真夜中に沈んでいく・6

「……は?」

「丑三つ時に一人で出歩いてちゃ危ないよ。おうちに帰らないのかい?」


ほらほら、と九条の背中を押してくる見知らぬ少女。九条はされるがまま立ち上がったが、動かなかった。見たところ、彼女も一人だ。ここには目の前の道路にたまに車が通る以外人気はなく、生き物すべてが眠りついている。九条よりも少女の身のほうが危険な気がした。そして九条に対しての第一声が九条の足をその場に縫い付けている。


「腹減ってるのか?」


九条は手元の缶コーヒーを見下ろした。これは砂糖少なめだが、彼女の口に合うだろうか。


「んー、まあ、すっごくお腹すいてるけど」

「ガムならある」

「いいよいいよ。優しいねぇ」


少女は背伸びをして九条の頭を撫でた。九条は彼女が満足するまでされるがままである。


「夜は怖いよ、危ないんだよ。おばけとか出てくるんだから」

「ガキ扱いしてるのか。……俺は家出をしたんだ。帰らない」

「おやまあ」


少女はベンチに座り直し、目を丸くしていた。長いまつげを揺らしてパチクリしている。それから「まあ座んな」と自分の隣を軽く叩いて指した。


「あたしは赤井きよ。なんで家出したの? あんた、見たところ中学生? 名前は?」

「九条、悠」


少しだけ話した。姉が特異体質であることを変に思われないようオブラートに包んで。そうすると赤井はふむ、と顎に手を添えて唇を尖らせた。


「そうすると、もう九条がいなくなって困る人はいないってわけだ」

「……、そうだけど」


帰る場所が、そもそも居場所を捨ててきたのだ。これからは九条がいなくなって困る人はいなくなるだろう。

きっと姉は心配するだろう。朝起きて、いつものように朝食の準備をして。いつもの時間になっても起きる気配がない弟を起こしに彼の部屋に入ったらもぬけの殻になっているのだ。きっと彼女は泣いて、寂しがって、心配して、悲しむだろう。けれど、九条はそうすることでこれ以上彼女を傷つけないように逃げるのだ。唯一の家族を失わないために逃げるのだ。


「俺はもう帰らないからな」

「なるほど、それは都合がいい!」


しんと静まり返っている真夏の夜に彼女の声が響き渡った。


「あたしはいま空腹なんだ! 残念なことに血を欲している。醜悪なことに本能には逆らえないみたいなんだ」


九条が口をはさむ隙などない。赤井は立ち上がると九条の真正面に立ち、にんまりと笑ったのだ。そうして、九条の両肩にそっと手を置く。ひんやりと冷たい手だ。氷よりも冷たく、ひんやりと九条の温度を奪っていく。


「少し辛い気持ちにさせてしまうけど、手早く済ませるよ。……本当にごめんね。九条悠」


九条の襟に赤井の指が入り込み、引っ張る。九条の首がさらけ出された。


これから何をされるのか。なにか恐ろしいことが起きようとしているのではないかと巨大な不安にかられる。引き返すなら今、この瞬間しかない。見過ごしてしまえば三途を渡ってしまうような恐怖が溢れてくる。


今だ。今!

赤井の肩を押して来た道を全速力で戻るのだ。


そうしなければ、目の前の化け物に――。


しかしどうしてか、彼女の瞳から目をそらすことができない。金縛りにあってしまったのだろうか。なにかに憑りつかれてしまったのだろうか。脳が身体に信号を送っても反応がない。


「捕食か。俺らを前にずいぶん余裕じゃん」


ふいに乱入したその声に九条の金縛りは解けた。赤井が離れ、安堵の息が吐き出される。

道路の向こう側に現れたのは三人組だ。発したのは褐色の大男だった。黒髪と、遠くからでもよく見える青い瞳がまっすぐ赤井を睨んでいる。彼の後ろには肌の黒い小柄の女性と透き通った肌で赤毛の女性だ。


「一般人に手出しはさせません。いますぐ離れなさい。三秒の内に離れないようなら引き金を引きます」


肌の黒い女性は大きなマスケット銃を両手に、照準をまっすぐ赤井に向けていた。

その物騒で非現実的な銃火器を初めて見た九条は「え」と喉の奥からかすれた声を洩らす。それは明確に、殺人の道具であると頭に叩きつけられる。ゆっくりと、三人組が手にしているものを確認してみる。マスケット銃のほかに、褐色の大男は斧と槍が混合したような武器、ハルバートを持っている。赤髪の女性は青龍刀を一本ずつ両手に持っていた。


「ハンターめ。もう見つかったか」


舌打ちとともに赤井が悪態を洩らした。それからすぐに九条の腕を引いた。九条が驚く暇もなく、赤井は九条の手を引っ張ったまま駆け出した。足が浮いているような錯覚がある。赤井の歩幅は大きく、そして足が速い。九条が片足を離してもう一度地面に着けたとき、十メートルは移動している。背後から銃弾が地面を抉るような音がした。


「なっ、なんなんだっ!?」


やっとのことで九条は口を開いたが「喋ってると舌を噛むよ。気をつけな!」と赤井に怒鳴られてしまった。文句の一つでも言おうと九条は口をもう一度あけたものの、赤井の言うように舌の端を噛んで出血してしまった。大人しく黙っていることにする。


「あたし、あれに追われてんの」


赤井が顎で背後を指す。九条が後ろを振り返ると、赤上の女性を筆頭に褐色の大男が逃げる赤井と九条を追っていた。一番奥ではマスケット銃を持った肌の黒い女性が何度も射撃しているではないか。九条がまさか本当に本物かと考えた瞬間、頬に痛みが走った。同時に熱くなる。撃たれた。掠った程度だが、銃弾が九条の頬をよぎったのだ。


赤井はビルが密着して立ち並ぶオフィス街に入り込んだ。細い裏路地を選んで駆け抜ける。表の路地と違ってゴミが散乱し、埃やすすがこびりついていて不衛生だ。それ以上に障害の多い裏路地を赤井はスピードを緩めず、隙間を縫って進んでいく。赤井の動きに追いつけない九条は彼女に抱えられていた。恥ずかしい格好ではあるが、今は気にしている場合ではない。命の危険がある。背後からの銃弾は止まず、赤髪の女性はもうすぐそこまで迫っている。


「仕留める!」


赤髪の女性が大きく跳躍した。背後から弾幕。マスケット銃でどうして弾幕ができるのか定かではないが、その弾幕が赤井の行方を奪ってしまった。銃弾を避けようとたたらを踏んだ赤井の目の前に赤髪の女性が。二本の青龍刀が滑らかに赤井の首を狙う。赤井は九条を抱えたまま赤髪の女性の腕を蹴り上げた。赤髪の女性は武器を手放すことなく、赤井に蹴られた勢いのまま大きく飛び下がった。後退した赤髪の女性が空中にいる間に赤井は再び走り出す。


「なにしてる、ホンファ!」

「ごめん!」


褐色の大男が地面を強く蹴って、赤井に急接近した。褐色の大男のうしろに着地した赤髪の女性も同じく赤井へ距離を詰める。赤井は足元に並んでいるゴミ箱を次々と倒して道をふさいだ。障害物に足を取られた三人組と次第に距離を離していく。何度も角を曲がって、彼らを見事にまき、赤井はすぐそこにあった地下への階段を駆け下りた。「立ち入り禁止」「テナント募集中」と書かれた看板など見向きもしない。鍵などお構いなしに力づくでドアを開けると、やっと九条を肩からおろした。


「ごめん。咄嗟に九条を連れてきちゃった」


後ろ手で鍵を閉めて、赤井は申し訳なさそうに頭を下げた。


「はあ、咄嗟って、おま……。はあ、はあ」


九条自身が走っていたわけではないが、妙に疲れて息切れをしてしまっている。大きく呼吸を繰り返して息を整える九条を赤井は見守った。やっとのことで九条の息が整うと、赤井は近くにあったテーブルに九条を案内した。

九条と赤井が入った地下の空間は真っ暗で電気など通っていない。灯りなど一切ない真っ暗闇の中で九条の視力は役に立たない。そもそも九条は視力が低下して眼鏡をかけているので、正確な視力の云々は置いておく。

赤井に手を引かれて、木製の椅子に座る。九条の隣には赤井が座った。


「これが、本当に最後のチャンスになるよ」

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