランを予約した。まぁ、小さい居酒屋の個室だから、値段もお手頃な変わりに、部屋も小さい。話がある、のは察してくれた見たいだけど、どうやら徹とのことだと思ったらしい千夏さんは肩透かしを食らったようだったが、黙って私の話を聞いてくれて、最初の意見がこれ。
ううん、伝わらなかった?
「まぁいいや。でも、仕事の事はわからないかもなぁ、私営業だし。内容的には、由夏ちゃんが営業事務で、愛衣ちゃんが一般事務って感じ?」
「今は、そんな感じです」
そうか、千夏さん営業なんだ。似合うなぁ。
「うちの会社だと、営業が仕事を作る、作った仕事の直接の処理が営業事務だから、納期も仕事によって細かくあるし、担当ごとに営業の成績もつく。一般事務は社内の業務全体をちょっとずつだから無理な納期も残業もない代わりに雑用全般も引き受ける。ちょっとお給料も少なめ。一緒?」
「はい」
相変わらず、歯に衣着せぬ物言いです。聞いていて気持ちがいいくらい。
「一般事務のありがたみは、営業ならわかってると思うんだけど……」
そうなんです。資料作成のための資料を探すには、幅広い知識が必要だし、お茶当番だって、本当は女子社員が嫌な顔せずに入れた方がいいに決まっている。ちょっとずつ色々な仕事を手伝うから、出来る範囲は私よりも広い。でも仰る通り、お給料は少ない。基本給は一緒だけど、残業がないので今は私と3万ぐらい違うはず。
「まぁ、年配の人は一般事務なんて誰がやっても一緒だ、なんて思っている人もいるからね。誰でも出来るんだから、若い子がいいなんて言う人もいるし」
そう!まさにそれです! どれだけ愛衣が努力をしても『誰でもできる簡単な仕事』をしている女子社員って思っている人がいる。お給料よりも、成績よりも、努力を努力と思っていない人がいるのが、悔しい。私は悔しいけど、愛衣はきっと自分の価値を見誤る。自分は『誰でもできる簡単な仕事』をしていると思っている。
「まぁ、仕事って人からの評価だからねぇ。由夏ちゃんが評価しても、仲が良い分信用できないというか……」
ぐぅ。
私が愛衣の仕事に対する姿勢をどれだけ褒めても、空々しいのはわかっている。だから、最近はフォローをする事すらなかなかできずにいる。
「とっても貴重な仕事ではあるから、いないと困るんだけどね。やっぱり出来る人がやれば、こっちもやり易いし。由夏ちゃんは、愛衣ちゃんの仕事でやり易いって感じる?」
「はい」
仲が良いから、だけじゃない。愛衣は仕事が丁寧だし、一度頼んだ仕事は、次は納期が近くなってくると手伝わなくてもいいか、聞いてくれる。整理整頓が上手いこともあって、資料を探し出すことも私よりもずっと早いし、たどたどしい説明をしてもきちんと理解して希望通りの物を探し出してくれる。仕事が遅い、と本人は言っているがその分ミスがないし、色々なところに機転を利かせてくれる。
「仕事ができるのに自己評価は低い、かぁ。由夏ちゃんと愛衣ちゃん、タイプが違うと思っていたけど、やっぱり似てるねぇ」
そうですか。どこが似ているかは、今は突っ込まないでおこう。
「どうしたら、いいと思います?」
「自信を持てずに自分を卑下するような仕事なら、辞めちゃうとか?」
「……ダメです」
「いないと、困る?」
「それもあります。でも、やりたい仕事があって辞めるなら仕方ないとしても、今のまま辞めるのはよくないと思います。たとえ武人さんが面倒みるって言っても、それは愛衣の為にならない、気がします。私は、愛衣にちゃんと自信を持ってほしい」
机の上に拳を作った私に、千夏さんは盛大に笑い始めた。ちょっと、今、笑う所ありました?
「ごめんごめん、いや、本当に人の事だとそんな風に思えるんだなぁって」
つっこまない、触れない、私は千夏さんの言っている意味は分かりません。
ひとしきり笑った後に千夏さんから出てきた言葉は、さらに意外だった。
「まぁ武人だって、今の愛衣ちゃんが仕事辞めても面倒見ないよ」
「は?」
いや、嘘でしょう?あんなに愛衣に優しくて、こう言ったら失礼だけど、愛衣を養えるぐらいの収入はあるはず。
「本当は、専業主婦は大歓迎なヤツなんだけどね」
私の顔は随分と正直だったらしく、珍しく千夏さんが苦笑している。
「武人も、由夏ちゃんと同じ。ちゃんと働いているんだから卑下する必要なんかないと思っている。数字としての評価がなくたって一緒に働いている人からの評価はあるはず。それが、数字にならないことが納得いかない、ちゃんと評価されたいっていうならいったん辞めて違う仕事をするのを応援すると思うけど、今の愛衣ちゃんはただただ自分を卑下している。それは、環境を変えたからって簡単に変わるものじゃない」
「自信を持てずに逃げてきても、面倒は見ない?」
随分とキツイ言い方だったと思う。でも、初めて武人さんを冷たいと感じた。
「まぁ、そうなるかな。お互い大人なんだからねぇ。守られることだけを考えるような女は、私も嫌いだな」
「……」
言葉が、出てこない。愛衣が武人さんの所に逃げる様なコじゃないのはよく知っている。たとえ仕事を辞めたとしても、何か新しい仕事を探して、自分の足で立つだろう。『守られることだけ』を考えるような女では、決してない。ありえない事で怒るのは、失礼なことかもしれない。それでも、千夏さんの言葉は胸に刺さって中々抜けなかった。
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