岬け家訓第150条『自分の心は自分の言葉で』
足がすくんでしまうような、底のない空に向かって上昇し続けるあいだ、レーコさんはわたしが消えてから起こったことを説明してくれた。
みんな……わたしのために。
「ありがとう……」
「それはもどってから、自分の口で言えよ?」
「うん。ありがとう、レーコさん」
レーコさんに抱きついたかっこうのまま、いっそう強くからだを抱きしめる。
「バカっ! 変に力をこめるな! バランスくずして、落ちたらどうするんだよ!」
「ご、ごめん!」
あわてて力をぬくわたしだったけど……。
「だーかーらー! バランスがくずれたら落ちるんだよー! 変に力をぬいてもだめ!」
「そんなあ、むずかしいよ」
文句をたれるわたしを、レーコさんは飛び上がりながら、強く自分のからだに引きよせた。
「……これで、おとなしくしてろよ?」
「……う、うん」
なんだかレーコさんがいつになくやさしくて、変にドキドキしてしまっているけど、バランスくずれたりしないよね?
しかし……滝はいつまでもつづいているし、穴の出口はまるで見えてこない。
「ねえ、レーコさん。本当に出られるの?」
「絶対に出る。その気持ちだけ、強く持っとけ」
「うん……でもさ、わたし、もうあんまり長くは、もたないっぽいんだけど」
そう言ってわたしは自分の右のてのひらを見つめる。
アナさんにとりこまれて、レーコさんのキックで解放されたけど、今もまだ、わたしのからだ……とくに右腕は、順調にひものようになってほどけていっている。
気のせいか、指がひとまわりくらい細くなっているように見えるし、からだからほどけていったひもが、滝にのまれて下に落ちていく。
このまま、バラバラになって、消えてしまうんじゃないか……しかも、あんまり時間を置かずに。
レーコさんに抱きしめられて、からだは安定しているし、前みたいに意識がうすくなっていくこともないけど、そのせいでよけいに、わたしという存在がほどけていく感覚が、強くわかるようになっていた。
「その前に、外に出ればいいだけだ。飛ばすぞ」
レーコさんはさらに上昇するスピードをあげる。
だけど、全然、はやくなったという感覚がない。
そんな感覚を置き去りにしてしまうくらい、滝のスケールが大きいのだ。
「レーコさんは、いちど、ここにきたことがあるの?」
アナさんの姿は、レーコさんのものだった。
それを「アバター」とよんでいたから、アナさんはあの姿を、だれかから読みとったか……うばったんだろう。
そして、前にわたしが見た、あの夢。
穴の中に沈んでいく、レーコさん。
きっとそのとき、レーコさんはここにきて……死神になったんだ。
あれ? ということは……。
わたし、ひょっとして死神になっちゃうの?
「わたしは、『死神第0号』だ。願望の滝の最初の一滴。ここにきて、すべてをなくした……ただの死神」
レーコさんが、痛いくらいにわたしを引きよせる。
「だけど、優依。おまえはそうはならない。おまえはおまえのまま、外に帰るんだ。死神になんてならないし、『器』の役目も関係ない」
レーコさんのあたたかさが、わたしを包んでくれる。
その言葉が、しっかりとわたしをつなぎとめてくれる。
「おまえはだれだ?」
わたしは、わたし自身に問いかける。
わたしは……岬優依。
ミサキ小学校4年1組。
岬優依だ!
わたしは!
わたしだから!
岬けが、どんな悲願を持っていたとしても。
願望の滝を流すための、『器』で、いけにえだったとしても。
家訓が、『器』を完成させるために染みこんでいく、呪言だったとしても。
わたしには、今このときを生きている、岬優依には、なんの関係も、ない!
わたしは岬けが好きだ。
おじいちゃんも、おとうさんも、親戚のみんなも、たとえだれがどんな陰謀をめぐらせていようと、今日までなかよくやってきた、その事実にはなんの変わりもない。
わたしは岬けの家訓が好きだ。
どんなときでも、家訓を読み上げて、どんと胸を張ると、目の前がぱあっと開けたように感じて、まあなんとかなるか! と前向きな気持ちになれる。
その気持ちが、しくまれたものだったとしても、知ったことか!
わたしは、たしかに前向きになったんだ。そこには嘘も、いつわりもない。
わたしの気持ちは、わたしのものだから。
「岬け家訓第90条! 『危ないときには前向け前』!」
ばちん!
わたしが声を張り上げると、頭の中ではじける感覚。
そしてわたしのからだが、大きくほどけて滝にのまれていく。
「優依!? なにやってる!」
「岬け家訓第62条! 『わかった気になったときこそ疑え』!」
ばちん!
「優依!」
「岬け家訓第29条! 『カエルの子は田んぼに帰る』!」
ばちん! ばちん! ばちん!
「やめろ! 優依!」
いいや、やめない。
わたしは、岬けの家訓で、いつだってすくわれてきた。
それがもし、呪言? だっていうなら。
わたしの中に刻まれている、わたしをすくってくれる、「岬け家訓」のほうが、強いことを、証明してやる!
わたしはあらん限りの力で、岬けの家訓をとなえ続けた。
ばちん! という感覚が、追いつけないほどの勢いで。
「岬け家訓第150条!」
あれ……?
なぜか、これだけ、思い出せない。
それどころか、わたし、どうやって声を出してたんだっけ……?
そもそも、わたしって、存在してたっけ……?
「優依! 最後なんだから、気合い入れろ!」
レーコさんがさけぶ。
そうだ。
わたしはレーコさんに抱きしめられて、滝を登っていたんだから。
レーコさんの声が聞こえてるってことは、わたしは、まだ!
ここにいる!
「岬け家訓第150条!」
レーコさんが声を張り上げる。
呼吸を合わせて、わたしはレーコさんと同時に、さけぶ。
「『自分の心は自分の言葉で』!」
ざっばーーーん!
水しぶきをあげて、わたしは空中に放り出される。
ここは……ミサキ小学校の校庭……の、上空!?
いやいやいや!
高い!
校舎が下に見える!
落ちたら、一巻の終わりだ!
じゃあ、穴の中にいたときみたいに、浮かんでみようとするけど……うまくいかない。
死神にはならなかったみたい……と安心している場合じゃない!
重力に従って、わたしのからだは、地面に向かって、落下をはじめた。
「ギャーーーーー!」
「ンンンン! いけませんなあ! お嬢様! 岬け家訓第46条!」
「『悲鳴をあげるな手をあげろ』ーーー!」
はい! と両手を高々とあげるわたし。
その手を、がっちりと、六本の腕がつかんだ。
右腕をイッペンさん、ニアさん、ミナミさんが。
左腕をヨルさん、ゴーナ、ロックが。
それぞれ手をのばして、わたしをキャッチし、ふわふわと浮かびながら、ゆっくりと地面におりていく。
「優依ちゃん!」
すとんとやかわらかく着地したわたしに向かって、緑ちゃんが突進してくる。
「よかった……よかったよぉ……」
緑ちゃんの目からは涙があふれ、わたしの無事をしっかり確認するために、からだ中をたたいてくる。
「痛い痛い」
わたしは笑いながらそう言う。
「わわっ、ごめん!」
緑ちゃんがあわててわたしからはなれると、今度は美砂ちゃんが思いきりタックルしてきた。
「優依ー! 心配させるなよバカー!」
ぽかぽかと、緑ちゃんとはちがって、たたくためにたたいてくる美砂ちゃん。
「痛い痛い」
さっきよりもすこし本気で、そう言う。
「優依くん。無事でよかった」
美砂ちゃんを引きはがすと、蒼馬先輩が神妙な面持ちでやってきた。
頭を下げようとするのを、わたしは止める。
「蒼馬先輩のせいじゃないですよ。たぶん、遅かれ早かれ、同じことになってたと思います。でも、今日じゃなきゃわたしは、たすからなかったと思います」
「そうか……そう言ってもらえると、すこし気が楽になるよ。ありがとう」
すこしはなれてこちらを見守っているシオン先輩、広人くん、怜央くん。
「みんな、ありがとう。岬優依、ただいま帰ってきました!」
イエーイ! と腕をあげる。
「岬け家訓第1条『別れるときも笑顔であれ』」
すぐ近くで、レーコさんの声がした。
「レーコさん? どこ?」
「下だ、下」
言われて、足もとに視線を落とす。
そこにはまだ、あの穴があった。
だけど校庭のほとんどをおおっていたさっきまでとはちがい、砂場で作ったトンネルのような、小さく、弱々しい穴になっている。
その奥に、レーコさんがいた。
レーコさんは、まだ穴の中にいる。
「レーコさん!? はやく出てきてよ! もう、穴がふさがっちゃう!」
なんで?
わたしは穴から脱出できた。だったら、レーコさんだっていっしょにもどってくるはず……なんじゃ……。
「ニアが言ってたけど、死神がこの穴にふれれば、その時点で、もう終わりなんだよ。霊体のわたしたちが、願望の滝から逃れることはできない」
「なに言ってるの!? いいからはやく!」
わたしはレーコさんに向かって手をのばそうとする。
だけど地面にあいた穴はもう、わたしの腕さえ通さないほど小さくなっていた。
「おまえをたすけられたんだ。それで、わたしの役目はもう終わりでいい」
「よくない!」
わたしは目から、ぼろぼろと涙をこぼす。
「全然よくない! わたしたちは、大切なパートナーだって。わたしはいつだって、レーコさんを信じてるって。まだちゃんと、直接言えてない!」
「いま聞いた」
にしし、と笑うレーコさん。
いやだ!
こんなかたちでお別れなんて、絶対に認めない!
「よかったんだよ。ようやく、家訓どおりに、笑ってお別れできるような相手に、出会えたんだから」
ぶんぶんと首を横にふる。涙が、スプリンクラーみたいに飛び散る。
「ハハハ! いけない子だ。いいか、岬け家訓第1条……」
「聞きたくない!」
もう、針の穴ほどの小ささになってしまっている。それでもわたしは、地面に頭をこすりつけて、レーコさんの名前をよんだ。
「……そうだな。おまえも、いつか、笑顔でお別れができるようなひとになれ」
「レーコさん!」
すぅーっと。
校庭にあいていた穴は、それで完全に、閉じた。
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