第35話 謝罪
「引越しとかは、してねぇんだな」
私の住むマンションを眺めて、独り言のように呟く。引越し?なぜ?
「まぁ由夏は、男と別れたぐらいで引越したりはしねぇよな」
なんとなく、呆れを含んだ乾いた笑い。なんだ?失恋したから引越し?思い出が残っているから、ってことかな?
「残念だけど、そんなことで引越しするようなお金はないの。引越しするよりも、ヨガとか日帰り旅行とかでお金使ってるから」
徹みたいに稼いでないの、と続けようとして慌てて言葉を飲み込んだ。それは、さすがにダメだよね。
「だから、変な葉書なんて届くんだよ」
ん? 葉書?
武人さん、喋ったな……。
「変じゃないよ、幸せ報告。武人さん、言ってたでしょう?」
あれを幸せ報告なんて言ってくれる人は、武人さんぐらいであろうことは百も承知で笑って見せる。彼を悪くは言うことは、付き合ってきた3年間のことも悪く言うことだと思うから。私は、ちゃんと彼を好きだったし、楽しかった。
「お前がそう思うなら、それでいいさ」
溜息をつきながら、ヨガグッズを私に手渡した。笑って流せるような言葉をくれた武人さん。苛立ちを見せる徹。私が求めている『優しい人』はどっちなんだろう。
私にとって、徹の立ち位置はどこなんだろう。
徹と離れた一年、考えてこなかったわけじゃない。それでも、二度も離してしまった手を自分から取る事はできない、なんて漠然と思っていた。本当は、昔みたいに何も考えずに一緒に笑っていたかった。
妥協と勢い。この手を取るには、まだ足りない。
「かき回して、悪かったな」
住宅街の静かな夜に、徹の低い声が響く。謝った?徹が私に?
あっけにとられて固まる私に、徹は気まずそうに再度溜息を落とした。
「悪かったよ」
「いや、全然。っていうか、確かにきっかけはそうだけど、徹のせいで別れたわけじゃないよ。もう、駄目だったんだよ。あのままダラダラ付き合ってても、どっちも楽しくなかったと思う。最初は、ちょっと辛かったけど今は大丈夫。むしろ感謝してるよ」
そう。彼氏がいるのに週末が楽しみにならない。会えなくても平気。そんなの、楽しくない。むしろ今の方が、週末が楽しみで毎日に張りもある。
駄目になっているのに、一人になるのも嫌でしがみついていた情けない女。それがわかって、まずは一人になった。あの時私が決められたのは、徹のおかげ。ああ、それがかき回すってことか。
頭の中で、『いや』とか『でも』とかがグルグル回る。ああ、一年たっても進歩ないなぁ。
「送ってくれてありがとう。おやすみ」
「ああ」
相変わらずの情けなさで、とりあえず逃げた。私がマンションに入るのを見届けて帰っていった徹。一年前のように上がり込まないのは、罪悪感から?この一年、徹も罪悪感をもっていたんだろうか。
シャワーを浴びてベッドに入ったけど、疲れているのに、お酒も入っているのに全然眠くならない。
彼と別れたきっかけを作った徹。そのあとの私の凹みっぷりはたいそうなもので、体調不良まで引き起こし、復活まではえらく時間がかかった。
私にとっては前向きになれたきっかけで、一人でいることを楽しんつもりだった。が、側で見ていた愛衣には自暴自棄になっているように見えていたらしく、心底心配をかけた。それを、武人さん経由で聞いていただろう徹。
そりゃぁ、罪悪感も持つよねぇ。
ごめんね。
いつの間に眠っていたのか、陽の光で目が覚めた。ベッドまで光が来るってことは、すでに正午を回っている?慌てて時計をみると、かろうじて午前中。ああ、今日は洗濯して掃除して買い物して、ゆったりした大人の休日を過ごそうと思ったのに……。
飛び起きて、とりあえずシーツをはがして洗濯機を回す。これ、今日中に乾くかな?
パジャマのままでバタバタと家の中を歩き回る姿は、とても『大人の休日』ではない。う~ん、いつまでたっても、だなぁ。
自立して、一人で立って、本当は自分で徹の側まで行きたいと思っていた。年齢だけは大人で、一人暮らしもしているけれど、目指す『大人』にはなれずにいる。
妥協と勢い。それを繰り返したら、大人になれるのかなぁ。
洗濯、掃除をとりあえず終わらせて、買い物とランチに。ランチの時間なんてとっくに過ぎているからお店も空いているだろう。軽く化粧をして服を着替えて、遅めのランチ。うん、ちょっと大人の休日に近付いている?
「いらっしゃい。今日は遅いね、寝坊?」
先月オープンした近所の喫茶店。若い子の多いカフェとは違って、煮物とか甘酢漬けとかが多いのに、メインはマスターの焼くピザと、こだわりの豆で入れるコーヒー。手書きのチラシがメールボックスに入っていたときには『?』が浮かび、好奇心から入ってみたらはまってしまって、ほぼ毎週ランチはここ。マスターも奥さんも気さくで、週末の楽しみになっている。でも、開口一番寝坊って……。大人な休日、完全敗退です。
「……一応、昼前には起きました」
自然と小さくなる声と丸くなる背中に、マスターの豪快な笑い声がかぶさる。ああ、奥さんまで背中むけて笑ってるし。いいんですよ、正面むいて笑ってくださっても。
若干不貞腐れてカウンターに座れば、マスターがサンドウィッチを作り始めた。いや、私まだ注文していません。
「ごめんね、今ピザ生地切れているの。ご飯もないし、できるのサンドウィッチぐらいなのよ、ピザ生地できるか、ご飯炊けるの待つ?」
日曜の午後、昼過ぎにというには遅く、夕方というには早いこの時間、そんなものか。まぁ、生鮮品が有り余っているお店よりはいいよね。
「お腹空いているので待てないです。コーヒーは、ありますよね?」
「それは大丈夫」
ニコニコとしながら奥さんがコーヒーを入れ始めた。コーヒーは、入れる人によって味が違うと、ここに来て知った。同じ豆なのに、マスターの入れるコーヒーは、苦い。ではなく大人の味。奥さんの入れるコーヒーは、少し軽くて飲みやすい。どっちがいい?と聞かれて迷わず奥さんにお願いして以来、私が来ると必ず奥さんがコーヒーを入れてくれる。
フワフワと香るコーヒーの香りに癒されて、ああ、今幸せだなぁ、と思う。昨日みたいに皆でワイワイ呑むのも楽しいけど、休日に思いっきり寝坊して、ご飯食べれるお店があってって、すごく幸せだと思う。
「なにかいいことあったの?」
奥さん、鋭い。ってか、私がわかりやすいのか?
「コーヒーの香りに癒されてました」
「そう?入ってきたときからいつもと表情違ったわよ?」
ニコニコとしながらコーヒーカップをカウンターに置いた奥さんは、好奇心というよりは私に『いいこと』があったことを素直に喜んでくれてる。
「『いいこと』っていうか……」
一年ぶりに幼なじみと話しました。相変わらずの私のダメっぷりに反省したり、まぁいいか、と思えるようになったり。気持ちが、すこし成長したような気がしたんです。
コーヒーのいい香りと奥さんの優しい笑顔にすっかり気が緩んだ私は、いつもよりもずっとお喋りになっていた。まぁ、一年前の話はだいぶ端折ってごまかしたけど。
「楽しそうねぇ」
本当に嬉しそうにそう言ってくれる。いつもこう。奥さんもマスターも心地よく私に話をさせてくれて、私が一喜一憂している姿に共感してくれる。私の憧れる、大人な女性。
「今度、この店にも連れてきてよ。素敵な幼なじみ」
「え?いや、今は家が近いわけじゃないので……」
「でも、昨夜は送ってくれたんでしょう?終電も近かったのに。それならそんなに遠くないんだから、今度、ね?」
「……はぁ、機会があれば」
私の周り、強引な人しかいないかもしれない。機会があれば、で引いてくれたしまぁいいか。
機会があれば、徹とここに来る事、あるのかなぁ。
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