岬け家訓第85条『まずは玄関つぎに上』

 そう、つっこんだ。つっこんだんですよ……。

 そこまではよかった。よかったんですよ……。

 で。

 あしどり軽くお屋敷に入ったわたしを待ちかまえていたのは、笑顔のおとうさんだった。

 なんだかふだんよりも笑顔が全開な気がするけど、ステキ! ってほめてあげられる空気ではない。

「岬け家訓第84条!」

 全開の笑顔でびしっ! と指をさされる。

「『掃除はできるときにやっておけ』!」

 おとうさんの勢いに負けてきちんと答えてしまったわたし。

 しまった! と思ったときにはもう遅い。

「そういうわけだから、ほい」

 水の入ったブリキのバケツ(古い!)と、ぞうきん(新品。たすかった……)をしっかり持たされる。

「ひとまず玄関の床だけでいいから、終わったらこっちを手伝うように」

 そう言って自分は最新鋭のコードレス掃除機を手に、二階にあがっていくおとうさん。そうそう。掃除は上からだもんね……。

 って! わたしは下も下、入り口の玄関かい!

「岬け家訓第85条! 『まずは玄関つぎに上』!」

 おとうさんの声が二階からひびく。

 あー、これはあれですね……。家訓の中にたまに出てくる「つづきもの」。

 いま教えられた第85条は、その前の第84条からつづいているのだ。

『掃除はできるときにやっておけ』

 やるならば、

『まずは玄関つぎに上』

 というぐあいに、家訓の中には番号順に意味がつながっているものもいくつかある。

 それはそうと、教えてもらった第85条をきちんと覚えておかなきゃ。

 だがわたしは急にからだに起こった異変に、思わずびっくりしてしまう。

「わ、わ」

 頭がすこし宙に浮かびあがったような、変な感覚のあと、すとんと着地したような安心感。

 第85条を覚えたことが、まるでからだにしみわたっていったような、ふしぎな感じだった。

「うーむ、これが『腑に落ちる』というやつなのかな?」

 なんて、わけしり顔でつぶやいてみるわたし。

 まあ、イスから急に立ち上がったときに起こるたちくらみみたいなものだろう。

 たしかにバケツを手にとろうとしてすこしからだをかたむけていたし、車の中でずっと座りっぱなしだったのもよくなかったのかも……。

 それにしては全身に力がみなぎってくる気がするのだけど、さてこのパワーを掃除に向けられるかといわれれば……。

 うん! ちゃちゃっと終わらせて冒険を再開するぞ! と気合いを入れてわたしはバケツの中にぞうきんをほうりこみ、ぎゅーっとかたくしぼって玄関掃除へと立ち向かう。

 この家の玄関は、わたしが前に住んでいたマンションとはちがい、入り口から家の中まで、ほとんど段差がない。

 くつをぬぐ場所はあるんだけど、そのくつを入れておくためのくつ箱が両どなりにどんと置いてあって、なんだか学校みたいだった。

 玄関を入ってすぐからはしばらく、つるつるの石の床がつづく。大理石っていうんだっけ? とりあえずこれをぴかぴかにしておけば文句は言われないでしょう!

 あー、でもよく見るとけっこうきたない。小さなどろだらけのあしあとがあちこちについていて、どうやらミサキ小学校の生徒がときどきしのびこんできているらしい。

 いろいろ準備をしてからやってきたので、今日はもう夏休み最後の日だ。

 夏休みのあいだ、きもだめしでもしたのかな……そんな雰囲気は出てるけど、ひとさまの家に不法侵入とはけしからん!

 しかし、あしあとの多いこと。

 これは思ったよりも重労働だぞ……。

 まずは全体をさーっとふいて、っと。よしよし、これであしあとはかなりの数が消えた。

 どろをべったりとつけたままにしないくらい、もともとの床の大理石がぴかぴかだったのだろう。

 しかし、中にはがんこなやつもいるもので。

 新しくしぼったぞうきんでなんどふいても、まるで落ちてくれないあしあとがてん、てん、とつづいていた。

 あしあとのぬしはよっぽどどろだらけのくつをはいていたらしい。ほかのあしあとは一撃で消えてくれたのに、このあしあとは一生懸命こすってもこすってもしつこく床にこびりついている。

「あれ?」

 孤軍奮闘していたわたしは、まるで落ちる気配のないあしあとをむすっとにらんで、あることに気づいた。

 指がある。

 あしあとのさきっちょには、五本の指のかたちが浮かんでいるのだ。

 ええ……はだしでひとさまのお宅に上がりこむなんて、非常識なやつ! しかもこんなにべっとりとあしあとを残していくなんて。

 もし顔を合わせたら絶対に文句を言ってやる!

 わたしはむかむかしながらぞうきんをバケツに入れて水分を補給(ぞうきんにだよ)する。

 と、黒に近い灰色だったバケツの水が、ぞうきんを入れたとたん、うずを巻くように色を変えはじめた。

 黒っぽいのは黒っぽいままだ。だけど、ぞうきんから広がっていく色は、まちがいなく、赤だった。

「え……?」

 なんで、赤……?

 ぞぞぞっと、せすじに震えが走る。

 ちょ、ちょっとまって。

 このものすんごくしつこいあしあと……見た目は黒なんだよね。

 それをぜいぜい言いながらこすったぞうきんから、なぜか赤い色が出てくる。

 おまけに、なぜかこのあしあとは、はだしだ。

 まさか。

 まさか。

 ハハハ。

 ソンナマサカ……。

 考えすぎでしょう。だよね?

 このあしあとが、赤い血のあとだなんて……。

 うん! ないない! そんなわけない!

 よし! 見なかったことにしよう!

 このあしあとがやけにしつこくて、かよわいわたしの力じゃとても手に負えないということにして(事実そうだしね)、わたしはさっさとこの場をはなれよう!

 寒気のするからだにむりやり気合いを入れて、わたしはぞうきんとバケツもそのままにこの場を立ち去ろうと立ち上がった。

 すると、あれ?

 ない!

 さっきまで怒りながらふいていたあしあとが、目の前からきれいさっぱりなくなっている!

 どどどど、どういうこと!?

 そのとき、頭の中にさっき覚えたばかりの家訓が浮かびあがってきた。

「み、岬け家訓……第85条……『まずは玄関つぎに』……」

 家訓を口にしながら、ゆっくり顔をあげる。

「『上』……!」

 おとうさんののぼっていった階段とはちがう、木でできた今にもくずれそうな階段。その上に、あのあしあとがてん、てん、とつづいていた。

 これは……どうしよう? どうしたらいい?

 今すぐおとうさんかおかあさんをよんできて、この現象を説明する?

 いや、このあしあとがいつ消えるかもわからない。それにさっきまで掃除していたあしあとは、じっさいに消えてしまっている。

 今この場をはなれるのは、この怪現象を解明するチャンスを失うことになりかねない。

「岬け家訓第72条……『今日のふしぎは明日の常識』!」

 そうだ! だからおそれることはないし、今ここで解き明かさなければ、明日からまたあたりまえのように同じことが起きかねない。

 わたしはみしみしきしむ階段を、あしあとを追いかけるように、だけどふみつけないように気をつかながらのぼりはじめた……。

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