3章
黎明へ翔ける・1
時刻は午前0時を過ぎた。
重苦しい扉を開けた先は木造の広い玄関ホールだ。外観もそうであったが、古ぼけた廃墟の中は床が底抜け、天井から吊るされていたであろうシャンデリアはガラス片を散りばめながら落下している。左隣にある部屋からはドアを突き破って木の幹が侵入しているせいで洋館の内部は外観以上に崩壊しているようだった。
「高蔵寺と赤井は上にいる」
ロルフと二頭の狼が先に階段を見つけ、一行を案内する。階段を昇れば、九条にも分かるほど濃厚な血の香りが広がっていた。ロランスがつい鼻を手で覆う。ダンだけは血の匂いに気が付いていないようでケロッとしていた。ロルフや狼、九条そしてロランスたちはこの血の香りがどこから来るものなのかすぐに理解する。
その部屋へ続く扉へは速足で。助走はほぼなく、蹴り破った。
「まったく。行儀悪いね」
くらりと九条の意識が飛びそうになった。甘酸っぱい香りが濃厚に広がり、九条の鼻腔を通って喉を刺激する。喉が渇いている。食欲が湧き出てくる。麻薬の香りが吸血衝動を叫ばせる。いっそ媚薬にも等しい。この血を吸血することができればどれだけ満たされるだろうか。至高の血、それ飲むことができれば一瞬で昇天してしまいそうな、極上のごちそう。
「――っ」
九条にはその麻薬の発生源が理解できた。
高蔵寺だ。高蔵寺愛子、その人だ。
足腰から力が抜けて、九条は倒れ込んでしまう。とっさにロルフが九条を受け止めた。九条の豹変ぶりに狼たちも不思議そうに見上げる。
「九条……?」
高蔵寺の声がやけに心地いい。ぞわぞわと耳の奥を撫でられているようだ。吸血衝動が這い上がってくる。。腹が減ってしょうがない。
「どうした? しっかりしろ」
ダンが九条の背中を叩いて喝をいれる。そうされてから我に返った。重たい頭を動かして、喉の渇きと空腹を忘れるよう努める。
目の前に広がる光景を改めてみる。
椅子に座った状態で拘束された高蔵寺がすっかり弱り切った表情を九条に向けていた。彼女の唇が深く斬りつけられ、端のほうが裂けるように深く血を流している。九条の精神が犯された原因の血はたったこれだけの血液だ。口から流す血は決して少なくない。顎へ流れ、高蔵寺の豊かな胸に滴り落ちている。大きな染みをつくっている血はいまもなお止まることを知らない。高蔵寺が口を開いてしゃべる度に血がぽたりぽたりと落ちるのだ。この傷はたしかに痛そうである。きっと跡が残ってしまう。それでも吸血鬼にとって些細な怪我であり気に留めるほどのことはない血液の量であるはずだ。だというのに彼女の血は特別九条の精神を、欲を揺さぶった。
「難儀なことだね」
赤井が九条と高蔵寺を見比べて肩を落とした。
「どうやら九条の好みの血は高蔵寺みたいだ。よりにもよって、この子かあ」
「……くそ。惑わされる……」
「吸血鬼の性だ」
頭を抱える九条、その隣でロランスが口を覆って必死に血の香りを拒絶しようとしていた。
「半吸血鬼といえど、ロランスも吸血鬼。あんたがハンターとして単独で動く理由がよくわかる。人間の血に弱いんだね」
「私は吸血鬼ではありません」
「どうだか」
「私は道具です。吸血鬼などでは決してありません。吸血鬼を殺す道具なのです」
「あんたは道具じゃないし、心は確実にある。そして吸血鬼という性根は覆すことができない」
九条に向き合っていた赤井がロランスを睨み、彼女に向って歩みを進める。そのまま赤井はロランスの真正面に立った。ロランスの心がある胸に指を突き立てて、声に力を入れる。
「ロランス、なんでここに来た?」
「そ、れは」
ロランスの言葉が詰まった。その答えをロランスは持ち合わせていない。ただ、自ら死を望んでいる吸血鬼が気にかかったのだ。いままでにであったことがない吸血鬼、赤井。人間を拉致し、どうしようというのか。彼女の行く末が……。
「ロランスがここに来たのは自分の意志じゃないのかい?」
「私の、意志……」
「あんたには心がある。自律的に考えられるじゃないか。どこが道具だってんの」
こうして心の有無を問われると、ロランスの胸がドキリと慄く。これ以上赤井と話を続けていてはいけない。そうしてしまったら、いままで自分が築きあげてきたすべてが壊されてしまう。今日まで半吸血鬼の高橋ロランスがハンターたちのもとで教育を受け、生きてきたのに、その中で培ってきた檻が溶けてなくなってしまう。それを意識してしまえば、ロランスはどうなってしまうのかわからない。不安、恐怖をはじめて、知る。
「いいえ。いいえ、いいえ。私は道具です! だって、そうじゃないと、私は、もう」
仲間を仲間だと、これからも思い続けることができるだろうか。心を意識してしまっては、自分が人間なのか吸血鬼なのかわからなくなってしまう。心を無視して道具だと思い込んでいれば、ただ命令に従うだけでいられたのに。ハンターとして怪物や化け物たちに銃口を向けられたというのに。彼らと関わり、彼らの心や訴えを知ってしまったなら、彼らの立場だって理解できてしまう。共感してしまうかもしれない。そうなったとき、高橋ロランスは今のまま道具でいられないくなってしまう。
人間としてハンターでいられるのか。
吸血鬼として闇に紛れるのか。
崩れてしまう。赤井とのこの問答は、続けてはいけない。
「なにを怖がってるの?」
ロランスは言葉を詰まらせる。
「泣いてるよ」
腕を持ち上げて、伸ばして、赤井は自分の頭より高い位置にあるロランスの目じりをすくった。そこには涙があった。
「怖いのは当然のことだ。それを拒絶する必要なんてないんだよ」
「どうして……」
「みんな恐怖を抱えてるに決まってる。拒絶なんかしないで受け入れればいい。受け入れたあとは立ち向かって」
恐怖や不安があるのは当然のことだったのだ。
九条が人間の世界に紛れる不安やロルフが抱える睡眠に対する恐怖。赤井の、己が吸血鬼であることそのものへの恐怖や不安。こうした怪物や化け物だけではない。高蔵寺の孤独に対する恐怖だって、ダンの日常へ対する不安。そんなもの、誰だって持っているものなのだ。そういった感情から逃げるために心を否定し、道具を名乗るのは苦しいだろう。
「ロランスには意志を尊重する権利がある」
そうして、赤井は下がる。高蔵寺を背後に、九条たちと向き合った。
「あんたには、まだ、選ぶことができるはずだ」
人間と吸血鬼の血、その両方を持っているからこそ、ロランスは選択できる。その手に握る拳銃をどうするか。銃口を誰に向けるのか。あるいは、拳銃を捨ててしまうことも。
「私の権利……」
ロランスは強く拳銃を握った。迷いなどない。自分の意志ははじめから決まっているのだ。
「私は吸血鬼ハンターです。九条悠、あなたを討伐します」
その銃口は九条の心臓へ。
ハンターとして仕事をしていく中で理不尽にも吸血鬼に殺されていった人の遺族の表情を覚えている。残酷な手口で殺されてしまう人もいる。なんの罪もない人が殺されてしまう。遺体の恐怖におびえたままの表情を。残された遺族の慚愧の念に打ち震える表情を。高橋ロランスは決して吸血鬼を許すことができない。人間と吸血鬼の混血だからこそ、裁くことができる日陰の犯罪者がいるのだ。
「……なるほど。上等」
九条はロランスを見やる。意志をもった目は鋭く、殺意がこもっている。いい気分はしないが、それでも心を殺しているときよりいい目だ。
「まって。ハンターを殺すのは俺がやる」
九条を狙った銃口の射線上にロルフが割り込んだ。
「ロルフは怪我してるだろ。それにお前の狼だって」
「なおった!」
「そうか。……じゃあ任せた。俺は高蔵寺を助ける」
ロランスはロルフが相手になることを受け入れた。九条からロルフに銃口の向きを変更し、引き金に人差し指を伸ばす。
「ダン!」
赤井は一歩下がったところにいるダンに呼びかけた。部外者を装っていたダンは腕を組んだ状態で赤井を見る。彼女の要望はわかっている。
「目の釣りはまだあるね?」
「ああ、余ってるな」
「なら、その分の働きをお願い。ロランスは怪我をしている」
「仕方がない。釣りがあまっている状況というのも居心地が悪かった。交渉成立だ。チャラにさせてもらう」
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