第30話 彼の気持ち
「由夏、久しぶり。元気だった?」
「元気だよ。しょっちゅう電話で話していたじゃん」
金曜日の夜、最終の飛行機でやってきた彼氏は、迎えに行った私に嬉しそうに話しかける。ああ、遠距離になってすぐはこうだったなぁ。いつの間にか、会えない週末が当たり前になって、お互いの忙しさがわからないからって連絡も減って、ぶつかるのが嫌で本音を言わなくなり、一人の空間を居心地がいいと感じる頃には、隣に彼がいないことに慣れていった
あの頃は、彼を本当に失くす勇気もなかったのに。
じゃぁ、今は?
自分の頭に浮かんだ思考を慌てて押し出す。
「あの、さ。前に俺の家から帰るときにいった事、考えてくれた?」
ぐぅ……。
考えた、気もします。なんて言い訳、通じるかなぁ。
「本当に、仕事が嫌なわけじゃないの。仲のいい友達もいて、社内もいい人ばかり。だから、まだ全部捨てては、行けないかな」
理由をつけてごまかしているのは自分でもよく分かる。それでも、今はこれ以上の言葉は出てこない。この人と一緒に暮らす未来を、考えなかったわけじゃない。それでも、今行ったなら、それはただの逃げだ。
「そう」
静かに、穏やかに笑う顔は少し寂しそうで、ホッとしているようにも見える。
きっと、一緒に穏やかに年を重ねていける人。緩やかに、穏やかに、私の望んだ私でいられるだろう。
でも、それは、仕事にも友達にもケリをつけて、先に進むことを選んだ私が得られるもの……。
土曜日の朝、映画を見に行こうと言われて着替えれば彼がぽかんと私を見ていた。
「なんか、好み変わった?そういう服、苦手じゃなかったっけ?」
「……最近着るようになったの。ほら、愛衣がいつも可愛い恰好しているから、影響受けたのかな?」
「……そう、か」
納得したのかしていないのか、可愛いよ、と一言誉めてそのまま先に部屋を出ていった。
そうだよね、今までとは全然違う服。彼の家に置いてある服は、去年買った服ばかりだし、化粧品も最低限しかもっていかないから、変わった私を見るのは初めてだ。少しずつ増やしていったつもりだったけど、彼にとっては突然の変化。何かあったかと、勘ぐることも、あるよね。
「やっぱり、人が多いねぇ」
当たり前だけど、土曜日の昼過ぎ、映画館は混んでいる。、見たい映画は夕方まで満席。
「先に、ご飯食べようか」
遅く起きた私たちは、結局なにも食べずに家を出てきた。昨夜夜中まで食べてたし、映画見ながらポテトとかポップコーンとかでいいんじゃない?なんて思っていたけど、夕方まで時間があるなら、ちゃんと食べたい。
「うん」
家を出てから、明らかに彼の口数は減っていた。それが、昨日の話のせいか、私の服装のせいかわからないけど、目を合わせてもくれないことに少しショックを受けていた。
彼が言いたいことをのみ込むのは、初めてかもしれない。
当たり障りのない会話をしながらの食事なら、一人で食べる方がよっぽど美味しいと実感した。
暗い映画館。会話が無くてもいいことにホッとするものの時折聞こえる溜息は私の集中力を完全に奪い、楽しみにしていた映画の内容は全然頭に入ってこない。
一人で来ればよかったのかも。
「久しぶりに、やってみるか?」
映画館を出た所にあった、ファミリー向けのゲームコーナー。隅に置かれた2台のエアホッケーを指して彼が笑う。あ、ちょっと機嫌直ったかも?
「いいね、ほんと久しぶり」
本当は、ちょっと恥ずかしかったけど、結構大人になってもやってる人いるよね。と自分に言い聞かせて小銭を入れる。
勝負は、私の圧勝。付き合う前に何度かやったけど、私一度も負けたことない。一時期、これはまったんだよね。
「やっぱ由夏強いよなぁ。なぁ、手加減とかしないの?」
「手加減して、勝ってうれしい?」
「まぁ、そうなんだけどさぁ。やっぱ由夏だよなぁ」
何が言いたいのかはよく分からないけど、とりあえず機嫌は直ったみたい。彼が行きたいという店まで電車で移動する。駅からは少し歩くと言われ、彼について黙って歩くが、少しずつ彼の背中が固くなるのが伝わってきた。ってか、この辺、私知ってる。
「ここ」
ここ、は。合コン会場で、クラス会の会場で……。
一瞬、足が止まる。知ってる?
「入ろう?」
偶然、だよね?
相変わらずお洒落なダイニングバー。予約をしていたらしく、窓際のボックス席に通されて、席に着くと同時に出てきたビール。なんで?
「予約なんて、していたんだ」
基本、横着なヤツだし、私もお店にこだわりがある方でもないので、二人で行くのに店の予約なんてしているのは初めて見る。嫌な予感しかしないのは、私の罪悪感からか。
「前に俺がこっちに来た時に、会ったヤツ覚えてる?」
「ええと、3人いた。けど、顔とか名前は、微妙かも……」
私は人の顔と名前を一致させるのが苦手だ。自分がじっと顔を見られるのが苦手なので、相手にもしたくない。それじゃ、覚えられるわけないよね。
「その中の一人、ここで働いているんだ。あいつは、由夏の顔しっかり覚えてる。初めて俺が紹介したときから。由夏は、覚えていないんだろうけど、何度か会ってる」
そうなんだ。人の顔覚えられない彼女でごめんね。
ってか、きっとそうじゃないよね。私の顔を覚えているって、はっきり言っているってことは、やっぱり……。
「由夏が、俺のところに来ていたのは、罪悪感?」
怒ったような、悲しんでいるような、瞳。これは、浮気を疑われている?
凍り付いた空気の中、私は全然見当違いの事を考えていた。
彼は、私の事が好きなんだろうか。好きだから、他のオトコといたのが我慢できなかったの?それとも、自分のオンナだと思っていたの、別のオトコと笑っているのが許せない?ただの、独占欲?
私は、どっちだったら嬉しいんだろう。私は、この人が私を欲しいと思ってくれて、嬉しいんだろうか。
ああ、もうダメだ。もう、わからない。
「ごめん」
何に対しての『ごめん』なのか、自分でもわからない。彼氏がいるのに合コンに参加したこと?それとも、他のオトコに惹かれた事?
二人、無言でビールをあおる。あっという間にジョッキは空に。運ばれてきたお代わりビールまですぐに空になった。
「ごめん、なの?」
不貞腐れているような、泣き出しそうな声。ああ、こんな声、初めて聴いた。それでも、彼を慰める言葉は、浮かばない。
何一つ、切り捨てる勇気もない癖に、切り捨てられるのも怖い。
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