真夜中に沈んでいく・7

「これが、本当に最後のチャンスになるよ」


赤井が呟いた。それが何を指しているのか、九条にはすぐ理解できた。


「さっきの奴ら、なんなんだ。何に捲き込まれてるんだ?」

「……」


赤井は間を置いた。九条はこのチャンスを見逃すというのか。家に帰ることができる最後のチャンスを。世界の影を垣間見ることになってしまう前に。ここから先は通常なら「物語」の中の世界だ。非日常に転じる覚悟はあるのか。夜の中の、さらに闇の部分へ。

――九条にはそんな覚悟などない。ただ、目の前にいる少女をなんとか手助けできないかと考える人情の厚い少年の覚悟だけだ。


「巻き込まれてるわけじゃない」

「銃をもっていたり剣を持っていたり。あいつらは変だ」

「あんた、あたしが変だと思わないかい?」


九条は赤井の異常なほどの身体能力を目の当たりにしている。


「何者なんだ。あいつらも、赤井も」


その質問を待っていたと、赤井がわらった。九条の視界にははっきりと赤井は見えないが、彼女が嗤いながら九条の顔を覗き込んでいることはわかった。赤井が手を伸ばして九条の頬に触れる。そこには銃弾が掠ったためにできた切り傷が。人さし指で、頬に伝っていた血をすくってそれを赤井は飲み込んだ。


「あたしは吸血鬼さ」


赤井の言うことは嘘ではない。冗談ではない。その非現実的な言葉は本物だ。日常では触れることさえないはずの化け物である。通常なら赤井のその発言を真に受けることができる人はそういないだろう。吸血鬼とは嘘か冗談か何らかの比喩と受け止めるに違いない。

しかし九条は違った。赤井のその言葉をそのまま真に受けていた。疑心すら剥離されている。ついさきほどまでの記憶がそうさせているのか、奇妙な姉の体質が九条の思考を非現実的なものに寄せているのか。はたまた九条の本質か。


「驚かないのかい」

「驚いてる」


ただ疑わないだけだ。


予想外の反応に赤井はすこし間を置いたが、やがておもしろいと笑い始めた。


「とんでもない馬鹿かと思ったけど、そうじゃないね。いいじゃないか、九条。今更あたしに付添人ができるなんて考えもしなかった!」

「俺は赤井の非常食か」

「それもいいけど、せっかくできた……、そうだね。あたしたちは仲間だ。仲間を殺すほどあたしは非情じゃないし、そこまで血に飢えていない。他をあたるさ」


バシバシと九条の背中を叩いて赤井は笑った。本来、本物の吸血鬼が目の前にいると分かれば人は怯え、恐怖し、その場から逃げるか泣きわめくか、なんらかの大きな反応を示すだろう。素直に受け入れられるなんてまったく考えていなかった。


「あたし、吸血鬼になってからずっと一人だったんだ。だからすっごく嬉しい」


この日本にはそもそも吸血鬼が少ない。赤井が吸血鬼に変貌してから百年近く、ずっと一人で過ごしてきた。だから吸血鬼の自分を受け入れてくれる仲間ができるのは赤井にとってとんでもなく喜ばしいことだったのだ。孤独とはなにより赤井を責め立てるのだから。


「……一人?」

「そうだよ。吸血鬼って基本は単独行動だからね。本当に嬉しいんだ。ずっと、ずっと、押しつぶされそうだった」

「なにか溜め込んでいるのか?」

「いいや、九条に話すことじゃないんだ。ただ、今はすごく嬉しくて。……でもいいの? 本当はあたしが怖いんじゃない? 去る九条を襲ったりなんかしないよ」

「いまさら吸血鬼は怖くない。恐怖とか、不安や不幸なんて身近によくあった。それに、なにより、なんだか赤井に親近感がわく」

「変なこと言う子だね」


赤井はテーブルに置いてあったランプに明かりを灯した。地下の一室に逃げ込んではじめて点いた明かりが眩しくて九条は目を細くする。ずいぶん久しぶりに光を見たような気がした。そうすることで、やっと赤井の表情を見ることができた。彼女は本当に安心しきっているのか、眉尻がすっかり下がっている。肩を落としてリラックスしているようだ。九条がいうのもなんだかおかしなことだが、赤井のほうがよっぽど警戒心が足りないような気さえしてくる。

同時に、部屋の様子も知ることができた。どうやらここは小さなカフェだったようだ。床に固定されたテーブルがきちんと整列しており、意外にも埃が少ない清潔な空間であった。極端にインテリアが少なく、飲食店として寂しさはあるものの、今すぐにでも開店できそうな様子だ。


「赤井、さっき追ってきたやつらについて教えてほしい。たしか、ハンターって言ってたよな」


「あいつらはあたしら吸血鬼を狩る信仰深い集団だ。吸血鬼のほかにも人狼とかセイレーンとかグールとかインキュバスとか、まあ、たくさんの怪物や化け物を殺していってる敵だ」

「エクソシストみたいなやつ?」

「それをもっと過激にしたやつだと思ってくれていい。あたしたちとそいつらはどうしたって和解できない仲だよ。で、さっきの奴らは吸血鬼の討伐に特化したハンターみたいだね。あたしを殺しにはるばる南蛮からやってきたんだってさ」


たしかに彼らは赤井を見つけたとたん、殺気と敵意をまっすぐ向けていた。赤井はどうやら彼らから逃げている最中、九条と出会ったようだった。九条を吸血する目的で話しかけたところを見つかったのだろう。


ならば今、赤井は血を欲しているのではないだろうか。


「赤井、腹減ってるんじゃのか」

「へっ?」


ちょっと赤井の声が裏返った。


「な、なに、藪から棒に」

「さすがに全部の血をあげるわけにはいかないけど、少しなら赤井に血をあげられるんじゃないかと思って」

「なにを言い出すんだ、いきなり。何度あたしを驚かせるの」

「俺はハンターなんて相手どれない、むしろ赤井の足手まといだろ」

「その分析は正しいけど、仲間……というか、友達になってくれているだけであたしは十分助かってるよ」

「俺が赤井にできることといえば、血の提供くらいがせいぜいだ。それしかない」

「今の話聞いてた?」

「そもそも赤井は俺の血が目的だったんじゃないか?」

「むぅ」


図星のようだ。赤井は頬を膨らませてそっぽを向く。ぐう、と赤井の腹がなったような気がした。


「……なら、少しだけ」


少々遠慮がちに、赤井がぎこちない動きで九条を向いた。ならって、九条も赤井と正面から対面する。九条は首すじを噛んで吸血するのだと思っていたが、赤井は九条の手をとって口を近づけた。驚くほど冷たい赤井の手に九条は驚いて肩を揺らした。夏に触れたそれはひんやりとつめたい、というより冷たすぎる。陶器のような無機質な冷たさが、人間らしい熱を一切もたないその肌が、赤井の生命活動を否定した。

九条の指先に赤井は歯を立てる。鋭い刃のような八重歯が深く突き刺さる。


――とたん、九条の体温が急激に低下した。


地の底から這いあがってくるような寒気がじわりじわりと九条を侵食する。

背筋を撫でるような甘い快楽のあとに湧き上がるのは絶望と恐怖とぽっかり空く虚しさ。噛まれた痛みや吸血鬼の吸血に伴う快楽よりも、絶望が色濃く九条の中を満たしていく。


その絶望と貧血によって九条の思考がぼうっとしてうまく働かなくなったころに赤井が口を離した。


「九条、大丈夫?」

「……え、ああ……。うん。だいじょうぶ……」


ぼんやりとしているようで、九条は少々舌っ足らずになりながらも頷いた。やりすぎたかー、と赤井が九条のために椅子をかき集めて簡易的なベッドをつくった。九条をそこに寝かせる。九条はすんなりと赤井に従った。


「ほら、夜も遅いし疲れたでしょ。寝な寝な」

「ありがとう……」


九条が礼をいうと赤井はハトが豆鉄砲をくらったような顔をした。


「ふふ。なぁーに言ってんだか。お礼を言うのはあたしのほうだよ。血をありがとう。本当に助かったよ。ゆっくり休んで」

「赤井、そのあいだは……」

「昼間はハンターもあたしも動けない。あたしも寝るさ」

「そうか」


返事をしながらも九条は眠気に襲われ、次第にまぶたが重くなっていく。それを少しほほえましく、嬉しそうに笑いながら赤井は「おやすみ」という。

九条が昼間でぐっすり眠り、赤井が夕方までただ静かに眠ったその日の夜。ハンターたちに居場所が見つかってしまう前に二人は移動を始めた。

しかし外に出るということはそれだけの危険を伴う。九条と赤井がハンターを完全にまくまで二週間かかった。それまでハンターと遭遇し、戦闘になったのは五回。戦う力のないただの人間である九条はそのあいだ足手まといとなってしまっていた。赤井にとって九条が行動を供にしてくれるというのはそれだけで支えとなるのだが、九条は赤井を助けているという実感がわかない。足を引っ張ってしまっていることがどうしても後ろ髪引かれるおもいでいっぱいだ。たびたび赤井が九条に「ありがとう」といって九条が一緒にいてくれることに対しお礼を伝え、ハンターたちから九条を守る。赤井はそれでよかったのだが、九条は違っていた。


小さな地方都市にて、ついに九条と赤井はハンターたちに追い込まれてしまう。


真夜中のこと。赤井はついに負傷した。肩に銀の銃弾が入り込み、胴にはハルバートで深く斬り込まれたあと。腕には骨に到達してしまいそうなほど深い深い青龍刀が通った跡。ボタボタと血を流し、地面に大きな斑点を作る。赤井に肩を貸し、九条は河川敷にある橋の下で赤井の看病をはじめる。


「いや。いい」


それを赤井が断った。


「あたしはずっと、一人で生きて一人で死ぬんだと思ってた」

「突然なにを言うんだよ、赤井」

「孤独ってさ、すっごく辛くて悲しくて、それだけで死んじゃうってくらい寂しいもんで」


橋の柱にもたれかかって、赤井は幽かな笑顔を浮かべる。彼女の下には流血が溜まっていく一方だ。赤井が今にも消えてしまいそうで、九条は胸が苦しくなる。命が消えるというのは人間だろうと吸血鬼だろうと耐えがたしい事態だ。誰かが死んでしまうというのは何よりも恐るべきことで、避けなくてはならない。それが目の前で起こりうるというのなら、九条はこれを全力で阻止したい。


「このままずっと、孤独のまま、誰にも悲しんでもらえないまま死んでいくんだと思ってた。よかった。九条を殺すことはなかったし、これで、もう、誰も殺さなくていい……」


幽かな笑顔は次第にはっきりと明確に笑ってみせる。


「ありがとう、九条。九条が看取ってくれるなら、あたしは幸せだと胸を張れる。どうか、九条は長生きをしてね」


赤井が重たいまぶたを開けて懸命に九条を見つめる。九条の頭を両手で撫でる。その腕や肩には激痛が走っているだろうが、九条の頭をやさしくやさしく撫でるのだった。


「嘘だろ……」


赤井のその行為は、その言葉は、死を受け入れていた。


「……嘘じゃない。あたしは、死ぬんだ。あたしは……」


九条は両手で赤井の傷口を押えた。止血にもならないが、その流れていく血をなんとか止めたかった。赤井に死んでほしくないと切望した。赤井の口から懺悔がこぼれる。九条を巻き込んで申し訳なかったと。そんな言葉を九条は求めていない。

赤井に生きていてほしいと願う九条は、足手まといだった九条は、赤井を助けられるかもしれない唯一の手段を思いついた。


自らの血の提供。


これこそが、赤井を救う唯一の手段だ。ずっと足をひっぱり、なんの役にも立たなかった九条が赤井にしてやれることといえば、これしかない。そうと決まれば、それは決心へと変わる。九条はここで赤井のために幕を閉じることを決意したのだ。


そうして、九条は赤井へ全身の血を一滴残らず捧げることとなった――。


誤算といえば、九条が吸血について詳しくなかったという点だろう。


九条の生存を願う赤井があっさりと九条を殺すわけがないのだ。吸血鬼が眷属として手下に吸血鬼を作るとき、全身の血を吸い取ってから吸血鬼の血を逆流させ、被害者に流し込む。吸血鬼の血を体内に取り入れた人間は、その血が体内を駆け巡り、吸血鬼として息を吹き返す。人間として死を迎えるが、こうして後天的な吸血鬼となりえるのだ。

吸血鬼として生まれ変わるが、こうすることで九条の人生は続く。九条の血を得た赤井は回復し、九条も生存することができる。


これが最善であり、最良だった。


赤井は本気で九条の生存を願っていた。これに嘘偽りなどない。九条に語ったことはすべて彼女の本心であり、本当。心優しい吸血鬼だった。思いやりのある少女だった。


――彼女のその優しさが、彼女自身の首を絞めていたのだが……。

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