幕間
深淵で恋焦がれる
極東の島国、日本。長きに渡る一族から政権は皇族に返還されたばかりの頃。期待と不安とが混じった新しい風が国中を駆け巡っているなか、異国からの文化が流れ込み、世界や時代という流れを一般市民も強く感じ取れるようになった。
港町に暮らす赤井きよは最近目にするようになった白い肌の大きな異国の人をいつも不思議そうな顔で眺めていた。大きな人は少し怖いと思いながらも彼らとかかわることなく生きていくのだと思っていた。
その思い込みはすぐに崩されることとなった。赤井きよが学校から帰宅する途中のことである。道草をくって寄り道し、甘味処で団子を食べていた赤井きよに見ず知らずの外国人の男が話しかけてきたのだ。血が通っていないんじゃないかというほど白い肌と目鼻立ちがはっきりとした顔。珍しい青色の瞳、飴色の明るい髪は目を引く。これでもかというほど眉を下げて、その男は早口でしゃべったのだ。日本語が話せないようで、彼はずっと異国の言葉を話していた。異国の言葉がわからない赤井きよは困り、助けを求めようとしたのだが運悪く周囲には誰もいない。甘味処の売り子たちは仕込みに入っているのか奥に引っ込んでしまっている。
「えっと、えっと……」
団子が食べたいのかと、十本買ったうちの一本を差し出してみたのだが、首を横に振って受け取らない。しかし表情をみるに、どうやら困っているようだった。
よくみると、彼の洋装は乱れていた。いまだ見慣れない洋装は仕立てのいいだろう黒い服だ。すらりと伸びた手足がはっきりと見えるシルエット。上半身は黒い羽織のようなものを着ていて、その内側は白いものを着ているようだ。胸元は大きく開けており、鎖骨あたりまで露わになっている。黒い羽織、黒い細袴、下駄は黒く艶やかなものだ。しかしそれらを台無しにしてしまう摺木傷は数えきれないほどあり、うちの幾つかは洋装を破いてしまっている。
「もしかして……怪我をしているの?」
それは大変だ、と赤井きよはあわてて残りの団子を包んでもらい、男の手を引いて家まで連れ帰った。家で家事をしていた母は驚いていたが、すぐに治療に取り掛かった。傷口を水で洗い、残っていた塗り薬で傷口を処置したあと必要のない布で覆う。彼は「センキウ」と何度も言っていたが意味は分からない。
赤井一家は彼が完治するまで面倒を見ることになった。それまでの間、すこしずつに日本語を教えていくと彼もへたくそながら話すことができるようになっていった。怪我が治ってくると彼は赤井きよの母親と一緒に家事をするようになり、なんだかんだで一年近く一緒に過ごしていた。一年も一緒に暮らしていれば、たとえ異国の人だろうと日本語が少ししか話せなくても家族の一員である。兄弟のいない赤井は大きな兄弟ができたと喜び、両親もまるで息子のようだと彼を温かく受け入れていた。
多くをかたることができない彼がどうして怪我をした状態で赤井きよに話しかけていたのか。今こうしていることを彼の関係者は知っているのだろうか。彼の境遇はなにも知らないが、囲炉裏を囲ってごはんを食べる姿というのは紛れもなく赤井一家であった。
そんな平穏はあっという間に崩れることとなる。
毎晩毎晩、彼の寝床から聞こえていた唸り声が、その日の夜はやけに大きかった。もしかして傷がまだ治っていないのではないか。もしかして病を抱えているのではないかと心配した赤井きよと両親は彼がいる寝床のふすまをおそるおそる開けて見た。
そこにいたのは月光に照らされて青白い顔をする男の姿だった。苦しそうに、喉を抑えている。すぐに背中をさすってやろうとした母親を父親が止めた。青白い肌とは対照的にその瞳が真っ赤に燃え広がっている。獣のようなするどく尖った牙が唇の間から見え隠れしている。その妖怪のような恐ろしい彼の姿に息をのんだ。赤井きよたちがふと天井を見ると、そこにはびっしりと真黒なコウモリが張り付いているではないか。ひゅ、と喉の音を立てた赤井きよ。コウモリたちが一斉に赤井きよと両親のいるほうを向いたではないか!
目があったときにはすでに遅く。さきほどまでなにやら騒がしかった音も気が付けばしんと静まっている。
「アァ……」
絞り出したその声は確かに彼のもの。カラカラに乾いている。その光景はどうしようもなく恐怖を植え付ける。爛々と目を血走らせ、男は赤井きよたちをみて口を開けた。濡れた牙が禍々しく姿をあらわす。
まっさきに父親が赤井きよを抱き上げ、母親の腕を引いて逃げ出した。
恐怖で身動きができなかった赤井きよはただただ力いっぱい父親にしがみ付いた。今でも父親のあたたかく、大きな背中を忘れられない。母親も呼吸を荒くして、とにかく走った。
本能が告げる。直感が騒ぐ。
あれは危険だ。
廊下を飛び出し、用意していた水差しを転がして、とにかく全身全霊で走った。ぎゅうと目をつむる赤井の耳にはコウモリの羽ばたく音と唸り声がねっとりと絡みついていた。
跳ね上がる心臓は激しく鼓動し、赤井きよは全身から汗を吹きだしていた。耐えられないほどの恐怖が涙を流す。迫る、迫る、迫る恐怖は五感を麻痺させてく。
父親は床の間にあった刀をつかみ取り、腰にさした。そして夜の町へ身を投じる。
ちょうちんを用意する暇などなかったせいで、夜の外はまっくらだ。今夜は新月だったせいで、たまに家々から零れ落ちる仄かな明かりだけを頼りに、裸足のまま、体力の限界を忘れて走る。
だが、夜の世界というのは怪異の舞台。
男は、妖怪は、怪異は、すぐ後ろだった。
まず、父親の足を切断した。足がなくなって、走れなくなった父親は倒れてしまう。頭が理解できないうちに、ソレの腕は父親の胸を突き刺し、なかから赤いものを掴んで引きずり出す。大きく鼓動していたその心臓と一緒に大きな血管もズルスル引き出させる。ゆっくりとその心臓を握りつぶせば、周囲いっぱいに血液が飛び散る。父親の一番近くにいた赤井にも、手を握ったままの母親も、雨に打たれたように温かい生命を浴びた。
「え――、ぁあ?」
ソレは次に、母親を視界に入れた。大きく泣くように叫ぶそれと同じように、母親も悲鳴をあげた。それは母親の首に噛みつき、肉を抉ってから血管にしゃぶりつく。ソレが掴む母親の両腕からは骨の折れる音が響き渡っていた。母親はいっしょうけんめいそれを引きはがそうと両腕を錯乱させてそれをひっかいたり掴んだり爪を立てたりしたが、やがて動かなくなってしまった。
「おとうさん、おとうさん、おかあさんがあ……!」
涙を流して、赤井きよは父親の亡骸をゆすった。もう二度と目覚めることはない――しかし、ついさきほどまで赤井きよとその母親を守ろうとしていた父親だ。錯乱した赤井きよは必死に亡骸へ呼びかける。
「ア、ア、アア」
ソレは赤井きよの目の前に。涙を流して、口についている血を拭っている。地面には父親と母親の遺体。目の前にはとんでもない化け物。赤井きよは恐怖を払拭することができない。それでも、なにかしないと次に殺されるのは自分である。震える手を刀へ伸ばした。
刀は重たい。鞘から刀身を引き抜くだけでも一苦労。構えなんか知らない赤井きよはただ柄を握りしめ、その切っ先を化け物に向ける。
「なんで、なんでこんなこと、するのお」
化け物も同じように泣いている。
「ワ、カラナイ。ナニ」
化け物は惨状に気が付いた。
地面に転がっている死体が何であるのか、その赤い目に焼き付けていた。涙はいっそう溢れ、嗚咽のような金切り声を喉の奥から絞り出す。頭をかかえて、化け物は苦しみに悶える。震える切っ先は化け物に向けられるだけで振るわれることはない。そうしているうちに化け物は赤井きよに向けてゆっくり手をのばす。
「いや、やめて。来ないで……」
足を引きずって後退する。途中で小石がつっかかり赤井きよは転んでしまう。刀から手を離し、尻をついた。顔を持ち上げると、目の前には化け物が。
殺される。
全身から血の気が引いていく。死にたくない。死にたくない。死にたくない。生存本能ばかりが叫んで死を否定するのに、赤井きよには抗う力などなかった。諦めてしまうしか、赤井きよの選択はない。
「ア」
化け物は泣いて、泣いて、顔をぐちゃぐちゃに濡らして、枯れた声で言う。
「きよ、きよ」
それはへたくそな日本語ではない。何度も何度も繰り返し、練習した――。
「愛してる。きよ」
愛の言葉。
なんと、なんという悲劇か。なんと運命は残酷か。
彼はひっそりと赤井きよに恋慕を抱いていた。化け物なのに。吸血鬼なのに――。
赤井きよを心底愛していた。はじめは手負いだったため、助けを求めたのだが、一緒に暮らしていくうちに、いつのまにか彼女に恋心を抱いていたのだ。このまま吸血を忘れて、彼女と一緒に「普通」に生きていきたいと願った。そうなるよう努力した。まず話をしたいと日本語を勉強した。吸血しないよう、人間の食事を摂ってみた。昼間に起床して夜間は眠れるように目をつむったりした。どれもこれもが無駄だった。
しょせんは吸血鬼。
人の生き血を啜って生きる醜い化け物。
血を飲まずに生きることなど不可能だった。
吸血鬼は愛おし気に優しく赤井きよの頬を撫でた。熱いその指が触れて赤井きよは驚き、絶望する。これで終わりだと確信した。吸血鬼は着物の襟をずらして赤井きよの素肌を見る。生きている音がする。心臓が鼓動する、その儚い音が。蠱惑的な熱い視線で見つめ、甘い息を吐いた。舌を伸ばしごちそうを目の前に、彼は、吸血鬼は、口の中から鋭利な刃をみせる。
末端から順に温度が下がり、次第に意識は朦朧としてくる。赤井きよが最期に思うのは大きな絶望。そして吸血鬼に対する強烈な恐怖。大切な両親が死んでしまったことによる呆然とした空虚。
やがて痛覚も感情も心も麻痺していき、赤井きよの人生はついに幕を下ろした。
まさか目が覚めた時、見知らぬ土地で、家族と自分を殺した吸血鬼が笑顔で「おはよう」と宣告するなど――夢にも考えていなかった現実が待ち構えているとは思わなかった。
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