第29話 ゆっくりと
「由夏?聞いてる?」
「あ、ああ、ごめん。聞いてなかった」
今週も、彼氏の住む町に行く。空港まで迎えに来てもらう時間を確認している最中に、意識が遠のいていた。
「大丈夫?疲れているんじゃない?」
疲れてるよ。身体も心も。だから、癒してほしいの。
そういったら、貴方は困る?
「大丈夫、金曜日8時過ぎにはそっちの空港に着く予定だから、迎えに来て。ご飯、空港で一緒に食べよう」
「わかった」
嬉しいんだか嬉しくないんだか読み取れないその声に、不安を感じないわけではない。自由にしていた週末なのに、急に入り浸るようになった私に困惑しているのは確かだ。
金曜の夜の飛行機で彼の町へいき、飛行場まで迎えに来てもらう。月曜は早朝便で帰ってそのまま出勤。早朝に送らせるのは流石に申し訳ないので空港までは自力で行く。そんな週末同棲も、今週で3週目だ。
それまでの自由な週末をすっかり様変わりさせたのは、申し訳ないと思う。でも……。
一人で部屋にいると、思い出す。初めて見た、徹の『オトコの顔』。
『オンナ』の私を求めていた瞳。
驚いた。ただ、素直に驚いた。
声もでないくらいに驚いて、徹が『オトコ』なんだと認識した。
彼氏がいるのに、『オトコ』である幼なじみと会うのは、ダメだろう。そう思っているのに、徹に会いたい、もっと話をしたい、と思ってしまう自分がいる。それを抑えられる自信がないのが、情けない。
徹に会いたいと思うたび、彼氏の写真を見つめる。付き合う前の初デート。微妙な関係が心地よくて、中々前に進めなかった。一緒に食事をして、皆で遊んで、少しずつ、距離を縮めていく間に、この人、いいなぁと柔らかい気持ちになって、『付き合おうよ』そう言われてすぐに素直に頷けた。一度も『好きだ』とは言われなかったけど、私と『付き合いたい』と思ってくれたことが嬉しくて、誠実だと思った。
付き合っていくうちに、私が惹かれた理由がはっきりした。私たちは、似ている。極端に自信がない。人前に出ることを苦手として、できれば穏やかに静かに日々を過ごしていきたい、なんて年よりじみたことを言い合って二人で笑った。口に出していたわけではないけれど、一緒に過ごすゆったりとした時間を楽しみにしていたのは私だけではないはず。
「理想的な頼りになる優しい彼氏」ではないかもしれない。だけど、私たちはそれなりにうまくやってきた。
情熱的な恋ではなくても、愛情だってちゃんとある。今は少し、距離がはなれているけど、お互い恋人はこの人だと思っている。
徹に惹かれるのは、恋とか愛とかそんなんじゃなくて。あんなイケメンに想われたことの優越感とか、兄貴を独り占めしたい、という様な子供っぽい独占欲。それに流されたら、大事な人を傷つける。
うん、私にとって、大事なのは……。
「由夏」
空港のゲートをくぐると、嬉しそうに手を振る姿が見える。急に毎週来るようになった私に戸惑うかと思ったのに、彼はこの3週間ずっと上機嫌だ。平日でも仕事が終わると電話をくれるようになり、職場の同僚とのやり取りや上司への愚痴、ランチの内容まで教えてくれるようになった。嬉しいはずのことなのに、何故か心苦しい。
「毎週由夏ばっかりに負担かけてごめんなぁ」
そう思うなら、たまには自分が来てくれたらいいのに……。
「来月は、俺が行くから。今月残業も多いし、由夏が食事の作り置きをしてくれているから食費も浮いているし。部屋も綺麗で居心地がよくなったせいか、毎日早く帰ってきてのんびりしてるんだ。おかげで呑み代減ってきたよ」
私は家政婦か?呑み代浮いてるのに、来月なんだ?そもそも私が料理全くダメだったの知っているよね。作り置きできるぐらいになったことへの驚きとかない?努力を誉めて!
まぁ、後ろ向きの努力ですけど、ね。
言いたいことがお腹の中にたまっているのに、週末の居場所を失うのが嫌で何も言えない。そういえば、彼の転勤が決まった時すこしホッとしたなぁ。彼氏がいなくなるのも嫌、彼とずっと一緒にいるのも嫌。こんな私の気持ちをしったら、彼はどうするだろう。
どうも、しないな。困った顔して『そうかぁ』っていうぐらいで、自分で決めたりはしない。私も決められない。きっと、少しずつ距離が開いて、時間をかけて、何もなくなる。
それが嫌だから、私のお腹には灰色の気持ちがたくさんあるんだろう。
大事な人を失うのは、嫌だから。
「由夏、今の仕事楽しい?」
土曜の朝、珍しく私より先に起きてコーヒーを入れてくれていた。座って、と促され向き合う形で食事をしながら、真面目な顔で聞いてきた。ううん、どう答えたらいいんだろう。
「楽しい?ううん、どうかなぁ。楽しいときもあるし、楽しくないときもあるし。でも、いい人ばっかりだから、働きやすいよ」
「そうなんだ。それならいいんだけど、最近毎週来てるだろ?何かあったのかと思って」
心配してくれていたんだ。わかりにくい人ではあるけど、この人なりに、私の事をおもってくれている。お腹の中の灰色の気持ちが、すこし薄くなっていく。
「ありがとう。でも、別に何もないの。会いたい、だけじゃダメ?」
キャラじゃないのは、百も承知。長い付き合いだけど、こんなこと言った事ない。明らかに困惑した顔が目の前にある。この人にとっては、『会いたいだけ』よりも『仕事でトラブルがあった』のでここにきている、の方がずっとしっくりくるんだろう。まぁ、なにもないってわけではない。でも、それ、仕事じゃないんだよ。そういったら、貴方はどんな顔をするんだろう。
月曜の朝。
まだ暗い時間に、昨夜まとめた荷物を持って玄関を出ようとすると、彼が起きてきて私を抱きしめた。目を覚ますと一応声ぐらいはかけてくれるが、私が出る頃には再び夢の中にいる人が、珍しい。
「由夏。こっちで暮らさない?少し広い部屋に引っ越して、一緒に住もうよ。今の仕事じゃなきゃダメな理由なんてないんだろう?少しの間なら、由夏一人ぐらい何とか養えると思う。だから、由夏?」
「……ありがとう」
これまでの付き合いを考えれば、私が毎週来ることを不思議に思わないはずがない。そんなことわかっていたけど、今は何も言わずに週末の逃げ場所になって欲しかった。それが都合のいいことだってわかっているけど、今の仕事も、友達も置いてまでこっちに来るには、まだ覚悟が足りない。私は、ずるい。
「ちゃんとしてから、考えたい。もう少し、待って」
彼のくれた言葉は、とても暖かい。とても、心配して、悩んで、私を守ろうとしてくれた。
私は、そんな気持ちに答えることができるんだろうか。
「由夏、今週も彼氏の家に行くの?」
いつもよりも少し高い愛衣の声。愛衣、わざと明るい声を出そうとすると声高くなるんだよね。気づいていたのに、毎週気づかない振りをしていた私。愛衣にも、心配かけてるよね。
「ううん、今週は行かない。さすがに交通費もなくなったし、最近部屋の掃除もできなかったから、今週はお家に引きこもって掃除と洗濯に追われることにしたぁ」
私も、努めて明るい声を出す。それは、心配をさせた事への罪悪感からか、それとも薄っぺらな私の見栄なのか。自分の気持ちも、わからない。
「それなら、さぁ。一緒にご飯食べない?ほら、最近帰る時間ずれちゃったから全然一緒にご飯してないじゃん。たまには」
「……」
新人ちゃんが辞めてからというもの、うちの部署は忙しい。人を回してもらえないので、今いる人数でバタバタとこなしていたら、それができると判断され、来年まで人は増やせないと言われてしまった。そんな事ってあるの?と抗議もむなしく、決定事項として降りてきた。
次年度の新人には目一杯優しくしよう、と心に誓い日々の仕事を片付けるが、忙しすぎて愛衣と私の仕事が分担されてしまい、終業時間も休憩時間も少しずつずれてしまった。
ずれてしまったことは確かに寂しいが、助かっていた部分もある。誰かに話を聞いてほしいのに、誰にも言いたくない。
今は一人でゆっくりしたい。こんな、ぐちゃぐちゃの私を愛衣に見られたくない。
「疲れているなら、いいんだけど」
うつむいた長いまつ毛。やっぱり、可愛いなぁ。
「大丈夫。久しぶりだよね、何食べたい?」
途端に、ぱぁっと明るくなる。ああ、愛衣にも、心配かけてるんだよねぇ。
「実はね、あれから武人さんの料理教室ずっと続けているの。だから、今日は私と千夏さんで作るから、家で食べよう。由夏、泊まっていきなよ」
え? え?
私、騙された?
にっこりと笑う愛衣に手を引かれ、今更断る口実も浮かばず、愛衣の部屋に向かった。
『一緒にがんばろうよ』と言ってくれた千夏さんの顔が浮かんで、情けなさが倍増した。
「由夏ちゃん、愛衣ちゃんお待たせ!ごめんね、遅くなっちゃって」
ビーフシチューがテーブルに並ぶ頃、仕事を終えた千夏さんが合流した。今日の事は計画的だったらしく、昨夜二人でビーフシチューを作ったっていっていたけど、この出来、絶対武人さんも来ていた。
「正樹さん、平気ですか?」
若干不貞腐れた私の声に、平気平気、と大きな声で笑って、買ってきたクッキーやらシュークリームやらを並べている。これからご飯を食べるとはとても思えない量に呆気にとられていれば、少し照れくさそうに笑っている。
「ごめんね、勝手に。私のストレス発散法。一週間疲れたから。愛衣ちゃんと由夏ちゃんにも効果あったらいいな、と思って」
ストレス、かぁ。ちょっと、違うような気もするんだけど。まぁ、いいか。
「で?最近途端に彼氏の家に行くようになったって?徹と、なにがあったの?」
食事が終わり、シュークリームをつまみにワインを飲みだした千夏さんの直球。マジか。こんな直球投げる人、初めて見た。さすが、正樹さんの想い人。
「ええと、別に、なにも」
彼氏の家に行くのがおかしいですか?なんて言葉に千夏さんは動じない。
「おかしくないよ、本気で好きならね。だけど本気で好きなら、これまで数カ月に一回しか会えないのに寂しそうじゃなかったことがおかしいと思う。会えないことはしかたないけど、会えなくても平気ってのは、おかしい、かな?」
「……」
何も、言えません。
素直に、徹とのことを話し始めた。
順番は、グチャグチャ。徹の言葉も、自分の言葉も、アヤフヤ。そんな話でも、愛衣も千夏さんも黙ってずっと聞いてくれた。一緒に悩みながら、笑いながら、泣きながら。
そして、話し終わった私に向かって一言。
「由夏ちゃん、愛されてるねぇ」
『愛されてる』言われて改めて自覚した。
昔、黙って離れて行ったのも、私が怯えるから。私が嫌だと言ったから、徹はちゃんと距離を取った。私が仲直りしたいと言ったら、黙って許してくれた。私が答えられずにいたら、笑って引きさがってくれた。
こんな大きな愛情、他に知らない。
「……はい」
「選ぶかどうかは別にして、あんな素敵な男性に愛されてる。幸せな事だね」
「はい」
「今のセリフねぇ、実は、武人の受け売りなんだ。昔、正樹に答えられなかった私に、武人が言ってくれたの。『幸せだと思うなら、結果は問わないから、ちゃんと答えてあげてほしい』って。らしくないでしょ?」
「武人さんの」
いつも穏やかで、明るくて、安心できる人。きっと、皆の事をしっかり見守ってくれているんだろうな。『ちゃんと、答える』かぁ。難しいな。
「ゆっくりでいいと思うよ。徹も、待ってくれる。ゆっくり、由夏ちゃんが徹に望むことは何なのか、考えてあげて。徹に、由夏ちゃんの本心を教えてあげて」
にっこりと笑う千夏さんは、いつもよりもずっと綺麗だった。
涙があふれてうまく返事がでない私を、抱きしめてくれる。隣では、愛衣が一緒に泣いていた。
ああ、私を大事に思ってくれる人がいる。
土曜日、三人で買い物に行った。『季節が変わったら、また選んでやるよ』そういった徹を思い出しながら、自分で選ぶ。徹が選んだような明るい色、軽いデザイン。
鏡の中の自分がは、少しだけ赤い瞳で、とても軽やかに笑っていた。
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