第31話 終わりはあっけなく

 店を出て、歩いて、電車に乗って。

 家に着くまでの間、お互い一言も話せなかった。冷たく重い空気が二人の間にまとわりつく。


「帰る」


 聞いたことのないような低い声でそれだけを告げると、いつの間にかまとめられていた荷物を手に彼が背を向けた。

 「こんな時間に、行くところあるの?」とか「ちゃんと話し合おう」とか、言わなきゃいけない言葉はきっとたくさんあったのに、何一つ言葉にはならず、ドアが閉まるのをただ見つめていた。もう、これっきりなのかな。突然すぎて、まるで実感がわかない。


 彼はいつから知っていたんだろう。

 どんな気持ちで、一緒に暮らそうと言ってくれたんだろう。


 私は、彼を裏切ったんだろうか。


 彼のいなくなった部屋。置きっぱなしになっている彼の荷物を見ていると無性に泣きたくなってきた。でも、どうして泣きたいのかがわからない。

 彼を傷つけた事への罪悪感なのか、一人になったことが寂しいのか、彼を失いたくないと思っているのか。

 そもそも、私は泣くほど彼の事を好きだったんだろうか。


 自分の気持ちがわからないのに、涙は瞳にたまり、ジワリジワリと溢れだした。私の恋は、終わったんだろうか。彼とは、もう会えないんだろうか。




「俺の荷物、処分していいから」


 灰色の空気をまとって仕事をしていた月曜日、彼からメールが届いた。『荷物の処分』ってことは、もう私の家に来るつもりはないって、ことだよね。『別れよう』とは言わずに終わる。中途半端な、最後のメール。


 色々あったのに、これで終わりかぁ。


「わかった。私のも、捨てて」


 散々迷って、私の送ったメールも同じようなもの。『別れよう』とか、『傷つけてごめん』とか、きちんと終わらせる為の言葉はどうしても送れなかった。こういう所、私たちは似ている。


 だからこそ、長く続いたんだろうなぁ。


 付き合い始めたころから、あんまり彼氏彼女って感じではなかった。イベントも好きじゃないからあんまり盛り上がらなかったし、会えない日が続いても割と平気で、仕事ならしょうがないよね、って普通に言えたし言ってもらった。いつもいつもマイペースで、勝手なヤツって思うことも多かったけど浮気とか疑ったこともないし、こんな風に別れるなんて考えたこともなかった。


 私が、終わらせた。

 何やっているんだろう、私。




「休憩行ってきます」


 ランチタイムは完全に逃して、やっとで入ったお昼休み。それぞれ自分のタイミングでお昼に入るから、一緒に食べる人なんていない。ああ、早く人が増えればいいのに。そうしたら、愛衣と一緒に公園にランチに行って、帰りには居酒屋に行って、このモヤモヤした気持ちをたくさん聞いてもらえるのに。


 誰かに、聞いてほしい。


「由夏ちゃん?」


 定食屋の暖簾をくぐれば、聞き覚えのある声。窓際のテーブル席に柔らかい笑顔があった。


「武人さん?」


 いつもなら、ホッとする人だけど……。

 にこにこしながら手招きをする武人さんを無下にもできずに、大人しく武人さんの前に座った。


「お久しぶりです」


「うん、久しぶり。忙しそうだね」


 何食べる? とメニューを開いてくれる。ううん、優しいなぁ。


「この時間じゃお腹空いてるでしょ?ここ、生姜焼き旨いよ」


 よく来るから、しってます。でも、重たい物はちょっと食べられないんです。

 最近の定番になっている、冷やしたぬきうどん。一瞬、視線を感じたけど気づかなかったことにしよう。


「あんまり、元気そうじゃないね。ちゃんと眠れてる?」


 運ばれてきたうどんを、半分も食べられずに箸をおいた私を、心配そうにのぞき込む。やっぱり、いい人だよなぁ。


「眠れてますよ。ランチの時間からずれちゃったから、お腹空きすぎてあんまり食べられないんですよ」


 精一杯元気に笑って見せれば、武人さんは眉間に皺をよせながらも口元だけはフワリと笑っている。


「まぁ、あんまり遅いと食べられなくなるよな。仕事しながらちょっと何かお腹に入れるといいよ。お菓子とか、野菜ジュースなんかでもいいからさ」


「……そうですよね。気を付けてみます」


「これなら飲める?」


 そう言って、自分の定食についてきた味噌汁を差し出してくれた。心配そうな顔に、申し訳なさが募る。


「ありがとうございます」


 ずるずると音を立てて飲み干した私に、少し安心したようにニコニコとしている。ああ、いい人だぁ。


「愛衣と、連絡とってます?」


「ん? まぁ、ねぇ。千夏ちゃんが来るとき、一緒にうちに来たりしてるよ。最近は料理教室閉鎖して、ひたすら俺が作ったのを皆で食べて、昼から呑んでる。良かったら由夏ちゃんもおいでよ。歓迎するから」


 ああ、まだやってたんだ。

 楽しそうだな……。


「そう、ですね。そのうち、お邪魔したいです。その時は、よろしくお願いしますね」


「待ってるから、おいでね」


 ニコニコと笑いながら、私の分の伝票までもって席を立って行った。いいです、と立ち上がりかけた所で、一瞬目の前が真っ暗になる。手足の先が、冷たい。


「ゆっくり座って。大丈夫だから」


 耳元に響く落ち着いた声。私の腕を掴む手が暖かかくて安心する。その腕に促されて元の位置に座り、背もたれに身体を預けているとガタガタと何かを動かす音がした。目の前はまだ暗く、不安なはずなのに、武人さんがいることですごく安心する。


「身体倒せる?」


 促されながら、素直に横になる。椅子をいくつかつなげてくれたんだ。横になった事で、少し目の前が明るくなってきた。



「寝不足と、栄養失調からくる貧血ってとこかな?」


「すみません」


 なんで、寝不足までわかるんだろう。

 いつも笑っている武人さんの眉間によった皺に、再度、申し訳なさが募る。いつの間に頼んだのか、テーブルには湯気の立つホットミルクが置かれていた。


「仕事、早退とかは難しいのかな?」


「難しい、ですね。今ちょっと忙しくって」 


 休憩前にある程度は片付けたから、出来なくはないけど、早退したからってよくなる気はしない。

 何よりも、今は出来るだけ一人になりたくない。

 日ごと夜ごと、体調が悪くなっていっているのは自分でもよく分かっている。考えたって仕方のないことはよく分かっているのに、最後の低い声が耳から離れない。どんな気持ちで、私と会っていたんだろう。彼に、どういったらよかったんだろう。


 本当は、もっと、たくさん会いたかった。たくさん、言いたいこともあった。

 ホットミルクの甘さと暖かさに、目の前が少し滲んでくる。


「すみません、武人さんも仕事中ですよね。もう大丈夫なので、戻ってください。私も、これいただいたら会社に戻らなくちゃ」


「……うん、じゃぁ、気を付けて」


 泣き出しそうな時に優しい言葉をかけられるのは、苦手な私。察してくれたらしい武人さんは、心配そうな顔をしながら席を立ってくれた。私の希望を優先させてくれる優しさ。


 彼なら、どうしたかなぁ。

 頭のネジが3,4本抜け落ちてたヤツだから、きっと空気を読んでくれるなんてことはないだろうな。オロオロしながら、気づかないふりして、でもやっぱり気にして、チラチラ見ながら我慢できなくなって『どうかした?』とか聞いちゃうんだろうな。


 ああ、やばい。本気で泣きそう。



「お疲れ様でしたぁ」


 よし、私、頑張った。息を止めて、拳を握って、涙は堪えた。社会人として、プライベートなことで泣き出すなんてことは絶対ダメだよね。家に帰ってから、ちゃんと泣けばいいのかもしれないけど、なぜだか家に帰ると涙も出ない。気が緩みすぎなのかな。その代りなのか、彼が帰ってから全くと言っていいほど食欲がない。食べなくちゃ、仕事に行かなくちゃ、と思うから少しでも食べようと思うけど、それでもコンビニのサンドイッチが限界。おにぎりとかの米は全く食べられなくなった。


 自分がこんなに彼に依存していたなんて、知らなかった。3年間の恋は、それなりに私の中で大きくなっていたんだ、なんて今さらながら思い知る日々。




「由夏?」


 土曜日の昼前、起き上がる事もなくダラダラと一日過ごそうと思っていた私に、容赦ないインターホンが襲ってきた。抵抗もできずに不機嫌全開で出れば、徹の声。ああ、失敗した。少し考えれば分かるじゃない。こんな勢いでインターホン鳴らす奴なんて、営業なわけないし、私の友達なわけないし、彼なら、もっと、ない。


「なに?」


 八つ当たりなのは百も承知。それでも、私の悩みの半分はこいつが原因だと思わずにはいられない。徹が現れなければ、私は平穏でいられた。あの日、合コンなんていかなければ、私は彼を傷つけることもなかった。

 それが、私の決断なのは、わかっているのだけど。


「開けろ」


 ああ、ハイハイ。徹様。私の話も、聞いてくださいね。


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