第32話 ひとりで、前へ

「で、お前それでいいのか? 」


 いや、いいのか、と言われましても……。

 突然、大量のアルコールと共に襲撃してきた徹サマ。勧められるまま、アルコールに口をつけるが、一週間で2キロも減った私の身体は、うまくアルコールを分解できない。1本開ける前にすでに頭がフワフワし始めて、程よい相槌に促されるまま、若干の八つ当たりもこめて彼との別れをすっかり話していた。そして、話しているうちに、少しずつ自分の気持ちが見えてきた。


 徹との時間は華やかで、フワフワとしていて、地味な私には縁のなかった世界。きっと、浮かれていたんだろうな。わきまえていたはずの私が、初めて分不相応な浮ついた心を持った。結果は、最悪だったけど、とても素敵な時間だった。


 だから、失ったものは、仕方ない。

 次は気を付ける!

 自分で失くしたくせにジタバタしても仕方がない。



「よくは、ないんだけどさぁ。でも、どうしていいのかわからないんだよね。もう会えないこととか、別れちゃったことは、悲しいし、彼には申し訳ない気持ちで一杯なんだけど。でも、戻りたいのかって言われると、そうじゃない気がする。この気持ちのままで、会いたいとか、話したいとか、どうしても思えない。ただ、やっぱり寂しいけど」


 卑屈で地味な私と同じ感覚を持っていた彼。あんなに穏やかな時間を過ごせる人は、もういないだろう。その人を、傷つけた。絶対にしてはいけない、されたくないと思っていたことを、彼にした。


 今の私は、彼の決めた事に従うしかない。あんなコトナカレ主義の彼が、別れると決めたんだからもう戻れないことも、彼の気持ちが私の元に戻らないこともわかっている。


 ただ、わかっているからって割り切れるほど、私は強くない。誰かに愚痴って、眠れない日を繰り返して、少しずつ、心が落ち着くのを待つしかないんだろう。 


「そうか」


 新しい缶を開ける音。喉を鳴らして流し込むのが伝わる。それから、私たちは一言もしゃべらなかった。


「ちゃんと眠れよ」


 帰り際、そう言って渡してくれたのは、様々な香りの入浴剤。ラベンダーだの、バニラだの、癒し効果のありそうなもの。そうか、こういうの使うのもアリだよね。


「ありがとう」


 素直に受け取ると、心配そうな顔が目の前に迫る。

 幼馴染だった徹。頼りになって、正しくて、厳しくて、誰よりも優しい。

 その人に、オンナとして好意を持ってもらったのは、とても光栄なこと。

 だけど、ここで甘えるわけにはいかない。この寂しさは、私が一人で耐えなくちゃいけないものだと思う……。


 大丈夫、と言えない代わりに笑いながら、シッシッと手を振って見せた。

 穏やかに閉まるドアの音が、すこし寂しい。


 徹とは、連絡を取ることはなくなった。

 少し寂しいけど、私のいつもの時間が戻ってきた。



 愚痴をこぼす時間も惜しいぐらいに仕事に追われているうちに季節は移り、街が紅く染まり始めた。紅くなった街に癒されて、少しずつ、溜息の数も彼を思い出す事も減ってきた。




「すっかり寒くなったねぇ」


 久しぶりの定時退社を勝ち取った週末。愛衣に付き合ってもらって、新しいコートを買いに来た。駅ビルには学生からOLまで、たくさんの女性達。一週間ため込んだ疲れを吐き出すかのように笑っている。明日は休み、そう思うだけで今日の疲れなんてなかったことになってしまうんだから、女って元気だよなぁ。華やかに笑う女性達の中に混ざり、店内にかかるコートを一つ一つ手に取って、合わせていく。


「徹さんの功績は、偉大だよねぇ」


 私が手に取ったコートを見て愛衣が笑う。まぁ、確かに……。

 去年までのコートは、ダークグレーのフード付き。ファーのついていないのをわざわざ探したんだ。その前は、たしか黒。それは、ファーどころか襟もない。ちょっと珍しいノーカラーのコートだった。出不精の上に寒がりの私は、冬に好んで寒いところに行くことはないので、 通勤用もプライベートも同じコート、一枚しかもっていなかった。


 それが、今日手に取ったのは柔らかい印象のベージュ。襟にも袖にもたっぷりのラクーンファー。こんなデザインを選ぶようになったのは、たしかに徹の功績、だよねぇ。


「買い物の楽しさに、目覚めたって感じかな?」


 正直これまでは、華やかな女子がいる場所自体少し苦手だった。洋服は近所にある大型スーパーで揃えていたのに、今は地下街だの駅ビルだのがすっかりお気に入り。いや、大型スーパーも悪くないのよ?しょっちゅうセールやってるし、テナントはちゃんと可愛らしい服もあるし。

 でも、やっぱり周りの華やかさは、違うよねぇ。この華やかさに触れるとすこし元気になる、気がする。



「徹さんとは、連絡とらないの?」


 少し心配そうな、愛衣の声。ごまかしのない気持ちからは、上手く逃げることができない。


「……ごめんね」


 正樹さんからは、何度も誘われている。武人さんとは、ランチでお世話になって以来、一度も会っていない。

『歓迎する』と言ってくれていたのに。

 行きたい、と思うのにどうしても私の首は縦には動いてくれない。


「謝る事じゃないよ」


 柔らかく笑って、それ以上は触れてこない愛衣。私、今の会社に入ってよかった、と素直に思える。


 まだ、気持ちの整理がつかない。

 私は、どうしたいんだろう。わからないのか、わかろうとしないのか、それすら考えられない。


「千夏さんには、会いたいなぁ。今度、千夏さんも暇なとき3人で遊ぼう?」


 元気な彼女と会ったら、この気持ちも少し吹っ切れる様な気がする。嬉しそうにうなずいて、早速連絡を取ってくれる愛衣。いや、ちょっと、そんないきなりじゃなくても。


 慌てて止めようとする私に、苦笑しながらスマホを見せてきた。


『今どこにいるの? 仕事終わったところだから、ご飯付き合って~』


 ……千夏さんらしい。軽く笑って、近くの居酒屋で千夏さんを待つ。


「由夏ちゃん、久しぶり!」


 今まで仕事だったなんて思えないぐらい元気な千夏さんが、力いっぱい抱き着いてきた。懐かしくて嬉しい。


「元気そうでよかった。あ、ビールお願いしまぁす」


 気にしててくれたんだぁ、なんて感動を噛みしめる間もなく、乾杯、とジョッキが迫ってきた。慌てて飲みかけのジョッキを合わせたけど、私が空にする前に、千夏さんは次のビールを頼んでいた。さすがというか、なんというか……。


「彼と、別れたんだって? 徹のせい?」


 直球は、さすが正樹さんの彼女さん。


「違います。なんでか、駄目だったんです」


 そう、さすがにもうわかる。徹が、とかじゃない。私の気持ちも彼の気持ちも、もう駄目だった。そこに、徹がいただけ。いい加減に、八つ当たりはやめなくちゃ、ね。


「そうかぁ」


 それだけ言って、カパカパとビールをあける千夏さんは、相変わらず美人でカッコイイ女性。よく笑い、よく喋るけど、徹の話も正樹さんの話も一度も出なかった。


「また呑もうね」


 別れ際、少し顔を赤くした千夏さんは、そういって笑った。千夏さんと会えたこと、単純に嬉しくてしかたがなかった私はなにも考えずに大きくうなずいていた。


 まさか、毎週の恒例行事になるとは……。





「由夏ちゃん、愛衣ちゃん、懐かしい顔ぶれからのお誘いだけど、行かない?」


 嬉しそうな顔をした千夏さんが携帯を見せてきた。


『いつものメンバーで、千夏の好きなイタリアンに来てるよ。来ない?』


 正樹さん。いつものメンバーって……。

 千夏さん、あれ以来私の前で徹の話も、正樹さんの話すら出さなかったのに。そろそろ気を使ってくれる期間は終わりってことなのかな?


 チラッと愛衣を見ると、困ったように私を見ている。そうか、愛衣も最近武人さんと会っていないんだっけ?


「愛衣ちゃん、武人と喧嘩でもしたの?」


 気になってたんだよね、と首をかしげる千夏さん。うん、私も聞きたかった。でも、聞けなかった。さすが、千夏さんだ。


「喧嘩?してないですよ、武人さんは、私と喧嘩なんてしない」


 少し寂しそうに首を振る。まぁ、武人さんが愛衣に声を荒げて喧嘩するとか、想像つかないよね。女性全般に優しい武人さん、愛衣のしたいことを常に優先し、受け入れてくれるする姿に不安になったとか。


 わかるような、気もする。そう思っていれば千夏さんがクスクスと笑いだした。


「武人相手じゃ大変だよね。子供から老人まで女には優しい人だから。でも、自分から追いかけるのは、本気の相手だけだよ?愛衣ちゃんには、過去ないぐらい本気みたいだよ。一歩引いて見ている正樹の情報、信用して」


「……」


「行こ?」


返事も待たずに席を立つ千夏さんに、二人で慌ててついて行く。うん。当人ではわからないことかもしれないけど、武人さんの愛衣への気持ちは本物だと思う。一歩引いて見るって、大事だなぁ、と改めて思う。



「お久しぶり、です」


 ちょっと気まずい『いつものメンバー』。みんな相変わらずで、何も知らないような顔で、接してくれる。徹も、前と変わらない。相変わらずの兄貴振りで、私の食べられそうなものをさりげなく近くに引きよせてくれる。武人さんは私や千夏さんへの気遣いもすごくて、これは、愛衣の気持ちもわかる。


「千夏は俺が面倒みるし、由夏ちゃんは、徹でしょ?自分のだけにしてくれる?」


 笑顔の正樹さんから、鋭いナイフが飛んだ。言われた武人さんは、素直に『はい』と言ってるし、愛衣は真っ赤だし。ああ、『いつものメンバー』やっぱり楽しい。


 呑んで、笑って、あっという間に終電間際。皆まだまだ呑むんだろうな、と思いながら先に帰ろうとすると、徹も一緒に立ちあがった。


「今日は帰る。お前らゆっくり呑んでろ」


 二人分の金額を武人さんに渡して、行くぞ、と私の背中を押す。私は、挨拶もそこそこに店から連れ出された。チラっと振り返った時の、正樹さんの笑顔が胸に突き刺さる。


「徹、よかったの?」


「あ? ああ、別に今日だけじゃねぇからなぁ。また今度ゆっくり呑むさ。今日は、お前を送って帰る」


 送る、と言ったくせにスタスタと先を行く背中。私がついて行かなくても、気付かないんじゃないだろうか? 試しに立ち止まってみたら、何してるんだ、と振り返られた。徹、背中にも目がついている?


 小さな頃から、見慣れた背中。私が逃げまわっている間に、大きくなった背中。


 『結果は問わないから、答えてあげて』千夏さんから言われた言葉、ずっと、考えていた。

 彼への罪悪感とか、自己嫌悪とか、全部を振り払った状態で、向き合った自分の気持ち。    




「家まで送ってくれなくても、いい」


「あ?」


 前を歩いていた背中が、ゆっくりと振り返った。

 心臓が、うるさい。口の中が、渇く。それでも、言わなくちゃ、ちゃんと、伝えなくちゃ。先を続けられない私に、黙って待っていてくれる。ああ、そうだ。徹はいつも私の答えを待ってくれていた。そう思ったら、やっと言葉が出てきた。


「タクシー使うから、一人で大丈夫」


「あ?」


「一人で、帰れる」


「……」


 困惑している徹の顔。でも、きっと最後まで聞いてくれる。


「徹の気持ちは、すごく嬉しかった」


 熱を帯びた瞳が、真直ぐに私を見る。やっぱり、綺麗な顔している。その顔を見ると、とたんに自信が無くなる。


「私なんかじゃ、徹には、つりあわない」


 徹のように、真直ぐに見つめることはできない。うつむいたままでしか告げられない、私の望み。


「千夏さんみたいに、なりたい。自信をもって、徹の横に立てるように。今日みたいに、急に徹の友達と会っても、笑って話せるようになりたい。徹の後ろに、隠れたくない」



 何度も何度も考えた。

 遠距離になったら会えなくなったのに、寂しいよりもホッとした。そんな彼氏と別れなかったのは、一人になるのが寂しかったから。

 理不尽なことを言われたのに、怒ることもできずに徹から離れたのは、自分が徹と釣り合っていないことがわかっていたから。

 徹の気持ちに答えられなかったのは、自分に自信がないから。


 私は、一人で立っていない。


「明日は、掃除して洗濯して、一人でゆっくり過ごすから、そろそろ帰る」


「……」


「また、ね。また、皆で呑むとき誘って。その時は、行くから」


「ああ」


 タクシーに乗り込むまで見届けてくれた徹は、納得しているのか呆れているのか、普段以上に無表情。

 いつか一人で立てるようになったら、自信をもって並べるようになったら。

 その時は、どんな形でもいいから、徹の隣にいたい。

 一人で立って、徹の側まで、歩いていきたい。

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